サヴォイア・マルケッティ SM.82カングール

 サヴォイア・マルケッティ社では、イタリア空軍の新型重輸送機の要求に対し、同社のSM.75を大幅に拡大する方針として大型三発機を計画し、1939年に初飛行させた。
 全体にはサヴォイア・マルケッティ社スタンダードの木金合成構造、主翼は重量増大に対応して桁を強化し、発動機及び脚の強化のためにナセルも多少大型化しているが、外形寸法と翼型は変更していない。胴体は多少長く、高さは大幅に増し、下にも膨らませたので中翼配置となった。また、これに伴って垂直尾翼も1メートルほど高くなった。
 発動機は860馬力のアルファ・ロメオ128 RC18と低馬力であるが、ペイロードは最大7.2トンに達する。ガソリンは2200リットル、航空機エンジン6基、CR42戦闘機も分解して1機丸々を運ぶことができた。
 この他、兵員は正規で40名、詰込みで短距離輸送であれば67〜70名、完全武装の空挺隊員で28名を輸送できる。
 後期生産型はAR128 RC21 950馬力に強化されたが、性能はほとんど変わらなかった。
 爆弾倉扉を兼ねる大型の貨物扉が胴体底面にあり、大型貨物はここを通して積載された。SM.82はカングール(Canguru:カンガルー)という愛称を持つが、このあたりが命名の由来なのであろう。この貨物扉部分は扉と床面の二重底構造になっており、強度的には心配ない。また、機内にも重量物取扱い用の装備と強化されたフレームがあり、積載卸下作業もスムースになるよう工夫されていた。
 爆撃機として使用する場合、貨物室床面を外して爆弾倉ユニットを取付け、機首下面のパネルを外して爆撃照準器をセットする。
 この場合の爆弾搭載量は4トンに達し、ピアッジオP.108をも上回る搭載量であったが、この任務に使われたことはほとんどなかった。

 SM.82原型機の初飛行後すぐに、試作3号機を改造して胴体内まで燃料タンクでいっぱいにしたSM.82PDで、航研機の記録を破るべく周回飛行に挑んだ。
 1939年7月30日にローマ郊外のウミチオ飛行場を飛び立ったSM.82PDは12935.55kmを57時間1分で飛び、8月1日に同飛行場に着陸して、FAI公認記録を塗り替えた。
 民間使用も考えた輸送専用型は1939年10月30日、爆撃兼用型は1940年2月5日にそれぞれ初飛行を行なったが、当初はピアッジオP.108の開発が遅々として進まないことを憂慮した空軍の方針により、爆撃兼用型が優先して生産されることとなった。
 この結果として数カ月を空費し、1940年の参戦時にはわずか12機が爆撃隊として任務についていたに過ぎないが、その後の量産はイタリアとしてはかなりのピッチで進められ、MMナンバーが与えられたもの(つまりイタリア航空省が把握しているもの)721機、更に休戦前後に完成してナンバーが与えられなかったものが154機あるとされる。
 このうち、約400機は輸送専用型として完成している。
 それまでも爆撃飛行隊がSM.82を使用して輸送任務についてはいたのだが、専門の輸送飛行隊にSM.82が配備されるようになるのは1941年になってからのことであった。
 その後はイタリア軍の戦線の至るところへ飛び、またドイツ空軍にもまとまった数が貸与及び供与され、ヨーロッパを縦横に飛び回るようになる。
 休戦後もドイツ軍及びANRと連合共同交戦空軍の双方で使われた。
 更に、戦後まで生き残った50機ほどは新生イタリア空軍の輸送機として飛び続け、エンジンがくたびれ果てると米国製のP&Wツインワスプに換装された。1950年代前半から徐々にフェアチャイルドC-119Gパケット(「フライング・ボックスカー」で知られる)と交替したが、30機ほどが1960年に構造疲労でリタイアするまで飛行を続けた。

(文章:ダリオ・マナカジーニ)


飛行中のSM.82

航空機エンジンを搭載または卸下中の状況

諸元
全幅29.68m
全長22.95m
全高6.00m
翼面積118.60m2
自重10,600kg
全備重量18,000kg
武装12.7mmブレダSAFAT機銃*1 7.7mmブレダSAFAT機銃*3〜4 爆弾最大4,000kg
発動機アルファ・ロメオ128 RC21 空冷星型14気筒 950馬力
最高速度370Km/h(4,000m)
巡航速度325Km/h
実用上昇限度6,000m
航続距離3,000km
乗員4〜5名 兵員40名(貨物7,200kg)

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