これ、天然なんです(笑)

美しい黒髪を守る16万おまけ


 「アサヒグラフ」昭和18年4月21日号の「国土防衛の女尖兵」と云う記事に掲載された、東部軍司令部女子通信隊員である。
 彼女達の仕事は、監視所からの電話連絡の応対と、その情報を情報室の「情報台」に入力、作戦室の「地図板」に敵機来襲の情報を表示させると云う、帝都防空の影の最前線にある。

 記事によれば、この「女子通信隊」は、東部軍司令部が初の試みとして、全国から募集したもので、教育期間を経て18年3月から、任務についている。寮生活で、6時起床で21時就寝。非番の時には、生け花・裁縫・料理の講習などを行って「婦道の練磨を怠らない」とある。隊員資格は17〜25歳(記事には何も書かれていないが、独身に限られるのだろう)で、国民学校卒業以上。志望者は軍司令部に申し込むこと、と書かれている。

 戦争と女性との関わり、と云う観点に立ってみれば、「兵士の母」「男性の代用としての労働力」(あくまでも戦時における措置である、戦争が終われば家庭に帰るべきもの)と位置づけられ、その具体例としては、「看護婦」「勤労動員」「慰安婦」が三本柱として有名である。それらに関する言説も、いちいち読むのも面倒なほど存在しているが、そう云う本を読むのは趣味で無いので、具体的な書名は挙げようがない。ただ、女子通信隊員の存在を前面に出した文章は読んだ記憶がありませんね、とだけ書いておく。

 しかし、こうやって「兵器生活」のネタにする以上、少しくらいは付加価値を付けておかないと、主筆としても面白く無い。そこで、昭和館に足を運んで資料を探してみたのである。そこで見つけたのが、「若き日の防人たち」(八丈三原会)と云う本。これは女子通信隊を含む、東部軍情報隊の記念誌なのだが、ここに元女子通信隊員による回想が記載されているのである。
 今回掲載した写真は「アサヒグラフ」のものであるが、以下に引用される文章は、この本に掲載されたものよる。

  「女子通信隊員」(今井ぶん)によれば、隊員は飯田橋職業紹介所、ポスター、新聞広告などで募集され、条件は
 班長 専門学校卒、25歳以上の独身者
 通信員 女学校程度の学力ある25歳以下の独身者
 で、学科・面接試験と体格検査で選別されたとある。昭和17年12月1日入営、訓練ののち、翌18年3月15日から任務についた。よって「アサヒグラフ」の記事は、誕生間もない時期のものである。また、同書収録の「女子通信隊員の思い出」(岩城とも子)では、「東京市内の自宅勤務の者以外は官舎生活で」とあり、全員が寮生活をしていたわけでは無いようである。
 人数は同書の記事こどにばらつきがあるのだが、当初は約180名。昭和20年8月まで15次の増員が図られ、敗戦時には約370名が在隊していたと云う(別の記事では800名とも)。

 女子通信隊員の上着(ダブルである)の左胸には<荒鷲に『防』の字>の徽章、右腕には<大和撫子>のマークが付けられている。

 敵機の模型を持って談笑する隊員達。右腕のマークが<大和撫子>

 行進する隊員。ダブルの上着にキュロットスカートの制服に、踝まであるクツを履いている(長ストッキングでは無いようだ)。ノーネクタイである事に注意。左端の隊員は、ブラウスの上にセーターを着ている。

 元隊員の長島かつ子氏は、「あの頃」と云う文章の中で、当時の服装について「オリーブ色のツーピース。ヒダの入った襠(まち)のあるスカート、裾は紐付きになっていて時にはその紐をくくる時もあるのです、靴は短めの編上で帽子は同じ色のツバの折り返ったものを横に被る。」と回想している。
 このようなカチっとした服装の一団が隊列を組み、宿舎から職場、あるいは靖国神社へ歩む様は壮観だったようで、「頭右」をされた将校が驚いたと云う記述が複数書かれている。

 敵機の模型がつり下げられた中で、情報台を操作する通信隊員。電波警戒機甲(のちに乙も)と、監視哨での肉眼による敵情報を、作戦室中央の地図板と表示盤に表示させるのである。

