消えた甲冑将校

ついに明かされるタイトルロゴの謎


 いがぐり頭に丸眼鏡、手には軍刀。絵に描いたような帝国軍人の姿である。しかし身体には鎧をまとっているし、右手に持っているのは、どう見ても兜である…。毎日新聞社「一億人の昭和史 日本の戦史2 満州事変」(1979)に掲載された写真である。キャプションには「…”重武装”した金丸中尉 鎧兜は先祖伝来のものか」と書かれている。

 「先祖伝来の鎧を持って外征とはスゴイもんだ」と思い、画としてのインパクトだけで「兵器生活」のタイトルロゴに使ってしまっているのだが、写真を初めて見てから20年もたってみると、色々と疑問もわいてくるのである。

 疑問1 どうやって鎧を持ち込んだのか?
 あの鎧は帝国陸軍正式兵器でもなければ被服でもない。「先祖伝来の鎧」という私物を、戦地に堂々と持ち込むことができた理由があるはずである。

 疑問2 この話が歴史に埋もれているのは何故か?
 「先祖伝来の鎧を着込んでご奉公」とは、「鉢の木」もビックリな美談としか思えないのだが、私は市中に流通している兵器ファン向け書籍で、金丸中尉の美談を聞いたことがない。

 ここまで疑念が出てきて始めて
 疑問3 そもそも金丸中尉って誰? と云う最後の疑問が出てくるのである(笑)。



 金丸中尉の甲冑姿が撮影されたのは、昭和3年の済南事件の時である。したがって、済南事件について読者諸氏に説明する必要もあるだろう。しかし事件の背景には大日本帝国の対外政策と、辛亥革命〜中華民国の確立と云う政治的事情と、当時の中国軍の性質と云う、ひじょうにややこしい問題が存在しているのである。

 教科書流に云えば、中国全土掌握のために、国民党政権が北方に送り込んだ軍隊と、居留民保護のため現地に出兵した日本軍との軍事衝突である。

 まあヤクザな大家が、抗争に敗れた末に、雑多な住人をかかえるアパートを手放した、と思ってもらいたい。話の根底がわかるように、住人であるあなたには外国人留学生になってもらおう。抗争に勝ち残って、アパートを手に入れた新しい大家がやってくる間、どさくさまぎれに泥棒が入ってきたりしたので、やむを得ずあなたは腕っ節の強い友人を連れてきて、部屋に住まわせたのである…。(あなたは、元の大家との賃借契約は切れていないのだから、新しい大家に契約を引き継ぎたいと思っている)

 しかし新しい管理人(右がかった日本人である)は、外国人がアパートにいること自体が気にくわないため、勝手に他人を連れ込んだあなたに激怒、新しい住人や、仲の悪い隣人と一緒に、自転車のタイヤの空気を抜いたり、カナリアに毒を盛ったりと嫌がらせをしてくるのである。
 怒った友人は管理人に殴りかかり、あなたの部屋は大騒動となる。
 この時点ではあなたの部屋の中だけの騒ぎであるが、嫌がらせはまだ続くため、友人は管理人に嫌がらせの即時停止を要求、管理人からの明確な回答がないため、友人は管理人を叩き出してしまうのである。

 その後、友人の提案もあって念のため、もう一人ケンカの強い友人をアパートに呼び込んだが、幸いにしてこれ以上の騒動は起こらず、友人は引き上げていく…。これが済南事件(済南事変、第二次山東出兵〜第三次山東出兵)とよばれる出来事となる。

 蛇足ではあるが、最初にアパートを手放した大家がどうなったかと云えば、故郷に戻る途中、謎の電車事故で死んでしまうのである(笑)。これ満洲某重大事件こと、張作霖爆殺事件である。
 日本史の上では、中国への「進出」の一頁として有名であるが、兵器ファンにはなじみが薄い事件なのである。戦車出てこないし。



 武力衝突自体は短期間で収まり、その直に北軍の首領である張作霖本人が爆殺されてしまい、歴史の動きがエライ方向に向かってしまったため、済南事件は忘れられてしまう(この事件が一部で有名なのは、中国革命の締めくくりであるのと、日本人居留民が殺害されているからである)。そんな扱いだから、そこにいた1将校の話なんぞ、残りようがないのである。
 よってすべての疑問を解明するには、とにかく済南事件当時の資料にあたる以外に方法はない。そこで調査方針を立ててみる。

 金丸中尉の甲冑姿が今も毎日新聞社のスクラップブックの中に存在していると云う以上、新聞記事として掲載された可能性は極めて高い。また、帝国軍人、それも将校が甲冑を着込んで戦場に立っていた事が写真になっている以上、良否の別はあれ、軍の記録に残っていてもよいわけである。

