嗤って笑って(藁

関東防空大演習


 おのれが文を世に問う者は、世間に放たれた文章が広く、そして永遠に読まれつづける事を祈る。しかし、「詠み人知らず」の時代ならばともかく、現代においては、文章そのものではなく、表題のいくつかと、当人の名前だけが語り継がれることの方が多い。それが幸せなのか、不幸なのかは、書いた本人が死んでしまえば、誰にもわからない…。

 桐生 悠々と云う人がいた。「信濃毎日新聞」主筆時代の時局評論「関東防空大演習を嗤う」により、信濃毎日新聞社を退社。その後、「他山の石」と云う個人誌を発行し、大東亜戦争に至る日本の道筋に異を唱え続け、日米戦争直前、「この超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候」と書き残して世を去った人である。この一文により、「反戦・反骨のジャーナリスト」として知られる。


 と云うところまでであれば、日本史の時間に教師から教わったり、歴史読み物で読んだことのある読者諸氏も多いかと思う。しかし、実際にその文章が、どのような内容であったかまで知っている人は少ないのではないだろうか? 「兵器生活」主筆の私も実はそのような不逞の輩である。
 今回は「関東防空大演習を嗤う」を読みながら、昭和初期のあるインテリにおける、軍事知識の検証を行ってみたい。

 *原文は「信濃毎日新聞」昭和8年8月11日に掲載されたのだが、「日本平和論大系」第9(巻日本図書センター)に掲載されたものを底本とした。

関東防空大演習を嗤う

 防空演習は、曽て大阪においても、行われたことがあるけれども、一昨日九日から行われつつある関東防空大演習は、その名の如く、東京付近一帯に亘る関東の空において行われ、これに参加した航空機の数も非常に多く、実に大規模のものであった。そしてこの演習は、AKを通して、全国に放送されたから、東京市民は固よりのこと、国民は挙げて、若しもこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言語に絶したことを、予想し、痛感したであろう。というよりもこうした実戦が、将来決してあってはならないこと、又あらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たたないだろうことを想像するものである。


 将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我は或いは、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何故なら、此の時に当たり我が機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落とすこと能わず、その中の二三のものは、自然に、我が機の攻撃を免れて、帝都の上空に来たり、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである。如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、又平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起こす以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空襲は幾たびも繰り返される可能性がある。


 だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我が軍の敗北そのものである。この危険以前において、我が機は、途中これを迎え撃って、これを射落とすか、又はこれを撃退しなければならない。戦時通信の、そして無電の、しかく発達したる今日、敵機の襲来は、早くも我が軍の探知し得るところだろう。これを探知し得れば、その機を逸せず、我が機は途中に、或いは日本海岸に、或いは太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵機を我が領土の上空に出現せしめてはならない。与えられた敵国の機の航路は、既に定まっている。従ってこれに対する防御も、また既に定められていなければならない。この場合たとい幾つかの航路があるにしても、その航路も略予定されているから、これに対して水も漏らさぬ防御工夫を講じ、敵機をして、断じて我が領土に入らしめてはならない。


 こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のものであり、又如何に屡々それが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空において、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一つのパペット・ショーに過ぎない。特にそれが夜襲であるならば、消灯しこれに備うるが如きは、却って、人をして狼狽せしむるのみである。科学の進歩は、これを滑稽化さねばやまないだろう。何故なら、今日の科学は、機の翔空速度と風向と風速とを計算し、如何なる方向に向かって出発すれば、幾時間にて、如何なる緯度の上空に達し得るかを精知し得るが故に、ロボットがこれを操縦していても、予定の空点において寧ろ精確に爆弾を投下し得るだろうからである。この場合、徒に消灯して、却って市民の狼狽を増大するが如きは滑稽でなくて何であろう。


 特に、曽ても私たちが、本紙「夢の国」欄において紹介したるが如く、近代科学の驚異は、赤外線をも戦争に利用しなければやまないだろう。この赤外線を利用すれば、如何に暗きところに、又如何なるところに隠れていようとも、明らかに敵軍隊の所在地を知り得るが故に、これを撃破することは容易であるだろう。こうした観点からも、市民の、市街の消灯は、完全に一の滑稽である。要するに、航空機は、ヨーロッパ戦争において、ツェペリンのロンドン空襲が示した如く、空撃したものの勝であり、空撃されたものの負である。だから、この空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない。

