聖火ではない 聖矛である

五輪記念で21万5千おまけ


 オリンピックでおなじみの「聖火リレー」は、ベルリン五輪の時に初めて行われたそうであるが、そのベルリンオリンピックは、たんなる国際体育大会を、開催国の国威発揚の場に変貌させた大会として名高い。

 そのベルリン大会(1936−昭和11年)の次に控えていたのが、幻に終わった東京大会(1940−昭和15年)である。ベルリン大会の盛況を見て、日本の関係者も国威発揚のチャンスと思ったであろうことは、想像にかたくないのだが、それは本題ではない。


「写真週報」昭和13年11月16日号表紙
『戦捷祈願 聖矛継走』と書かれている

 暗闇の中、高く掲げられたモノ、これこそ聖なる矛「聖矛」である。<せいぼう>と読むのか<しょうむ>と云うのか、やっぱり<せいほこ>なのか、振り仮名が原文に無いので始末に悪い。

 日本が、支那事変長期化に伴う諸般の理由により、東京でのオリンピック開催を返上した昭和13年、11月3日から6日まで開催された『国民精神作興体育大会』のハイライトとして、「戦捷祈願矛継走大会」つまり「聖矛リレー」が実施された。東海道を走って6本の聖矛を、伊勢神宮、結城神社、熱田神宮、三島神社、鶴岡八幡宮、靖国神社、明治神宮に奉納すると云う、「日本版聖火リレー」なのである。
 「6本の聖矛」が七つの神社に奉納される、と云うのは矛盾した記述であるが、下にあげた元記事に書かれている以上、矛盾していようが、そう記述せざるを得ない(笑)。実際は出発地の伊勢神宮で、6本まとめて奉納され、祝詞の一つもあげられた後、ランナーに還納されて、各神社にリレーされたのであろう。

 「写真週報」に掲載された記事は以下の通り。

 長期建設に備えて銃後青年の体位向上をめざす国民精神作興体育大会は、菊花薫る明治の佳節を卜して開会、十一月六日まで四日間開催され、殊に最終日の六日には畏くも秩父宮殿下を神宮競技場に迎え奉り、若人の意気高らかに帝都の秋をかざってスポーツの豪華絵巻はくりひろげられた。その中にも戦捷祈願矛継走大会は銃後の国民精神作興に最もふさわしい試みとして数百万老若男女の血を湧き立たせ感激裡に大会の掉尾を飾った。
 戦捷祈願矛継走大会は一府四県二百三十一区の選士、衛団一万五千余名を動員、四日午前九時伊勢神宮に最初の聖矛を奉納して同日正午宇治橋前をスタート、金色燦として輝く六本の聖矛は秋深む伊勢路から東海道を五百キロ、東へ、東へと夜を日についで驀進、各町村で次から次へと継走され結城神社、熱田神宮、三島神社、鶴岡八幡宮、靖国神社に一基づつ夫々戦捷祈願の赤誠こめて奉納され、六日夕刻炬火赤々と燃える神宮外苑競技場に到着した。スタンドを埋める大観衆の感激の拍手をあび、秩父宮殿下の御前をすぎて、最終コースに入り、午後五時五十五分明治神宮神域に到着、聖矛は神殿奥深くに奉納された。
 文章だけでは寂しいので、写真も紹介する。


出発の様子 華々しさが無い

 伊勢神宮に最初の矛の奉納を終わると、選士らは白のユニフォーム着替えて四日午前十一時半宇治橋広場で出発式を挙行した。(上)

 金色燦然と輝く六本の聖矛の内明治神宮に奉納する分は、平沼日本陸上競技連盟会長から第一選士神宮皇学館冨田利正君に渡された。(下)

 記事にもあるが、「選手」でも「走者」でもなく「選士」と表記されているところに注目したい。「神宮皇学館」は伊勢に設けられた官立学校。昭和15年に国立大学となるが、敗戦後GHQの指令により廃校となり、後「皇学館大学」として復興する。
 以下「写真週報」記事は、矛がゴールに到着するまで、数枚の写真付きで紹介しているのだが、すべてを紹介しても退屈なだけだから先を急ぐ。


神宮外苑を廻る矛

 短距離百米の王者吉岡隆徳君の手に捧げられ、東京市民の嵐の如き歓呼と感激の中を聖矛は勇躍進み行く。(上)

 既に暮色濃き中に炬火赤々と燃え、今やおそしと待ちかねた神宮外苑競技場にマラソンの覇者孫基禎君は金色に輝く矛を高々とかざして現れた。(下)

 「吉岡隆徳」は「暁の超特急」とも呼ばれた短距離走者、1932年のロス五輪の百米に出場して6位の記録を樹立した。6位と云うとパッとしないように感じられるが、短距離走でオリンピックの決勝を走った、数少ない日本人である。
 「孫基禎」と云えば、ベルリン五輪マラソンの金メダリストである。朝鮮人の彼は、ベルリンでは日の丸を付けて表彰台に上がり、神宮外苑では日本神話に基づく「聖矛」まで持たされたのである。


とても「スポーツの祭典」とは云えない光景である

 聖矛はついに明治神宮に到着した。庭燎と篝火と、そして月光に夜の靄が白く光る神苑の玉砂利をふんで聖矛はかつてのマラソン王金栗四三氏から平沼陸連会長へ、平沼会長から中島権宮司を経て奉納された。
 「金栗四三」は、第五回ストックホルム大会(1912−明治45年)に、日本人として初めてオリンピックのマラソン競技に出場した人である。前年に世界記録をたてていたものの、オリンピックでは棄権。その後もアントワープ、パリの大会に出場したが、結局メダルを獲ることは出来なかった。


 戦後開催された東京五輪で、日本は西側国家としての再起をとげたわけだが、こう云う写真を見てしまうと、幻に終わった1940年の東京五輪の開会式が、どのような衣装・演出で行われるものだったのか、見てみたかったと思う。
 ギリシャで点火された聖火が、6本の聖矛を持ったランナーに囲まれ、九州から出雲、奈良、伊勢と進み、最後は神宮外苑にいたるのだ…。中国と戦争なんぞしていなければ、1940年の「東京大会」こそ、良くも悪くも五輪史上に燦然と輝く大会になっていたことであろう。