 調査の方向が見えれば、あとは資料を探し出して目を通し、疑問に対する答えを見いだすだけである。



 実際の調査に乗り出す前に、手持ちの資料も詳細に検討してみる必要がある。「金丸中尉」が何者か、と云う事が少しはわかれば、郷土部隊史から情報が得られる可能性もあるからである。まずは例の写真をじっくり観察する。

 詰襟になっている軍服をよーく見れば、右襟に数字らしきものがある。これがヒントになる。数字は「47」と読める。師団か旅団か連隊か(以下略)の識別番号ですね。私は以前、「襟の数字は連隊番号」と云う事を聞いているので、これは「47連隊」所属に違いない、とアタリをつけておく。この写真が掲載されていた本には、済南事件には、第六師団が出動した、と書かれているので、これも覚えておく。

 総督府にある、「一億人の昭和史 日本陸軍史」を引っぱり出して、「師団と連隊 郷土歩兵60個連隊の戦歴」と云うページを紐解けば、第六師団が熊本にあり、その下に歩兵第四十七連隊が、大分にあることが確認できる。
 つまり、「金丸中尉」の甲冑が先祖伝来のものであれば、大分から鎧を持って大陸に行った、と云うことになる。しかし、将校とはいえ、鎧のような嵩張り、かつ重量のあるものを「こっそりと」持ち出したとは考えづらい…。そこでさらなる仮説が生まれる、

 1.本籍は九州にあるが、実は山東に家があり、そこから持ち出した。
 2.「先祖伝来の鎧であるから」と持ち出し許可を受けた。
 その答えはどうなのかは、後のお楽しみである…。

 ここまでの情報を持って、まずは九段下の昭和館に出向く。図書室への入場は無料であるし、パソコンを使った検索システムが充実しているし、なによりヘンな雑誌や書籍が多い。
 「済南事件」をキーにして書籍を検索すると、「熊本兵団戦史 満州事変以前編」(熊本日日新聞社、昭和40年)と云う本が引っかかったので、取り寄せて読む。歩兵第47連隊が、済南市の西地区の警護にあたっているとの記述を見つける。さらに読み進むと、

 在留邦人の救出
 自宅に帰っている日本人を、充満する敵中から救出することはもっとも重要なことであった。(略)なかでも普利門に近い地域には多数の邦人が残っていることが判明し、歩兵第四十七連隊の、金丸小隊と菅沢小隊が、救出に急行した。二十六人を救い出したが、帰途をさえぎられ、ついに敵の重囲に陥った。奮戦の末、奇知をもってこれを突破し(略)

 と云う記述を見つける。金丸氏の名が戦史に残っていることが確認できた。が、この時甲冑を着ていたのかどうかはわからない。
 さらに読み進むと、済南城攻城戦のくだりに以下の文を発見する。

 ラク(さんずいに樂)源門の占領
 (略)午前二時ごろ、壁上の銃声が急にやんだのを怪しんで、歩四十七第六中隊長木庭大尉(熊本市出身)は、国弘強上等兵以下三人、高橋隆見上等兵以下三人の、二組の斥候を派遣して、城壁上の敵情を偵察させた。斥候は城門南側の城壁にハシゴをかけ、さらにナワをつるして、壁上によじ上った。同じ時刻に機関銃小隊長金丸高秋少尉は単身でラク(さんずいに樂)源門に上った。数人の敵があわてて逃げた。城壁の上には、すでに敵はいなかった。ときに五月十一日午前四時であった。歩兵第四十七連隊は直ちにラク(さんずいに樂)源門およびその両側に連なる城壁を占領し、歩兵第十三連隊は、内城西南角を占領した。

 済南城占領の手柄に一役買ったらしいことが読みとれる。「数人の敵があわてて逃げた」と「城壁の上には、すでに敵はいなかった」とは、矛盾した書きようだが、それは不問としよう。フルネームも「金丸高秋」と云うことが判明した。しかし「少尉」と云うのが気になるところである。



 日を改め、今度は九段上の偕行文庫をたずねる。こちらはより軍に特化した資料で有名なところだ。「金丸高秋」氏についての情報を得る。
 偕行社「保存版 陸軍士官学校」(昭和44年)に、士官学校の歴代の卒業者名簿が掲載されているので、これを探ると 「第35期 歩兵 金丸高秋」の名前があり、1923(大正12)年卒業という事がわかる。ついでに「大分連隊写真集」も調べてみたが、残念ながら写真は無い。しかし金丸「中尉」が機関銃隊に所属していた、と云う情報を得ることができたのである。さきの「熊本兵団戦史」での「金丸高秋少尉」は、やはり「中尉」の誤りらしい…。