 仮名遣い、句読点、改行はすべて「日本平和論」の通りである。ただし段の境にある「*」は省略した。

 歴史的事項にふれると、この記事が発表されると、長野県の在郷軍人団体である信州郷軍同志会が、信濃毎日新聞社を訪れ、謝罪文の掲載と桐生の退社を行わないと不買運動を行う、などと示威行動に出た。そのため、桐生は謹慎の後、社を去ることになった。ここの部分が「軍部の怒りを買った」と云われるところである。在郷軍人団体の抗議行動が、軍部中央の指示によるものかどうかは、裏付けをとっていないため断言出来ないが、「抵抗の新聞人 桐生悠々」(井出 孫六、岩波新書)および「日本平和論」の解説記事(太田 雅夫)によれば、新聞社の常務が信州郷軍同志会幹部や、中央軍部と折衝したが不調に終わるとあるので、少なくとも桐生の記事に好意的ではなかったと云える。

 桐生の文章を読んでいただければわかるのだが、現代の我々から見れば、どおっていう事の無い文章である。これで主筆が退社するのであれば、今の新聞社など、主筆や記者が何人入れ替わるのかわかったものではない。そう云う読み方をする限り、「正論の桐生、理不尽な軍部」と云う図式は不変である。
 しかしそれは、その後日本の大多数の都市が空襲にあい、日本の防空システムが結果的に無価値であったことを知っている人間の見方である、とも云えるのである。仕事として、あるいは信条として日本の防空を真剣に考えている者がこの文章を読めば、怒る。いや、怒らねばならない(山本 夏彦あたりが、全く同じ事を書いているかもしれない…)。


 この記事で「嗤われた」関東防空大演習は、関東地方初の防空演習である。
 昭和3年7月(済南事件=中国革命軍と日本軍との衝突のわずか2ヶ月後である)に大阪で初の演習が行われたのを皮切りに、4年名古屋、6年北九州、静岡、横須賀、京阪神、7年木更津、佐世保、舞鶴、大湊、徳山、呉、宇部、横須賀と実施されたのを受けて、始めて帝都東京を含む、関東全域での防空演習でなのである。
 この演習は、「放送研究と調査」1997年8月号に掲載された「「関東防空演習」との11日間」(石岡 丘)によれば、東京・茨城・千葉・埼玉の1府4県(当時)にわたる大規模なものであり、軍だけではなく、在郷軍人会等の団体35万人が動員された、とされる。

 防空演習とは、「空から攻撃を受けるとエライことになりますよ」と云う意識を市民に啓蒙すると同時に、「敵機の撃退は我々におまかせ下さい」と云う軍のアピールの場でもある(防空活動の失敗を想定した防空演習などありえないから)。それを「パペット・ショー」と書いてしまったのであるから、「東海地震の予知なんてできっこないんだから、防災訓練なんてやるだけ無駄だ」と今の新聞が、9月1日の社説に書いてしまうのとなんら変わりは無い。
 桐生悠々が、そのようなひねくれた人間だとまでは云わない。しかし、その書いたものが、当事者およびそのシンパにそのように理解されても仕方のなかった事だけは確かである。


 彼の意識には何があったのか? このコラムを読む限り、一国の首都が空襲されるようになったら戦争は負けだ、と云う考え方が一つ。爆弾が落とされれば、関東大震災に匹敵する惨事となる、と云うイメージが一つ。そして市民に整然とした防空活動が出来るはずがない、と云う思いこみが読み込める。そのような意識があるからこそ、首都東京を舞台にした「初めての防空演習」を全否定してしまったのである。

 そもそも最初から完全な防空や防災などはありえない。演習実施以前から防空に関する研究はなされていたであろう。しかし、それはあくまでも机上の仮説でしかない。その仮説が立証できるかどうかを確認するのが演習で、その結果をさらなる研究に生かし、防空体制は盤石となる。もっとも、演習である以上、真の盤石などありえない事は、その後の歴史が証明している通りである。

