美しき人間生活の為に

あるいは鐘紡報国服で30万おまけ


 女学生が談笑している写真である。十代の前半くらいであろう。彼女達の膝小僧のあたりに注目していただきたいのである。

 スカートの裾に、紐を通したような襞があるのがご確認いただけたであろうか? この服装こそが、今回のテーマ「鐘紡報国服」なのである。

 この写真は、カネボウ(鐘紡東京サービス・ステーション)が刊行していた、「銀鐘」昭和14年2月号に掲載された広告にあったものである。以下に広告文を載せてみる。なお、仮名遣いは現代かなとし、一部の漢字は新字体にするとともに、原文には読点が一切無いため、読者諸氏の便宜をはかり、読点を適時挿入するとともに、改行を施した。
女学生
通学用
鐘紡報国服


 鐘紡報国服の考案について
 考案者
 戸田高等洋裁学校  戸田カナメ


 非常時婦人の、服装改善を叫ばれて居ります今日、此の報国服が各方面の御推賞を忝うしましたことは、考案者として誠に光栄に存じます次第で御座います。
 国防服については事変以来、各方面の専門家が競って研究されましたが、私は女子学生服にこそ、最も其の必要があると感じまして、制服兼用の非常時作業服を考えました。
 常時水兵服の型をとりましたことは、全国の女学校の八九割は之を制服とされています所から、常は今までと変わらぬ制服のままで、イザと曰う場合に即座に活動仕易く装える様、先ず頭髪を覆う為め、従来装飾に過ぎなかった襟とネクタイを頭巾に利用し、キューロットスカートの裾を結び上着の裾をスカートに入れれば、完全に作業着に変わる様工夫致したものでありまして、日常は普通のセーラー服として、女学生らしさを失わぬ様苦心いたしましたので御座います。
 ネクタイは共地、又は学校指定のネクタイを取附けるのも可といたしましたが、時局柄国防精神作與の趣旨から、緩急模様(カモフラージ)布を取附けることも適当と存じます。
 尚ほ(ママ)此の服は、寒い地方では防寒用として通学によろしく、スキー服用にはスカートの丈を長くして足首でくくれる様にすれば申分ないと信じます。

 幸い鐘紡サービスに於て、国策服の意味で此の服を供給されますことは、感激致して居ります次第で御座います。



 昭和16(1941)年の大東亜戦開始後、女学生が戦争遂行要員として組み込まれたことは、教科書その他でさんざ書かれており、セーラー服にモンペ履きや、作業服姿が知られているが、支那事変勃発二年目の当時にあっては、活動着といえども「女学生らしさを失わぬ」ことに苦心するだけの余裕があったわけである。とは云え、スキー用として「足首でくくれる」丈のスカートまでくると、「スケ番」みたいになってしまい、「だったらズボンでいいじゃん」と思わないでもない。


 冒頭掲げた写真は、「常の姿」であり、「イザ」と云う時(これが空襲時であることは云うまでもない)どのような姿となるかと云うと、

 ご覧の通り、ニッカボッカースタイルになるのである。セーラー服をセーラー服たらしめる、襟と「ネクタイ」(個人的には、あれは『スカーフ』なのではないか? と思っているのだが)が「頭巾に利用」されているため、元の姿が想像できない。襟をはずしたあとの襟元は、大きく開いてしかるべきなのだが、見事に閉じられている。どう云う構造になっているのかが、写真から判別できないのが惜しまれる。

 写真を見る限り、確かに活動には便利なようであるが、ハイソックスでないと、脛を護ることはおぼつかないし、底のしっかりした靴を履かなければ、瓦礫の上を歩くのは危険である。さらに云ってしまえば、当時の「空襲」では毒ガス攻撃が想定されており、イペリットのような糜爛性ガスの場合、皮膚に触れるだけで命取りであるから(黄燐焼夷弾も皮膚に触れると危険である)、現代の目から見れば欠陥があると云わざるを得ない。
 つまり「報国服」と云う名称が示す通り、女学生と学校、そして父兄に対する非常時局の啓蒙こそが目的で、そのような時局にあっても「女学生らしさ」は残すべきである、と云う考案者の哲学が現れた「作品」として評価されるべきものなのだろう。「ネクタイは(略)、時局柄国防精神作與の趣旨から緩急模様(カモフラージ)布を取附けることも適当と存じます。」と云う言葉がそれを物語っている。

 掲載誌の読者が極めて限定されているがゆえに、この広告ページは右半分に「常」の状態で談笑する女子学生の写真と、考案者の弁を掲載し、左半分には「イザと曰う場合」の写真を含め、