 引き続き「済南事件外史 刃のほこり」(昭和5年)、「済南事件を中心として」(昭和3年)と云う、事件に関する逸話集をを読んでみる。が、これらの文章の中には、甲冑の話もなければ、金丸中尉の名前もない(手柄を立てているんじゃないのか?)。であれば、事件当時刊行された写真資料に、甲冑姿の金丸中尉の写真があるのではないか、と写真集も並行して調査してみる。

 事件の写真集は何種類かあるのだが、発行年、発行者不詳の「山東派遣軍記念写真帖」の中に、甲冑姿の金丸中尉の写真を発見した。キャプションには、
 甲冑を着て一番槍の殊勲者 歩兵第四十七連隊第二大隊の金丸中尉
 と書いてある。


背景はハメコミ合成です

 この写真を良く見てほしい。最初にあげた写真とポーズが違っているのがお分かりであろう。こちらの写真では、足の写り方が異なっている。さらに刀の持ち方も違っているし、左脇に下がっている板(一般的な鎧では<鳩尾の板>と云う一枚板なのだが、この写真では右脇にある<栴檀の板>と呼ばれる小札を威した形態となっている)の見え方が大きい。つまり歩いてくるところを捉えた写真なのである。
 ここで私は驚くのである。甲冑写真が一枚あっただけでも大変なのに、同一人物の写真がもう一枚出てきてしまったのだ。

 さらに当時の写真集を探す。「山東省動乱記念写真帖」(青島新聞社、昭和3年7月)にも、「山東派遣軍記念写真帖」と同じポーズの写真を発見する。よく見るとメガネがないのだが、顔以外に違いが確認できないので、見栄えの理由で修正がされたものと思われる。
 こちらのキャプションはもう少し詳細である。


こっちの方が勇ましい

 甲冑に身を固めて一番槍の功名金丸中尉
 五月十日夜半から十一日未明に亘る内城攻撃戦の際 第四十七連隊第二大隊の金丸中尉は 東文学校より借入れた鎧兜に身を固め 要害堅固なラク源門(ラクはさんずいに楽)を真先によぢ登って開門し 一番槍の功名を挙げた
 と書かれている。

 驚く無かれ、あの甲冑は借り物だったのである。
  
 
 これで金丸中尉の甲冑の出所が判明した。現地での借り物であれば、どうやって日本から持ち出したのか、などと云う疑問は一気に解消してしまう。甲冑=先祖伝来と云う思いこみが、「一億人の昭和史」編集者にはあったようだ。まあ、私もそれを疑わず(多分あの写真をみたことのある読者諸氏のほとんども)そのままにしていたのであった。いずれにせよ美談度は一気に下がり、堅固な城門を真っ先に突破したという、一個の武勇談が残るのみである。
 しかし、美談にはならないとは云え、一番槍の功名は功名のはずである。当時の事変談に書き残されていないのは妙な話ではないだろうか?

 さて、美談の追求はひとまず置いて、当時の新聞が、この出来事をどう伝えていたかを調べてみる。昭和館の「朝日新聞」縮刷版には金丸中尉の記事がない。しょうがないので国会図書館まで足を伸ばし、マイクロフィルムをたぐってみると、「東京日日新聞」昭和3年5月13日(日)の記事に

 済南城占領の先陣は
 甲冑をまとえる勇士
 猛射を浴びつつ進撃す

 (済南12日発 陸軍省着電)
 9日夕刻以来済南内城正面において勇敢に戦闘していた小泉大隊と交代したる第六師団の歩兵第四十七連隊第二大隊は大隊長及川少佐の指揮の下に引続き攻撃を続行していたが11日午前3時半同大隊の金丸高秋は身に甲冑を纏い猛射を浴びつつ梯子を利用し勇敢に城壁をよぢ先頭第一に城門を占領した、かれは南軍が北方に退却中なるを見下し直ちに大隊長に報告、及川少佐は大隊を率い場内に進撃午前4時確実にラク(さんずいに樂)源門を占領した。金丸の甲冑姿とその勇敢なる活動振りとは目下陣中における戦争挿話の中心に成っている

 「金丸高秋」、「金丸」と書かれているところに注意。同日発行の「大阪毎日新聞」(余談であるが、東京日日新聞は今の毎日新聞東京本社である)の地方版「西部毎日(長崎・佐賀版)」には

