軍神の<遺作>

格調高し6万おまけ


  <軍神>と云うと、様々な軍人があげられるはずなのであるが、ここでは加藤建夫陸軍少将なのである。<加藤隼戦闘隊>の加藤さん、である。
 略歴を書くのは面倒であるし、「兵器生活」読者諸賢には周知の事も少なくないので省略する。

 死後描かれたと思われる肖像。<2602年>とあるから昭和17年の作である。タイトルは<在りし日の軍神>、描いた人は田中貞一。有名な写真を元にして描かれている。写真の背景は九五式戦闘機なのであるが、画では<隼>になっているところがミソである。

 映画「加藤隼戦闘隊」が製作されるなど伝説化が押し進められた事も周知であるが、<写真伝記>なんて本が出ていたとは知らなかった。「軍神 加藤少将 写真伝記」(昭和18年)、発行はあの石橋湛山で有名な東洋経済新報社である。個人的には、ここが斯様な時局便乗本を出したとはとても信じられない(笑)。撃墜マークをあしらった洒落た作りの本である。

 *今回使用した画像は、この本より引用している。

 なんの変哲も無い、ありていに云えばただの<写真>である。が、キャプションを読むと<(遺作)コタバルの正月>とある。そう、加藤少将が撮影した最後のアィルムにある一枚なのである。
 映画<加藤隼戦闘隊>でも、<アニメンタリー 決断>にも少将が愛用のカメラ(コンタックス)で写真を撮るシーンがあるくらいに、写真愛好の人だったらしい。


 病院に押し込められ、死期を悟った職業的写真家以外に、自分の<最後の一枚>が何になるのかを意識する事は難しい。多分<もっとちゃんとした写真を残しておくんだった>などと想う事もなく自爆したのであろう。結果としてこのような牧歌的かつささやかな写真が<遺作>として扱われるに至ったのである。

 映画等により<加藤少将=コンタックス>と云う図式が、私のアタマの中に出来上がって久しいのであるが、こんな資料もある。やはり死後編纂された「空の軍神 噫加藤隼戦闘隊長」(加藤 正雄 成徳書院 昭和17年)に掲載されたもので、加藤少将の日記である。

 (昭和12年)
 九月五日 曇
 目覚むれば朝日アンペラの外に輝く。飛行場整備作業も進捗す。午後注射を行ふ反応なし。軍服送付し来る。アルバムを整理す。

 九月六日 曇
 今日も亦曇時々小雨さへあり。
 午前は主力を以て器材の手入及付属設備の建設、午後は注射を行ふ。
 飛行場整備逐次進捗す。移動は明後日か。
 ローライフレックスを求む。

 九月七日 快晴
 愈々本格的の快晴となる。意気揚々作業に出発す。
 明後日の移動は確実となる。
 新写真機試写の為多忙。題材に苦しむ。官報を見同期生多数の転科を知る。

 とあるように、中国進出時の写真機はローライであった事がわかる。それ以前から写真機は使用していたようなのだが、残念ながら機種は不明である。ローライを買い求めた事から推察するに、セミ版あるいは6×6のスプリングカメラを使用していたのだろう。見たままが写る(実際は左右逆なのだが)ローライフレックス(2眼レフ)を購入して嬉しそうにしている顔が目に浮かぶようである。<ローライフレックス>と書くところに、普及型のローライコードではない!と云う写真愛好家のプライドが現れるようで、嬉しい。
 当時部隊は天津にいた事から、天津租界あたりで購入したものと思われる。

 <水中の愛機>と題された作品。<飛行機も段々水に追はれて小高い所へ移動せるも遂に全く悲鳴をあげる>とある。水に映る飛行機をも写そうとした、撮影者の意図が感じられる写真である。


 では、いつからコンタックスになったのか、と云うのが個人的に大きな問題になるのであるが、ヒントは<写真伝記>にある。 すなわち内地帰還後、再び戦地に向かった昭和16年頃である。
 昭和14年7月より寺内大将の独伊訪問の随員として渡欧した時期に購入した可能性もあるのだが、当時撮影されたとおぼしき写真がすべて正方形である事(ローライは6センチ×6センチフォーマットである)と、他の人に写された写真に、コンタックスにしては大型すぎるカメラをぶら下げたものがある事から否定される。

 右端が当人。カメラを抱えているのがわかる。あきらかに35ミリでは無い。

 愛用の双眼鏡と<コンタックス>である。<カメラ>と云わずに<コンタックス>とあるところに、私は編集者のブランド信仰を見る。

 本人は飛行機とともに海に眠る以上、このカメラは地上に残されたものである。つまり<動く>。戦後の生活難の中、遺族が生活のために手放しているのかもしれない。と云う可能性が否定出来ない以上、中古カメラ屋で読者諸氏が見ている、あの<コンタックス>は、加藤少将愛用の品かもしれないのである…。

ああ今は亡きもののふの…