Ca101の近代化型として1933年早々に計画され、Ca101Eをベースとしてロドルフォ・ベルドゥツィオ技師が改設計を担当し、1934年12月に試作機が初飛行した。
鋼管骨組みに羽布張りの構造は維持しつつ、特に機首とエンジンナセルを洗練し、また機内レイアウトはかなり改められた。これにより、旅客機として使用する場合、Ca101が8座席であったものが倍の16座席となった。
機銃は左舷貨物/乗降ドアの上部から撃つ1挺、機首下面の前下方向け1挺、腹部下面の後下方向け1挺、背部の旋回銃座に1挺の計4挺、爆弾は胴体下250kg2発を最大とする500kgまでを搭載できる。
例によって、まずは民間輸送機として就役を開始し、アラ・リットリア航空が1935年早々に数機を受領したが、すぐに続いて軍用機型の納入が始まった。
軍用の汎用型はCa133Jと呼ばれ、エチオピア侵攻にもソマリア方面から1個スクァドリッリアのみではあったが新鋭機として参加している。この他、輸送専用のCa133T、患者輸送用のCa133Sなどのサブタイプがある。
Ca133の総生産数は525機であるが、空軍機としては419機が生産され、その大部分はCa133Tであった。また、オーストリア陸軍航空隊は1937年に6機を導入し、Ca101を更新して爆撃機として使用した。
軍用機型はまず爆撃機として任務についたが、同時期に登場してきたSM.81、試作が進んでいたBR20に比べて低性能であり、すぐに輸送機としての使用がメインとなった。
大戦中はSM.82と並んで主力輸送機として使用され、イタリア軍の戦った戦線全てに姿を現したと言って過言でない。
また、1935年に脚をエンジンナセルに引込むようにしたCa.142が1機のみ試作されたが、性能の向上はCa.133に比べてわずかであり、かえって構造の複雑化や整備性の悪化から稼働率の低下やコスト増加が懸念されたため、生産に入ることはなかった。
Ca148は操縦席位置を91センチ前に出し、操縦席からの視界を改善するとともに座席数を18席に増やし、降着装置を強化して、貨物扉をやや大きくして、更に後方に移すことで乗降や荷物の積載卸下を容易とした東アフリカ・スペシャル版のマイナーチェンジで、1938年に登場し、6機が生産された。
本機は(イタリアでは)有名な「I-ETIO号脱出劇」の主役として知られる。
1941年10月、英軍の侵攻によりまさに失われんとしている東アフリカはエチオピアのゴンダル飛行場から、民間機符号に塗り替えたCa148の1機がルサルディ大尉の操縦により脱出してきたのである。航法手にバッジオ少尉、機関手にバリーッリ少尉を乗せ、胴体内にガソリン缶を満載し、途中何度か着陸しながら5000kmを翔破して、ローマ近郊のウルベ飛行場まで帰り着いたのであった。
休戦後は共同交戦空軍側に1機が残存しており、戦後まで生き残って1956年まで飛んでいた。
Ca133J | Ca148 | |
全幅 | 21.24m | 同じ |
全長 | 15.35m | 同じ |
全高 | 4.00m | 同じ |
翼面積 | 65.00m2 | 同じ |
自重 | 4,000kg | 4,100kg |
全備重量 | 6,565kg | 5,970kg |
武装 | 7.7mmブレダSAFAT機銃*4 爆弾500kg | なし |
発動機 | ピアッジオ・ステラP.VII C16 空冷星型7気筒 460馬力 | 同じ |
最高速度 | 280km/h(1,000m) | 290km/h(1,000m) |
巡航速度 | 230km/h | 同じ |
実用上昇限度 | 5,500m | 同じ |
航続距離 | 1,350km | 1,500km |
乗員 | 3〜5名 兵員18名 | 3名 乗客18名 |