 さらに云えば、「航空機は、ヨーロッパ戦争において、ツェペリンのロンドン空襲が示した如く、空撃したものの勝であり、空撃されたものの負である。」と云う一文も、看過できないものである。第一次大戦でも、次の戦争でも、ロンドンは度重なる空襲を受けたが、英国そのものは戦争に負けたわけではない。中国も首都を爆撃され、さらには日本軍に占領までされたが、屈服はしていない。
 第二次大戦後、首都を爆撃された国も少なくは無い。当時の北ベトナムは手を上げるどころか、南ベトナムを併合してしまったし、湾岸戦争ではイラク軍を痛めつけたにもかかわらず、フセイン政権は今も健在である。この事実は、「空撃したものの勝」と云う桐生の文章を明らかに否定している。
 たしかに、当時の考え方(常識としてしまって良いかもしれない)には、開戦と同時に爆撃隊を敵首都に侵攻させ、爆弾・ガス弾で一気に粉砕することで戦争を終わらせてしまう、その逆で戦争をする前に終わってしまう、と云うものがあったはずである。しかし、それは第三次世界大戦が勃発すれば、地球は破滅する、と云う思考となんら変わりはない。それでもなお、大国は「核戦争後の戦闘」を考えている事は、「兵器生活」名物「核騎兵」を見れば誰でもわかる。

 つまり、桐生悠々が示した考え方は、現代の平和主義者の考え方と同じなのである。そして彼が「理不尽極まりない軍部の圧力」によって、新聞社の主筆を退いたがゆえに、その名は輝いているのである。
 さて、今まで桐生のコラムを批判してきたわけであるが、一番断罪されねばならないのは、当然不当な圧力をかけた者達であることは云うまでもない。軍やその同類の怒りは理解できるが、だからと云って相手を脅し、社会的地位を抹殺せんとするやり方については、「理不尽である」と云わざるを得ない。軍隊は、文明国家にあって、暴力の行使を法的に許された存在であるが、その暴力には当然使いどころがと云うものがある。それが一地方新聞社を脅すことでない事だけは、確かであってもらいたい…。

 桐生が「関東防空大演習を嗤う」を書いた直接の理由はわからない。しかし、このコラムを書く半年ほど前には、こんな文章も書いているのである。「信濃毎日新聞」昭和8年2月1日の記事(これも「日本平和論大系」を底本とした)。


軍部の跋扈は忍ぶべし

 非常時−それは財政的に非常時であり、思想的に非常時であることは言うまでもないけれども、国際的に非常時であることも、この際、国民の決して忘れてはならない重大事である。否、国際的に、非常時であればこそ、この非常時は真に非常時であるのだ。満洲問題に関して、満洲国の独立に関して、日本が国際連盟から、特にアメリカから忍ぶべからざる圧迫を受け、この圧迫を排すれば、或いは彼等から経済的に封鎖されるのみならず、動もすれば、戦争を余儀なくされる可能性があるから、特にそれが非常時であるのだ。この意味において、この非常時は、戦争と紙一枚を隔てているに過ぎないほどの非常時であり、或いはこれを戦時と見て差し支えないかもしれない。否、これを戦時と見て、これが為に、他の一切の国難を忘れ、専心これに当たるのが、この非常時に対して、私たち一般国民の取るべき態度であるだろう。


 かくしてこの非常時を戦時と同一視するならば、私たちは軍部の跋扈を忍ぶというよりも、寧ろ陸海軍のポテンシアルな(可能的)活動を期待しなければならない。そしてこれが為に要する費用は、たとい巨額に達しても、これを忍ぶと共に、さらに進んでリベラルに(寛宏に)これを提供することを惜しんではならない。言いかえれば軍事費はこれを吝んではならない。満洲問題に関して、国際関係が如何に危機に瀕しても、まさか戦争にはなりもすまい。世界の形態が今これを許さないことは、私たちの既に縷々指摘したところである。と言って、万一を予想して、これに備えなければ、国は危ない。国防はこの万一に備うる設備である点においてこそ、その存在価値が認められるのである。私たちは、世の一般識者が、識者であればこそ、何故に彼等が、軍事費をこうも出し惜しまんとしているのかの真意を疑わざるを得ない。


 不幸にして、この場合、戦争を余儀なくされたりとせんか、私たちは、国運を賭する一大戦争、それこそ我にとって振古未曾有の一大戦争、日露戦争などは論ずるに足らざるほどの一大戦争を戦わねばならないだろう。だが。幸いにしてこうした一大戦争を見ずして済み、たとい幾分の困難を経なければならないにしても、先ず平和の間に、満洲問題を解決し得るならば、その時を期して、軍事費に、これを抑えなければ、何処まで膨脹するか分からないほどの巨額に達すべき軍事費に一大削減を加うべきである。そしてこれと同時に、軍部のこの跋扈を抑制すべきである。それまでは、ここ一時は忍んで、これを看過すべきである。戦時に軍人の跋扈するのは、やむを得ない。否、軍人を跋扈せしめてこそ、私たちは初めて戦争に勝ち得るのであるし、又これによって戦争を防止することを得るのである。

