サヴォイア・マルケッティ SM.74
 SM.74は高翼単葉の四発大型旅客機であるが、製作されたのは3機のみである。原型は1934年11月16日に初飛行した。
 設計の基礎となったのは1932年の三発旅客機SM.71で、これの四発化大幅拡大版と言ってよい。主翼は全木製、胴体は鋼管骨組に合板と羽布張りというサヴォイア・マルケッティの標準的な構成で、エンジンは700馬力のピアッジョ・ステラXであるが、3号機はアルファ・ロメオでライセンスしていた845馬力のペガサスIIIを装備していた。
 1937年にはペイロード10トンを積んで1000kmのコースの平均速度322km/hという記録を出している。
 3機ともアラ・リットリア航空が使用し、1号機(原型機)は1935年3月27日に引き渡され、2号機と3号機は同年冬に納入された。
 まずローマ〜マルセイユ〜リヨン〜パリを結ぶ航路に就航したが、1936年夏にはローマ〜ブリンディシ間の国内線に移った。というのは、ローマ〜マルセイユ間は陸地上空を迂回して飛ぶのだが、リビエラでアルプスのふもとを越えるのに乗客数を24名に制限せねばならず、更に乗客用の酸素マスクを配置する必要があり、機体規模が大きいこともあっていまひとつ採算が良くなかったためである。

 機体が大型でペイロードに優れていたため、開戦直前には空軍に徴用され、3機とも第604輸送スクァドリッリアに所属しベンガジを基地として北アフリカ〜本土間の輸送飛行に就くこととなった。
 1941年10月23日に3号機(登録記号 I-ALPE)が本土上空で曇天のなか高度を誤って山に衝突し、11月2日にはベンガジのカステル・ベニート飛行場で英軍の空襲を受けて1号機が破壊されて相次いで2機が失われたが、2号機は本土に引きあげられ、1943年7月19日にローマのウルベ飛行場で米軍の爆撃によって失われるまで、民間人や患者の輸送に飛行を続けた。
 ウルベ飛行場は民間機時代に発着地だった飛行場で、2号機は故郷に骨を埋めることができたと言えようか。

(文章:ダリオ・マナカジーニ)


アラ・リットリア航空のSM.74 2号機(登録記号I-ROMA)

諸元(アラ・リットリア航空1号機 登録記号I-URBE)
全幅29.68m
全長21.36m
全高5.50m
離陸最大重量14,000kg
武装なし
発動機ピアッジョ・ステラX RC 空冷星型9気筒 700馬力
巡航速度300km/h
実用上昇限度7,000m
航続距離1,000km(過荷重2,000km)
乗員4名 乗客27名

[戻る]