まるで写真を見ているようだ

樺島勝一先生の画で29万5千おまけ


 一枚の絵を見て、「写真みたいだ」と云えば、絵描きの描写力に対する賞賛・感嘆の情であるが、「写真を写しただけだね」と云えば、絵描きのオリジナリティの無さを馬鹿にしていることになる。

 樺島勝一(1888〜1965)といえば、戦前の「少年倶楽部」に掲載された一連の挿絵で知られ、その画力と人気の高さは、古本屋の目録に「画、樺島勝一」とあるだけで本の値段がガン!と上がってしまうほどである(笑)。戦後世代の読者諸氏にはなじみのない人かもしれないが、「口絵 、小松崎茂」とあれば、本の値段が千円二千円平気で上がるのと同じと思っていただければ良い(そう云う人は、もう出てこないんでしょうねえ…。『小松崎茂って誰?』と云う人は、以下を読む必要はありません)。
 そう云う人が表紙を描いた雑誌は、人気が高い=市場に出ない(出ても高い)わけで、戦前・戦中の通俗軍事系雑誌を収集して、ネタにしている私にとっては、大変困ったことだったりする。

 今回紹介する「航空少年」と云う雑誌は、「子供の科学」で有名な誠文堂新光社が長く発行していた(第三種郵便物認可が昭和2年であり、廃刊が昭和20年だから、占領軍の航空研究禁止命令が無ければ、今も続いていてもおかしくない)子供向け航空雑誌なのであるが、「兵器生活」をはじめて3、4年は存在すら知らなかったほど、手に入らないシロモノである(笑)。
 なんでここまで目にしないんだろう、と思いつつ、集まった何冊かを眺めてみると、みんな表紙に「K.Kabashima」のサインが入った、「まるで写真のやうな総天然色の」画なのである。これでは市場に出回るわけがない、と云うわけで、この方面の研究は当面進む見込みが無いのであった…。
 今回は、樺島先生の画が、どれくらい「写真みたい」なのかを解明できる、良い資料が手に入ったので、読者の皆さんにも実際に見ていただこうと云う趣向である。


航空少年昭和17年2月号表紙

 「ペン画の樺島」として知られている氏ではあるが、このような画も描いていた。カーチスP36と云う、米国の戦闘機である。第二次大戦前から世界各地に輸出された名機であるが、戦前の飛行機は人気が無いので、今ではマイナー機の筆頭の一つである。
 銀色の機体を表現するために、写り込みを丹念に描いていることが良く分かる。プロペラが回転している様子の描き方がかっこいい。
 次に、当時刊行されていた「空」昭和16年12月号の表紙をお目にかける。


「空」昭和16年12月号表紙

 構図が似てますね(笑)。
 それぞれの表紙の図版部分を拡大してみる。


写真を拡大したもの


イラストを拡大したもの

 機体の描写は、写真を丹念に写していることがわかるが、カメラ位置を左右違えていることがお解りいただけるだろうか。さらに元の写真では飛行場のコンクリ地面であるところを、あえて芝にして一本一本描き分けるなど、単純に写真をトレスしていないところが、絵描きとしての意地が出ているようで面白い。
デジタル時代の今日であれば、.


元の写真


反転


着色・完成(と云うのは嘘、樺島先生の画そのものです)

 と、誰でも「写真のような仕上がり」を得ることが出来るのだが、プロペラのところにハケ目があるように、樺島先生は、紙の上に、エンピツや絵の具を駆使して、いちいち描き写していったのである。平凡社の「名作挿絵全集7 昭和戦前・戦争小説集」に収められた水木しげるの文章には「話によると下がきの状態で鉛筆で細かく描き、電線まで描いてあった」とあるから、この画の下絵もさぞや細かく描かれていたのだろう。凄いなあ。
 数年前、講談社の創始者である、野間省一の自宅を改造した野間美術館で、「少年倶楽部」関係の展示会に行った時、挿絵の原画をいくつか見ることが出来たのだが、ペン画ではないモノクロ画は、写真といっても信じてしまいかねないような仕上がりであったことを思い出す。

 写真そっくりに描く行為が「オリジナリティがない」と否定されたり、写真そのものに加工する技術や、紙も絵の具も使わずにリアルな画を描く技術が確立してしまった今日、このような画風が復権することは多分無いと思われるが、鍛え上げられた人間の目玉と手先がもたらす感動を、知っておくためにも、この人を忘れ去るのは実に勿体ないことと思う。

樺島勝一 本姓は椛島なので「椛島勝一」とも表記される。明治20(1888)年生まれ。独学でペン画を修得し、大正2(1913)年より画家として活動を始める。代表作として、「正チャンの冒険」、「敵中横断三百里」、「亜細亜の曙」など。「船の樺島」と称され、雑誌などの挿絵特集や「少年倶楽部」特集に、なくてはならない人である。(参考:平凡社、名作挿絵全集7)