 曽て軍縮が実行された時代における彼等のみじめさを想起せよ。如何なるものにも、盛衰は免れない。近き将来において、かかる軍縮時代が、しかも大規模の軍縮時代が再び来らないとも限られない。否、世界の大勢は、この時代を実現すべく余儀なくされている。今日は過渡時代であって、しかも、どっち付かずの状態にあり、軍縮を主張しながら軍拡を実行しつつあるけれども、やがて世界がその負担に堪えられなくなるならば、そして他に幾多なさねばならない文化的事業のあることを痛感するならば、あるいは全然軍備撤廃の時代を実現するであろう。私たちは、この点において、寧ろ楽観論者である。だが、一足飛びに、かかる時代の到来を期待するものではない。私たちは、この点においても、進化論者であって、革命論者ではない。順を逐うて、そうした階段に到来すべきことを予想するものである。

 現実の世界を、少なくとも、この経済的国家、経済的民族が、個々に孤立して、各自に、その存在を保障し、その発展を期せんとしつつある現実を認識するならば、多少巨額に上らんとする軍事費を、特に戦時と紙一枚を隔てているこの非常時における軍事費に関して、彼これ言うは、認識不足というよりも、寧ろ無認識の誹を免れない。特に軍部の跋扈よりも、既成政党の跋扈によって、我が国費が、鉄道の敷設や、一切の土木工事や、一切の行政設備や等において、如何に年々不用に膨脹し、そしてそれが党勢拡張の為に空費されつつあるかを見るならば、いずれを我慢すべきかは、ちょっと考えただけでは分からないにしても、静かに熟考すれば、容易に決定し得べき問題であるだろう。



 世間に流布している桐生のイメージと、ギャップを感じられた読者も多いと思う。彼がただの空想的平和主義者ではない事がお判りいただけたはずである。ここでの彼の眼は、将来の軍縮時代の到来を期待しつつも、まずは政党政治の混乱と腐敗に向けられており、かつ急進的革命思想をも否定しているのだ。現在の状況下では戦争は起こり得ない、と云っているが、万一の事態には当然備えるべきである、とちゃんと明記している。最後の段などは、今の新聞に掲載しても恥ずかしくない(と云うところが逆に恥ずかしいね)。だからと云って自衛隊を無駄に膨らませる必要も無いのだが…。

 この感覚が当時の(今もだ)日本人全体にあれば、と私は思うのである。こう云う極めてまっとうな感覚を持った言論人を葬り去った連中の罪は重い。右が悪いのでも、左が誤っているのでも無い。偏狭な思考と、強硬な行動がすべてをおじゃんにすると云う事を述べておく。私は桐生の「関東防空大演習を嗤う」を批判した。だからと云って、桐生悠々自身を否定しているわけではない。この文章を以て私を好戦的などと評するのは、まさに「偏狭な輩」のすることであると云っておこう。

 最後に、当時販売されていた「関東防空大演習記念絵葉書」を紹介する。本稿は、この絵葉書を紹介するため「だけ」に書き起こされたものだったのだが、本当のオマケ扱いになってしまったものである。


照明弾を投下し帝都の○○○附近を空襲の活況

 「○○○」が「日本橋」であることは、公然の秘密である。ウェヴ画像にしてしまうと、もっともらしく見える写真であるが、よーく見ると昼間撮影した日本橋の風景に、飛行機や探照灯の光線、照明弾といった「活況」を重ねた合成写真であることがお判りいただけるはずである(笑)。
 


帝都○○上空を偵察中の飛行隊

 「○○」が「銀座」であることも、秘密だ。上空左側の飛行機の尻尾が闇に溶け込む等、手だけは込んでいる。


○○○附近を偵察中の飛行隊及び高射砲隊の活躍

 「○○○」は、「丸の内」だろうか? 空と背景のビル、高射砲、右側の人物、すべて別々に撮影されたものを合成しているようだ。


最新式照空機及聴音機隊の活躍

 見ての通りである(笑)。ここの人物が、上空の飛行機を見ていないことだけは確かである。
 桐生悠々は、このインチキ絵葉書を見てしまったばっかりに、「関東防空大演習を嗤う」を書いてしまったのではないだろうか、と思えてならないのである。