ウェストランド・ワピティ
 英空軍が第一次大戦機の在庫を更新するために、戦後初めて作った軽爆・直協・偵察兼用の汎用機。
 仕様書26/27に基づき、1926年に開発が開始された。
 一機種で多くの用途を済ませよう、しかも第一次大戦機の更改を1926年になってやっと始めようという姿勢の裏には、戦後の厳しい空軍予算への締めつけがある。
 これまでこの用途は主にエアコ(デ・ハビランド)DH9Aが充てられていたが、仕様書26/27には『新型機は要求性能を満たす限りにおいてDH9Aとの共通部分を可能な限り大とする』という一項が設けられている。
 ウェストランド社は第一次大戦当時エアコの下請としてDH9Aの開発に携わり、組立て自体も生産機のほとんどがウェストランドの工場から出ていたのでDH9Aに関してはお手の物であった。
 わずか半年あまりで原型機を初飛行(1927年3月)させ、Mk.I生産機25機の初期契約をかちとることとなる。
 外見からざっと見ても、複葉の下翼、脚、後部胴体、水平尾翼、方向舵、尾橇、操縦索系統はDH9Aのものがそのまま使われていることがわかる。
 各型合計517機が1932年までに製作され、このうちの80機あまり(主としてMk.IIA)は1939年9月の開戦時にもなおインドの数個飛行隊で現役の作戦機であった。
 1941年にライサンダーの飛行隊が到着して、ようやく全てのワピティは引退することができたが、ワピティ装備部隊はホーカー・オーダックスで更新された。
 少しは新しくなっているが、依然として旧式複葉機であり、インド・中東方面の直協部隊がライサンダーやハリケーンあるいはヴェンジャンスですっかり更新されるのは1942年半ばを過ぎるのを待たなくてはならない。
 引退したワピティは現地で練習機となり、なおも1944年まで飛んでいる。物持ちが良いにもほどがあるように思う。

 オーストラリア空軍はMk.IAを9機、Mk.IIAを34機保有しており、30年代初めに一線任務を引退してからも1940年6月頃まで練習機や練習用グライダーの曳航機として使用を続けた。
 カナダ空軍は英空軍の中古Mk.IIAを1936年にもなってから3機供与され、練習機として使用。カナダは命名元のワピチ(キジリジカ)の産地でありながら、ひどいボロボロのワピティを受け取ることになり、"Wapiti"じゃなくて"What a pity"だとカナダ空軍の将兵が嘆いたといわれる。
 南ア空軍はMk.IB 4機とMk.III 27機を使用、一部は1940年にエリトリアとソマリアでイタリア軍との戦闘にも参加している。南ア空軍でも練習機として長く使われ、やはり1944年頃までは飛ばしていた。
 また、中国空軍がMk.VIIIを4機購入している。

Mk.I 原型機とほぼ同一の初期生産型。ジュピターVI 420馬力装備。25機
Mk.IA 主翼にハンドレ・ページ式前縁スラットを装備し、ジュピターVIIIF 480馬力を装備。前縁スラットは以降標準装備となる。38機。
Mk.IB 草地での発着に適するように脚の車軸を左右で結ばず車輪を片持ちとし、高地での発着を考慮してエンジンをアームストロング=シドレー・パンサー550馬力に強化したアフリカ向けバージョン。
Mk.II これまで胴体構造材が木製だったのを改め、鋼管骨組みに改めたもの。試作1機のみ。
Mk.IIA Mk.IIで向上した胴体荷重倍数に合わせて翼構造を強化したもの。最多生産型。
Mk.III Mk.IIAの発動機をアームストロング=シドレー・ジャガーVI 490馬力としたもの。南アでライセンス生産され、南ア空軍のみ装備。27機。
Mk.IV 設計のみ。
Mk.V Mk.IVの胴体を延長し、各部に改正を加えたもの。試作4機。
Mk.VI Mk.IIAの後席に操縦装置を設けた中等練習機。16機。
Mk.VII Mk.Vの1機を改造した武装及び運用研究用の実験機。1機のみ。
Mk.VIII Mk.IVの線図を使用し、発動機にジャガーVIを搭載した中国向けモデル。4機。

(文章:まなかじ)

Wapiti Mk.IIA
オーストラリア空軍のワピティMk.IIA


諸元(ワピティMk.IIA)
全幅14.15m
全長9.65m
全高3.61m
翼面積43.48m2
自重1,730kg
離陸最大重量2,450kg
武装ヴィッカーズ7.7ミリ機銃*1(前方固定) ルイス7.7ミリ機銃*1(後席旋回) 爆弾260kg
発動機ブリストル・ジュピターVIIIF空冷星型9気筒 480馬力
最高速度230km/h(1,500m)
実用上昇限度6,280m
航続距離850km
乗員2

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