 監視所からの情報が、作戦室に伝えられ、空襲警報の発令に至るプロセスを、映画「敵機空襲」(松竹 昭和18年)で見ることが出来るのだが、ここでは「女子通信員」(今井ぶん)の文章を元に紹介してみる。

 東部軍管区内に展開している監視哨での肉眼監視と電波警戒機による情報が集約され、情報標示送信機によって作戦室に標示される。監視哨から電話で監視隊本部、そこからまた電話で情報室に伝達されるのである。各監視隊本部からの電話を、彼女達が受けていたわけだ。
 情報は、1.監視哨名、2.発見時刻、3.発見方向、4.敵・味方の別、5.機種、機数(確認出来ない時は爆音の大小)、6.高度、7.進行方向の順で伝達され、通信隊員はそれを復唱しながら情報台を操作して、作戦室に送る。

 情報台の操作は、情報台の構造が明確になった資料が無いので、一部想像で記す。上にあげた写真を見る限りでは、押しボタンが多数並んでいるようにしか見えないので、カッコ内の一部は想像である。

 「情報」「二番、大原」(監視哨のボタン>作戦室の地図盤のランプが点灯して、地図盤横の表示盤に地名が表示される)
 「10時12分」(時刻のボタン>表示盤に数字が表示される)
 「南東」
 「敵」(敵、味方のボタン>表示盤に内容が表示される)
 ※敵の場合、情報台の上に敵の意味の赤旗を立てる
 「小型、5機」(機種のボタン>表示盤に内容が表示される、機数のボタン>表示盤に数字が表示される)
 「高度、100」(高度のボタン>表示盤に数字が表示される)
 「北西」(進行方向のボタン>表示盤に内容が表示される)
 「諒解」(通信終わり)
 ※所定の用紙に(以上の)情報を書いて提出する

 これらの情報を元に、情報室隣りの作戦室で、警報発令が決定されると、今度はそれを各監視隊本部に伝達し、伝達終了を意味する黄色旗を立てると云う流れになっているようだ。警報発令から、警報解除に至る間も監視哨との連絡はあるはずだが、本には具体的な記述が無い。

 女子通信隊員の仕事=敵情報の伝達、は興味深いものであるが、資料は乏しいし、まとめるのは面倒だし、それ自体がネタになるので、別の機会に廻すことにする。本題はここからである。
 下の写真に写った彼女達の髪型を、生活指導の教員よろしく見ていただきたい。

 切りそろえられた髪が、波打ちながらきれいにカールしているのがお判りいただけるはずである。一番最初に紹介した写真の隊員は、見事なウェーブを見せている。どうみてもパーマだ。帝都防衛を担う女性(彼女達はれっきとした<軍属である>)は、日本婦道にもとる、かような敵性髪型をして堂々と雑誌の一頁を飾っているのである。
 女性の髪型の話を堂々と書けるほどの知識は無いので、「黒髪と化粧の昭和史」(廣澤 榮、岩波書店)を片手に以下続けるのであるが、波打ったような髪の毛を人工的に作り出すことを始めたのは、フランスの理容師マルセルさんである。これは焼き鏝を使ったもので、マルセルウェーブと称されている。パーマネントウェーブ、すなわちパーマが日本に紹介されたのは大正10(1921)年で、機材が日本に持ち込まれたのは大正12年、関東大震災の年である。横浜に陸揚げされる予定が、震災のため神戸に渡ることとなったため、日本パーマ発祥の地は神戸、と云うことになるようだ。大正末期から昭和初期は、一部の女性が髪を短くし始めた時期にあたるわけだが、それと並行して髪の毛を波打たせたり、縮らせたりするようにもなった、と云うことである。
 ※戦前日本で行われていたパーマは、アルカリのパーマ液と電熱器を用いたものであった。現代主流のパーマは「コールドパーマ」と呼ばれる、その頃とは別な薬品を用いたものである(熱を加えないため『コールド』と云う)。一口に「パーマ」と云っても、仕上がり以前の段階で色々種類があるわけで、ややこしい事この上ないのだが、とにかくここでは人工的に髪の毛の形状を加工したものを「パーマ」としている。

