味方だっていつか死ぬ。

「戦場の死体」考


 戦場を取材する局面においては、死者の存在をどう取り扱うかが、大きな問題となる。写真・映画といった映像取材の際は、死体を撮る・撮らないと云う取材者の姿勢に始まり、映像を使用する出版社・映画社での掲載・上映の可否判断が常に存在する。
 敗戦まではそれに加え、製作された媒体に対して、国家の公開の許可・不許可、すでに公表された出版物の回収と云う検閲と指導まで存在していたのである。

 戦前日本において、日本軍兵士の死体写真の公表は、検閲により禁止されていた、と云うのが一般的な見方である。しかし、検閲の基準がどのようなものであったのかを、すらすらと云える人は少ないと思う。かくなる主筆もその一人で、とにかく法律そのものにあたってみる、と云うことにようやく気がついた次第である。
 その法律は「新聞紙法」、「出版法」と云う。検閲に関する条文を抜き出してみる。

新聞紙法(明治42年法律第41号)
「中野文庫」のコンテンツより(条文すべてを読みたい方はここから)
第十一条 新聞紙ハ発行ト同時ニ内務省ニ二部、管轄地方官庁、地方裁判所検事局及区裁判所検事局ニ各一部ヲ納ムヘシ

第二十三条 内務大臣ハ新聞紙掲載ノ事項ニシテ安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スルモノト認ムルトキハ其ノ発売及頒布ヲ禁止シ必要ノ場合ニ於テハ之ヲ差押フルコトヲ得
2 前項ノ場合ニ於テ内務大臣ハ同一主旨ノ事項ノ掲載ヲ差止ムルコトヲ得

第二十七条 陸軍大臣、海軍大臣及外務大臣ハ新聞紙ニ対シ命令ヲ以テ軍事若ハ外交ニ関スル事項ノ掲載ヲ禁止シ又ハ制限スルコトヲ得

出版法(明治26年法律第15号)
「中野文庫」のコンテンツより(条文すべてを読みたい方はここから)
第三条 文書図画ヲ出版スルトキハ発行ノ日ヨリ到達スヘキ日数ヲ除キ三日前ニ製本二部ヲ添ヘ内務省ニ届出ヘシ

第十九条 安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得
 それぞれの法律に共通するのは、原本を必ず内務省(新聞の場合は所轄官庁と裁判所にも)提出することと、内務大臣(実際は内務官僚ですね)が内容により発売と頒布を禁止できることである。「表現の自由」問題で話題になる「検閲」は、ここの部分を指しているのである。「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノ」が具体的に何を示すかについては調べきれていない。取り締まられる側の回想や、発禁になったモノを見て推測するしかないのが現状のようである。

 これらの法の目的は、国家の「安寧秩序」の維持である。左がかった書き方をすれば「天皇制イデオロギーの維持」であり、右に寄ってみれば「神世から続く国体護持」と云うことになる。しかし法を行使するのは、時の政権であるから、所詮現体制批判の封じ込めに他ならない。必要があれば右も左も真ん中までも斬って捨てることが出来る。

 しかし「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スルモノ」でありそうな死体写真は、「エロ・グロ・ナンセンス」の時代においては、現代の写真週刊誌同様、容認されていたようである(このあたりの実例は、「別冊太陽 乱歩の時代」(平凡社)を参照されたい)。 ※1

 冒頭に掲げた写真は、歴史写真 昭和7年新年号(満洲事変特篇号)に掲載されたものである。記事は以下の通り。
戦友が涙の敬礼

 昂々渓の戦いは今次満洲事変中最も激烈なる戦闘であった。此の戦いに於て多門第二師団長は欧州大戦当時独逸の執った中央撃破の戦法を用い、乗るか反るかの一大決戦を以て敵の撃滅を図ったので従って我軍の損害も意外に甚だしかった。写真は戦線より護送される戦死者に対し戦友等が涙の敬礼である
 この記事にある「昂々渓の戦い」とは、満洲事変(解説するのも面倒なくらい、日本史上重要な出来事であるが、そのバックグラウントと影響に関する記述と反比例するように、どう云う戦闘があったのかは案外知られていない)時に東北軍閥の馬占山軍との間で行われた戦闘である。この戦闘をさきの「歴史写真」はこう記す
 11月18日昂々渓の戦いに我が多門第二師団長は二万以上の大敵に対し僅か四千足らずの兵力を以て敢然中央突破の戦法を取り、遂に敵の主力陣地を撃破して是を潰乱せしめたが、該戦闘に於ける我が軍の死傷は百三十五に上った。(略)

 戦場の死体写真が、どうして「安寧秩序ヲ妨害」するのか、について推察してみれば、「自分もこうなるかもしれない」「肉親がこうなるかもしれない」>「戦争はよくない」>「戦争をやめろ」>「戦争を続ける政府が悪い」とエスカレートしたあげく、国家当局が蛇蝎のごとく忌み嫌った「革命」(当時のそれは何故かアカい)の勃発と戦争からの脱落−敗戦−と云う図式があったのだろう。