 このような構成となっている。ページの左上に軍用機を配することで、この「報国服」が空襲時の迅速かつ軽快な活動を約束することを読者に意識させるわけである。

 ここで「兵器生活」として見逃せないのが、この軍用機であることは云うまでもないだろう。

 この飛行機、チェコスロバキア空軍の徽章を付けているのだ! 昭和12年刊行「われ等が空軍」(大場 彌平、大日本雄弁会講談社)掲載「各国軍用機のマーク」にも記載されていない国を持ち出しているところに、用意周到さを見るか、「軍用機だったら何でもいいや」式の杜撰さを見るかは、読者諸氏次第と云うことにしておこう。

 (おまけのおまけ)
 「兵器生活」と云う表題を掲げ、かつ戦前・戦中の雑誌を収集してネタにしているにもかかわらず、実はこの飛行機の正体が判らない(笑)。手許には、昭和15年ころからの航空雑誌がいくつかあり、その中には世界各国の軍用機を一覧できるモノもあるのだが、昭和14(1939)年に、チェコスロバキアが解体されてしまったため、「チェコ製の飛行機」と云うものは、存在しないことになってしまっているのである。

 と云うわけで模型屋に走って、チェコ空軍の飛行機のプラモデルをいくつか買ってきた(笑)。

 「アビアB.534」と云う戦闘機。機首と垂直尾翼の形状が似ている。操縦席が密閉式になっているため、この機体そのものが写真の機体と云うわけでなく、これの前に作られた「アビアB.34」あたりがクサイと睨んでみた…。

 ざっと組み立てたもの。もちろん完成させるつもりは毛頭無い。これでキマリと思ったが、広告の写真には、上翼中央に視界向上のためのくびれがある事に気付いてしまったので、確信が持てなくなってしまった…。

 つぎは「アエロA−100」と云う軽爆撃機。こちらは爆撃機と云うことで、本命だったのだが、プラモの部品と見比べてみると、水平尾翼の形状が違う。組み立てようと思ったが、胴体が変型していて手に余るのでプラモ本体の写真は無い。

 と云うわけで、プラモから機体を判明させようと云う目論見は、みごと失敗したのである。

 ネット検索を試してみても、日本語で「チェコ空軍」を検索すると、映画「ダークブルー」の紹介ページばっかりで(英国に逃げてくる前は、こんな飛行機に乗っていたわけだ)、「avia、aero、czech」なんかで、海外のページにつないでみても、言葉はわからないし、掲載されている写真からでは、機種を特定するだけの材料が得られなかったのである(要は面倒になった、と云うことでもある)。


 全世界規模で探せば、チェコ空軍に関する本はそれなりにあり、その中には広告で使用した写真そのものがありそうなものだが(日本の広告に使用されるくらいだもの!)、もはやネタそのものと直接関係ないところに深入りする気力は無いのであった…。

 修行が足りないなあ(笑)!

(おまけのおまけのおまけ)
 読者の方から、「オランダ軍のフォッカーC.V-D(総督府註:Vはローマ数字の5)だと思います。」と云う情報と、WEBページを教えていただいた。ページに掲載された写真を見ると、なるほど上のチェコ機よりは余程似ている。胴体に描かれた番号が「320」と云うことで、「銀鐘」掲載写真の「319、322、307、325、304」となんとなくつながりも感じられるし、何より尾翼のマークが同じである。
 胴体の番号の書体と、国籍マークが、「銀鐘」のものと違っているが、撮影された時期による相違と思われる。

 紹介いただいたページの記述をもとに、どんな機体なのかを記せば、オランダの軍用機であるが、輸出商品としてそれなりに成功している。初飛行は1929(昭和4)年、「グラフ・ツェッペリン」が世界一周に成功した年である。この写真が掲載されたころには、旧式機になっているはずだが、ドイツ軍によるオランダ占領後はドイツ空軍でも1944(昭和19)年まで東部戦線で夜間攻撃に使われ、スイスでは1954(昭和29)年まで標的曳航機として使われていた! と云う、「無事これ名馬」を地で行くマイナーな名機らしい。プラモデルは出ていないだろうなあ…。

 と云うわけで、情報提供者の「さんぴん」様には、厚く御礼申し上げる次第であります。

 機体の謎が解明されたのは喜ぶべきことなのだが、「チェコ空軍」前提で書いた部分と、買ってきた模型をどう始末すべきだろうか(笑)…。