日本は豊かになったらしい

おもちゃの紙幣いまむかし


 子供のころ、食卓に並んだ食べ物を箸でこねくり回しては、「食べ物をおもちゃにするんじゃありません!」と叱られた記憶がある。その一方、「お金をおもちゃにしてはいけません」と云われた記憶がまったく無い。考えてみれば、おもちゃにするようなお金が我が家にはなかったのだ。

 お金をおもちゃにする、という行為を想像すると、紙幣を折り曲げて図柄の人物を泣き笑いさせてみる(と云う芸を見せてもらったことがあるのだが、再現できなかったので、図版はないです)だの、10円玉を直立させるような、馬鹿馬鹿しい事しか思い浮かばない。

 その一方で、「おままこど」や、「お店やさんごっこ」には、やっぱり「お金」が欲しい。受け渡しの所作だけでも、葉っぱやチラシの切れっ端(もちろん日本銀行券でも良いのだが、親に取り上げられるのがオチである)でもかまわないのだろうが、真剣かつ臨場感を追求すれば、道具立ても立派なモノが要求されるわけで、ここに「おもちゃのお金」が「商品」として売買される理由が現れるわけである。
※想像力を育む、と云う意味においては、「これ、お金のつもり」が良いのだろうが、それだと後に続かないのである。

 「おもちゃのお金」の起源がどこにあるのかは定かでは無いが、1923(大正12)年に発表された、江戸川乱歩の「二銭銅貨」の中で、すでに登場しているのだが、それは大人向けジョークグッズとしての性格の方が強かったようである。しかし、今回紹介するモノは、あきらかに子供をターゲットにした商品であることは疑いが無い。


貯金あそびパッケージ

 八王子の古本屋で入手したモノである。昭和30年代ころのデッドストック品らしい(まだ買えます)。
 ご覧の通り、商品名が「貯金あそび」なのである。庶民の不測の事態に備える術である「貯金」をあそびにしてしまえるのは、大人の庇護のもとにある子供だけの特権である。

 この妙に味のあるイラストを見る限り、「貯金」なのか「現金かっぱらい」なのか判断できない。この「貯金あそび」と云う商品名は、「おもちゃのお金」をままごと遊びの小道具だけでなく、「お金」そのものを遊びの主役として活用してもらい、少しでも売上を伸ばそうとした、メーカー苦心のネーミングなのであろう。しかし、

 こんなモノ買うくらいなら、貯金しなさい!

 と、ひっぱたかれるんじゃあないだろうか…。


貯金あそびパッケージ

 メーカーとしては、どんな使われ方をされようが、とにかく「お金」が売りたい(凄い日本語だね)。したがって、お金があって当たり前なシチュエーションが、パッケージに選ばれるわけである。金庫、電話、帳面にソロバン、会社を思いっ切り戯画化した姿がここにある。

 絵描きさんが、「俺もこれくらい札束を積み上げてみたいものよ」と思い、駄菓子屋のオバチャンが「こんなにお金があったら、こんな商売してないワ」と嘆いた事は想像に難くない。まったく罪なおもちゃである。

 このイラストのように遊ぶには、「貯金あそび」を百、千と用意しなければならないのだ。なにしろワンセットの「お金」は、三枚つづりのモノが四枚のしめて12枚しかないのである。

 それから月日は流れ、「おもちゃのお金」は、ここまで精密なモノになった。


お金もちあそびパッケージ

 これは新宿の百円ショップで入手したモノである。実在の紙幣を模した紙幣に、プラスチック製の貨幣まで入っている。最初に紹介したモノと比べ、かくも日本の玩具は進化?したのである。
 しかし、変わったのは印刷だけではない。この「おもちゃのお金」の商品名は驚くなかれ

 「お金もちあそび」

 なのである。「貯金」の結果、日本人はついに「お金もち」を名乗るに至ったのだ。


イラストを拡大したもの

 「お金もちあそび」と云う名称だけでも驚くが、付いているイラストを見れば、お金を投げ合って遊んでいるではないか!

 お金持ちとは、お金を投げて遊ぶ人だったのである!

 「貯金遊び」のイラストでは、お金を持つ喜び、積み上げる喜びがストレートに表現されていたのだが、高度成長期を過ぎ、バブル経済を通過してしまった現代にあって、お金は「消費するモノ」でしかない。買い物しようが、投げ合おうが、結局は手許から消えて無くなってしまうことには変わりがない。

 「おもちゃのお金」とは云え、市中に流通している貨幣・紙幣と似ていなければ、ごっこ遊びの楽しさも半減である。と云うわけで、昭和30年代頃とおぼしき「貯金あそび」の紙幣も、板垣退助や二宮尊徳らしき画を入れているのだが、1円と5円が右からの横書きになっているところは注目である。


「貯金あそび」の紙幣

 しかし、一番のポイントは、これを使ってジャンケン遊びも出来る、と云う貧乏性なところを見せている事で、


夢の高額紙幣

 どっちがオモテか分からない拾万円札の「チョキ」が脱力モノである。高額紙幣になると、実物が存在しないがために、画描きのイマジネーションが問われるのだが、ご覧のように、とても金持ちが描いたモノには見えない。


印刷技術は格段に進歩を遂げているが、やっぱり「子供銀行」なのだ

 一方、現代のものはホンモノそっくり(実物を複写して利用しているのだろう)だが、それゆえに画描きの個性は出てこない。実用することが出来ない模造紙幣を通じて、貨幣経済の欺瞞を撃つ!と云う意味(これを真面目にやったのが、赤瀬川原平の『模型千円札』と『零円札』である)では、現代の方が優れているのだろうが、ネタとしては手描きの味を評価したいものである。


ウラはただのボール紙

 印刷技術の進化と低廉化を見せる、現代の「おもちゃのお金」だが、それは表面だけのことで、ひっくりかえすとウラはボール紙そのままで、騙されたような気分になる。しかも、一枚の厚みがメンコや昔の切符なみとは云わないが、それなりにあって、「お札」と云う感じがまったく無い。紙幣の持つ質感と云う面では、むしろ退化しているように思われるし、なによりも数えて遊ぶことが出来ないのだ。

 赤塚不二夫のマンガで、大金持ちの金庫に入った主人公達が、お札の海で溺れそうになる、と云うものがあったが、実際のお金持ちが、そんな金庫を持っているわけがなく、財産は土地や債券、銀行口座の数字として持ち主の目の届かない場所で安全に保管されていることは、今では子供でも知っているだろう。
 と云うわけで、今時の「お金もちあそび」には、小切手帳とクレジットカードが欠かせない。株券も手形も必要だ。

 「札束で顔を張る」のも一度はやってみたいのだが、「欲しい額を書いて下さい」と白紙の小切手を渡す方が、スマートであり、嫌味ったらしいので、おもちゃの小切手帳はあったら欲しい。
 云うまでも無いが、もらうのであればホンモノに限る(笑)。