 猛射を浴びながら 第一に城門を占領
 大分第四十七連隊の勇士金丸君
 勇敢なる行動陣中の語り草となる

 (済南12日発 陸軍省着電)
 9日夕刻以来済南内城正面において勇敢に戦闘していた小泉大隊と交代した第六師団の歩兵第四十七連隊第二大隊は、大隊長及川少佐の指揮の下に引続き攻撃を続行していたが、11日午前3時半同大隊の金丸高秋氏(等級不明)は兜を纏い南軍の猛射を浴びながら梯子を利用して勇敢にも城壁を登攀して先頭第一に城門を占領した、彼は南軍が東北方に退却中であることを直に大隊長に報告したので及川大隊長は全大隊を揚げ場内に突進し、午前4時確実にラク(さんずいに樂)源門を占領した、金丸氏の兜姿とその勇敢なる活動ぶりは目下陣中における戦闘挿話の中心となっている

 九州男児が頑張っているからなのか、「金丸君」、「金丸高秋氏(等級不明)」、「金丸氏」と敬称がついているのがミソである。記事そのものの内容は、どちらも同一なのだが、「甲冑」が「兜」になっているなど細かい違いがあって面白い。
 これが済南城占領の第一報となる。つまり「一番槍」の出所というわけだ。歩兵第四十七連隊地元である「西部毎日(大分・宮崎版)」の記事も同一内容である。
 「熊本兵団戦史」では、国弘上等兵らの活躍が書き残されているが、「甲冑」「兜」のインパクトに負けた感がある。



 金丸中尉の人となりがわかる記事はないか、と引き続きマイクロフィルムを手繰っていると、

 偉勲を立てた
 金丸中尉

 と云う顔写真入りの記事を発見した。「西部毎日(大分・宮崎版)」昭和3年5月15日


新聞にものすごく小さくでていた顔写真


 (大分)済南城占領に際し鎧甲のいでたちで一番槍の偉勲をたて戦闘挿話を残した大分第四十七連隊機関銃隊付金丸高秋中尉は福岡県出身で、今年二十八才、頭脳明晰にして機知に富み、頭の人として大分連隊内でも評判の将校、今度の変わったいでたちとその偉勲は留守隊でも話の的となっている

 金丸中尉は、当時28才だったのだ。「頭の人」という言葉が使われているが、のらくろ中尉みたいな人だったのだろうか? 残念ながら、これ以上の情報はいまだ得られていない…。

 そして、ようやく新聞紙上に金丸中尉の甲冑姿が掲載される。「東京日日新聞」昭和3年5月20日の夕刊(市内版)に「済南画報」と題された写真3点のうちの一つである。

 ラク(さんずいに樂)源門の一番乗りをした甲冑姿の金丸中尉


重厚な趣を持つ写真である

 毎日新聞社のフォト・アーカイブに金丸中尉の写真がある以上、必ず本紙に掲載されているはずだ、という予測はしていたのだが、この写真がなんと<歩きバージョン>なのである! これはまったくビックリであった。写真の背景にトラックが見えることから、「一億人の昭和史」の写真と同じ場所で撮影されたと推察されるのだが、それは二枚撮影されたと云うことである。当時のカメラの構造−云うまでもないが、フィルムは高価であり、連写性能も低い−を思うと意外の感がある。
 新聞に掲載された写真が<歩きバージョン>であることから、先に発見した「山東派遣軍記念写真帖」等の写真も、同じものが(おそらく複写の上)使用されたものと思われる。

 朝日新聞に甲冑写真がなく、現在「一億人の昭和史」くらいでしか甲冑写真をみることが出来ない現状から考えると、大阪毎日新聞社(および東京日日新聞社)の特ダネだったようである。
 ちなみに、大阪毎日新聞社は、写真班と映画撮影班を現地に派遣しており、日本各地で映画上映会を開催している。「西部毎日(大分・宮崎版)」5月25日に、大分第四十七連隊集会所で、留守隊向けに上映を行ったとの記事が掲載されている。この記事によると、そこには甲冑姿の金丸中尉も映っているとのことである…。


おそらくは本邦初の金丸中尉の勇姿揃い踏み。とても同一人物には見えない(笑)。

 さて、金丸中尉の甲冑写真が二種類存在すること
 甲冑は借り物であったこと
 連隊内でも有名人
 済南城占領一番乗り

 と云うことを延々と書きつづってきたわけなのだが、最後に残ったのが、金丸中尉の甲冑姿が忘れられた事実である。



 金丸中尉の紹介記事が掲載された5月15日の「西部毎日(大分・宮崎版)」で、「済南城の大手柄は我が大分連隊」と、留守隊の伊藤中佐は喜んでいる。しかし、「西部毎日(熊本・鹿児島版)」すなわち第六師団本部の地元版では、同じく済南に出兵した歩兵第十三連隊(熊本)、安藤連隊長の「出征日記」が連載されており、5月30日の記事には「大分連隊は抵抗を受けずこの朝ラク(さんずいに樂)樂源門を占領した」と、暗に、「大手柄ゆうてもタナボタやんけ」と、さきの伊藤中佐の談話を否定している。
 ところが困ったことに「西部毎日(大分・宮崎版)」には同時期、大分連隊の大江大尉が「陣中日誌」を寄稿しており、こちらの5月30日では「一番乗の誉は大分連隊に」という見出しが書かれているのである(笑)。