 髪が短くなっただけで世間が驚くくらいであるから、縮れた髪はさらなる驚愕であったはずである。パーマ>高価>有閑夫人・女優=カタギじゃない、と云う偏見は強い(と書く私自身がパーマ=不良、と云う偏見を未だに持っている)。国家総動員法が制定され、中国との戦争が長期化する、と云う空気が強まる昭和14年、大阪の美容協会は業界の生存をかけ、時局迎合型パーマ「淑髪」を発表する。上にあげた写真が、「アサヒグラフ」昭和14年10月4日号に掲載された「淑髪」である。
 「洋装の令嬢向」「和服の若奥様向」「職業婦人向」「中年婦人向」「和服の令嬢向」等の「淑髪の基本型」が紹介されている。正直なところ、どれも私の好みでは無い。

 

「淑髪颯爽」と云う見出しのついた写真。
「淑髪はハリ切って行く秋の街」では川柳になりませんか。若奥様向きの淑髪の颯爽ぶりです。嫌味のないモダンぶりがまさに身上、身上ー
 このように「淑髪」を持ち上げつつ、従来のパーマに対しては「にらまれた電髪」として

 (左)「水菜の逆立」とはよく言ったもの。お好みとあらば是非もないが、戦時下の娘さんはまず慎ましく、あっさり淑髪と行きましょう
 (右)清らかには装えど、蟹の頭をいかにせん。お嬢さん、「精動」に睨まれる前に、まずその頭はもう流行おくれなんですよ!
 と容赦がない(笑)。
 しかし、「淑髪」であろうがなかろうが、「パーマネントはやめませう」の時代である事には変わりがないのだ。

 同じ「アサヒグラフ」に掲載された漫画である。あくまでもパーマが断罪されているところに注意されたい(ツーピースの水着姿は見逃されているのだ!)。

 斯様に目の敵にされたパーマなのであるが、私の認識とは異なり、対米英戦争が勃発しても尚、する人はしていたのである。当時のパーマは「電髪」と称されたように、パーマ液と電熱器を用いるのだが、電気の供給が滞ると、熱源を木炭に求め(木炭も統制品であるから、客が持参するのである!)、薬品を代用品に替えるなどの工夫をして、需要に応えていたのである。
 「ある職業婦人の日記」と云う、戦前・戦中を高島屋、大阪市役所、大阪商工経済会に過ごした人の日記を公開しているサイトの、昭和20年の記述にはこうある

2/11
 紀元節。
一晩警報が発令されなかった。日曜出勤。パーマに行く。

 このパーマがどう云う方式のものなのかは、記述が無いので解らないが、ともかく本土空襲が始まった時期であっても、パーマはあったのだ…。と云うわけで、昭和18年当時の女子通信隊員がパーマであっても、時代設定上の誤りでは無いことになる。しかし、一方では「パーマネントはやめませう」に代表される反パーマの空気もあったわけである。
 先程から参考にしている「若き日の防人たち」(八丈三原会)に掲載された、今井ぶん氏の回想「若き日の出来事」では、彼女が近所の交番から呼び出しを受け、警察署で刑事の取り調べを受けた顛末が書かれている。
 「お茶とは名ばかりの出がらし」、「ご飯粒が数えるほどしか入っていない雑炊なんか食べられるか」と、興味深い記述のある文章であるが、「みんなモンペはいて一生懸命働いて居るのに、そんな服(註:通信隊の制服)を着て昼間遊んでいて、一体何をやってるんだ」、「はっきり言って見ろ小娘だと思ってれば…」と云う刑事のセリフが怖い。彼女は、刑事からはさんざ云われたものの、あらかじめ部隊で云われていた通り、憲兵を呼んでもらって(警察の取調中に『憲兵を呼んで下さい』と云われた刑事はさぞや驚いたことだろう)、身の潔白を証明して事無きを得るのだが、近所の人が「キレイな服を着て、朝帰って来て昼間ブラブラしていたり、警報が発令になると慌てて出かけていくし”スパイ”ではないか」と警察に知らせてきたのが原因であった。
 二十歳前後の若い娘が、パーマに洋装で朝帰りとくれば、不良娘と紙一重なのは確かなのだが、こう云う密告奨励社会には暮らしたくないものである。

 「帝都防衛の重責を、女の身に担う」女子通信隊員を、「スパイ」として密告した近所の人が、警察からどのようなお叱りを受けたのかは、云うまでもなく不明である…。