父君ヲ慰問セヨ!

みんなのカンパで22万おまけ


 昭和12(1937)年は、北支事変(のち支那事変、転じて日華事変転あるいは日中戦争)勃発の年である。4年たっても決着がつけられず、帝国日本の瓦解を見てようやく終わったこの戦争であるが、当初は単なる「事変」として決着がつくはずだった事は教科書にも書いてある(と思う)。

 この年に発行された「国際写真新聞」(同盟通信社)8月5日号は、「北支事変特報第二篇」と云う特集を組んでいる。今回のネタは、特集に便乗した広告である。


合同印パイン缶詰

 見ての通り、パイナップルの缶詰である。写真を見ると4人姉妹?が仲良くパインを取り分けている。よーく見ると4人しかいないのにパイン缶を二つも開けているのだ。私が子供のころは一家五人で一個の缶詰を分け合ったものである。事変勃発から1ヶ月程度しか経過していない時期であるから、こんな贅沢も許される。
 彼女達がパインを食べ過ぎることを心配するのが今回のテーマであるわけがなく、注目すべきは中央のカコミである。


牟田口隊長令息の同級生が美挙

 牟田口隊長令息の同級生が美挙
  ”父君を慰問せよ”

 北支第一線部隊長として活躍している牟田口○隊長の令息を中心に その同級生達の愛国美談−麹町区平河町二丁目七ドイツ東亜協会では日独防共教程成立を記念して会内に紅露独語講座を開講、独語研究を続けているが研究生中に牟田口鬼隊長の令息衛邦君がいるところから「われらの衛邦君の父君を慰問せよ」の声が俄然ひろがり 忽ちの間に三十五円集まりパインアップル缶詰百個を購入、有志十七名の代表紅露文平氏が十三日陸軍省へ持参した


 一読すればお判りの通り、ありふれた美談でしかない。
 パイン缶が百個で35円すなわち一個35銭と云うドーデモ良い知識は得られる。当時ゴールデンバットは、一個8銭で岩波文庫が20銭と、高級感ただようのだが、実は昭和11年の「海と空」はナント70銭もする(趣味の軍事雑誌はこの頃からいい値段だったのだ)。百個も買えば単価が下がるんじゃあないか、と云う気もするので、本当の値段はこの記事だけではわからない。「有志十七名」とあるから、一人当たりのカンパ額は2円ほどで、巡査の初任給(本給)が45円で高等官のそれが75円の時代の2円と見れば、牟田口連隊長御子息同級生の生活レベルが上等なものであることがわかる。
 と、記事に関する補足をしてもこの程度の分量であり、この広告一つでわざわざネタとして投入するほどのものではない。
 しかし、ここに「牟田口隊長」と云う言葉が一つ入るだけで立派なネタとなるのだ。なぜネタになるのかは「兵器生活」の熱心な読者諸氏であれば書かずとも明白なのだが、「牟田口隊長」と云えば、「世界三大中将(牟田口中将、パーシバル中将、中将姫)の一翼」すなわちインパール作戦の牟田口サンであり、名誉印度総督である(私が決めた。理由は面倒なので書かない)。まあ主筆の趣味ですね。
 この時期は支那駐屯軍歩兵第一連隊の連隊長で、階級は大佐。したがって記事にある「牟田口○隊長」の伏字は「牟田口連隊長」となる。


牟田口 廉也 「天空の城ラピュタ」にでも出てきそうだ
(写真は『昭和史の論点』文春新書より)

 牟田口サンの業績については、歴史の本なりネットで調べれば色々出てくるので記載はしないが、晩年の氏の姿はあまりお目にかからないので紹介しておく。


晩年(昭和36年)の牟田口氏

 「画報戦記」昭和36年3月号に掲載された氏へのインタビュー記事に掲載されたもの。話題は蘆溝橋事件あたりが中心で、「インパール」の「イ」の字も出てこない(笑)。写真では年相応な柔和さが出ているが、草野球のボールが飛び込んだら「コラッ!」と形相を一変させそうでもある。
 「あの三池争議にもきっと私の部下たちが…」と語られる「三池争議」は、昭和34(1959)年三井鉱山の会社合理化提案に対して、三池鉱業所(炭坑)で起こった一年近くにわたる労働争議。歴史の本では「60年安保闘争」「皇太子(現天皇)御成婚」とセットで語られることが多い。

 パイナップルの缶詰、一人で一個食べるのが夢だった…。
 参考:値段の風俗史(朝日文庫)、一億人の昭和史日本の戦史3