 金丸中尉の甲冑姿が忘れられた遠因として、出征部隊同士の論功をめぐる何かがあった、と思うのは下司の勘ぐりと云うものなのだろうか…。

 同じ九州同士で対立している「陣中日記」と「出征日記」であるが、ともに5月30日で完結している。戦闘が収束してしまったために、マスコミの興味は山東半島から急速に失われていくのである。



 済南事件について、参謀本部は、出兵が完了した昭和5年になって、「昭和三年支那事変出兵史本編」と云う名称で、豪華な造本の戦史を刊行している。軍そのものが刊行する戦史は、大日本帝国の正式な歴史を構成するものであり、ここに書かれている事が、「歴史的事実」として第一に扱われなければならない。

 ところが、金丸中尉が、ラク(さんずいに樂)源門を開門したと云う出来事が、この本には記述されていないのである。金丸小隊が邦人救出に出動して苦戦した事や、金丸中尉が装甲自動車を指揮した事は書かれているのに、である。
 以下にそのくだりを掲載する。本文は漢字カタカナ混じり、濁点句読点ナシと云う、すこぶる読みづらいものであるので、平仮名化、句読点その他の付加をほどこし、読みやすくしてある。カッコ内は、もともと小文字で書かれていた部分である。(昭和館所蔵本による)

 歩兵第四十七連隊ノ内城占領(第四章 第十節 済南城ノ攻略より)
 歩兵第四十七連隊は、十一日午前一時発旅団命令に基き、連隊長は中尾中隊(本部付大尉 中尾哲士を長とし、第五、第九、第十中隊の各一小隊より成る)を済南警備部隊長(小泉中佐)の指揮下に入れ、第九中隊(一小隊欠)を旅団予備とし、第三大隊(第九中隊第一小隊及第十中隊第三小隊を欠き機関銃第三小隊を付す)を右第一線として内城西南角附近、第二大隊(第五中隊を欠き機関銃第一小隊を付す)を左第一線としてラク(さんずいに樂)源門付近に対し、攻撃を準備せしめ、第五中隊(第三小隊欠)及機関銃隊(機関銃二小隊欠)を連隊予備として丁字街に位置せしむべく部署せり。両大隊は十一日午前二時頃第一線を概ね城壁西側水流の線に達し、攻撃準備に従事せしが、第二大隊長は午前三時五十分将校斥候の報告に依りラク(さんずいに樂)源門付近に敵兵なきを知りて、第一線に前進を命じ、敵の抵抗を受くることなく午前五時二十分ラク(さんずいに樂)源門付近を占領し、第三大隊は第二大隊のラク(さんずいに樂)源門占領を知りて前進を起し、午前六時二十分頃歴山門を占領せり。

 「一番槍」に相当する記述は、「将校斥候の報告に依りラク(さんずいに樂)源門付近に敵兵なきを知りて」、と云う金丸の「か」も、甲冑の「か」の字も無い、ごくあっさりとしたものであった。


 すなわち、金丸中尉の一番槍の手柄は、戦史から抹消されてしまったのである。しかし、戦後刊行された「熊本兵団戦史」や「兵旅の賦 昭和編」(北部九州郷土部隊史 史料保存会、S53)には金丸中尉のラク(さんずいに樂)源門単身登攀の事が記載されているのだ。郷土部隊の偉業を残したい、と云う九州人の郷土愛をもってしても、「甲冑将校」と云う、アナクロの極みである存在だけは封印したかったものと見える。

 中世以来の鎧武者を打ち破って成立した帝国陸軍の将校が、うち捨てたはずの甲冑を身に纏い、城壁をよじ登ったと云う逸話は、まさに歴史の皮肉である。しかし、帝国陸軍がボディアーマーを実用化して上海事変等で使用していることを思えば、金丸中尉の思いつきは彼の機知を物語るだけで、別段武人にあるまじき卑劣な行為、とは思えないのである…。

 郷土に凱旋したはずの金丸中尉は、自分の晴れ姿をどう眺めていたのだろうか…。

で、甲冑はちゃんと返したんでしょうか?