 「別冊太陽 発禁本」(平凡社)は、タイトル通り<発禁本>の数々を豊富な図版と文章で紹介している本であるが、ここに「黄海々戦ニ於ケル松島艦内ノ状況」※2と題された本が紹介されている。明治29(1896)年に出版されたもので、著者は海軍大尉 木村浩吉である。
 そこには<十二珊ノ敵弾来ッテ七番軽砲砲座ニ命中シ砲身砲楯ヲ拂フ>と<平遠ノ二十六珊弾我中央水雷室ヲ修羅場ニ化セシム>(珊はサンチすなわちセンチメートル)と詞書きのある、二枚の原色木版図版が掲載されている。
 どちらの図も、砲弾で破壊された艦の構造物が散乱する中に、手足ちぎれ、白い骨と灰色の腸をはみ出させた血塗れの水兵達が倒れていると云うもので、その顔色、息のあるものは肌色をし、動かぬものは土気色をしている。
 日清戦争、日露戦争ともに戦争錦絵と称される版画が多数頒布されている(「日本の錦絵」シリーズとして幕末〜大正時代に至るものが、気のきいた図書館においてある)が、ここまで残虐描写(リアリズム描写の別名でもある)に走ったモノは見たことがない。


「黄海々戦ニ於ケル松島艦内ノ状況」
<平遠ノ二十六珊弾我中央水雷室ヲ修羅場ニ化セシム>


 この本が発禁になった理由のほどは書かれていないが、ともかく日本軍人の戦場死体図版は発禁になるのである。「発禁本」に掲載された写真図版を見て想像するに、「五体バラバラ」と「顔が崩れているモノ」は戦場はもちろん、病院や法医学資料であっても駄目なようである。と書くと「さらし首」はどうなるんだ、とツッコミが入るわけだが、首を曝すのは司法当局の仕事になるから、許されるのではないか、と云うのが私の見解である。


 上は天皇陛下から下は細民窟の病人まで、人である限りいつか死体になる。日本神話でも一日千人死ぬことになっているくらいだから、死と云うものは死ぬまで見ずに隠し通せるものではない。葬式に出れば、敬虔な顔をして死者の顔くらいは見るものだ。
 ところが、いくらイザナミが一日千人殺す、と云ったところで一箇所で千人一度に死ぬわけでは無い。一つの病院で一日何人の方が亡くなられるのかは知らないが、臨終の時を迎えるのは一箇所に一人が相場となっている。つまり我々は一度に複数の死者を見ることを「異常なこと」として認識せざるを得ない。また、人が死ぬのは天寿をまっとうしてお迎えが来るからだ、と云う意識もある。だから子供や若者や働き盛りの人が突然亡くなると「エッ」と理不尽な思いにかられる。


 戦場では、心身頑強な兵士(めったなことでは死なないはずの人)が、武器を使う。操作訓練を受けた者が使う武器であるから、これは危険である。相手も同じような武器を使う。だから戦場では人が死ぬ。そこに集う兵士が多ければ、それだけ戦死者も増える。つまり、戦場にいない人にとっては、異常な光景以外の何物でも無い。

 異常なことはまだある。我々が死ぬと、遺族は葬儀屋に頼んで葬式〜火葬までの段取りをとってもらうわけだが、現代の都市では葬儀場から火葬場まで死者は霊柩車で運ばれる。大災害や戦災で都市基盤が相当の被害を受けない限り、乗り合い霊柩車は必要でない。ところが大きな戦場では、むしろ死者は集積される。荷車やトラックに積み上げられて一度に運ばれ、一つの穴に埋葬される。本来別々の理由で死に、銘々別個に葬礼を受け埋葬される人間が、そのような処遇を受けることが出来ないのだ。死が穢れとして忌まれ、死体が放置された時代はさておき、遺族にお金があれば壮大な葬礼を、貧しくともささやかな葬式くらいは出してやりたいと皆が思う時代にあって、材木のように積まれ、石のように穴に放り込まれるとすれば、見る者は死者に対する冒涜と思うだろう。「お国の為に」死んだ兵士を、その国が「モノとして処理」をする様子を見れば、遺族や、その他の人も国家に対して腹を立てるであろう。
 だからこそ、自国の戦死者そのものの写真は、国家の側からみれば公開されてはならないのである。勇ましく戦って散った者が、野積みされたり、荷車で運ばれる場面を見せてはいけないのだ。しかし、戦死したと云う事実は隠蔽のしようが無いので、国家としては、荘厳かつ厳粛な葬儀の様子は公表するのである。※3


 しかし、安寧な生活を続けていると、人間心掛けが悪くなるものである。戦争があれば、平和を唱えつつも色々理由をつけて戦場の情報を野次馬的に見たくなるのが人情で、それは商売のネタになるものだ。マスコミ各社が特ダネを求めて競争すれば、最終兵器として「戦死者の写真」が出てくることもあるのである。

※1:軍事分野に限れば、新聞紙法第二十七条に「陸軍大臣、海軍大臣及外務大臣ハ新聞紙ニ対シ命令ヲ以テ軍事若ハ外交ニ関スル事項ノ掲載ヲ禁止シ又ハ制限スルコトヲ得」、出版法第十八条では「外交軍事其ノ他官庁ノ機密ニ関シ公ニセサル官ノ文書及官庁ノ議事ハ当該官庁ノ許可ヲ得ルニ非サレハ之ヲ出版スルコトヲ得ス」第二十一条「軍事ノ機密ニ関スル文書図画ハ当該官庁ノ許可ヲ得ルニ非サレハ之ヲ出版スルコトヲ得ス」と、改めて制限をもうけてある。しかしこれではあまりにもアバウトであるため、支那事変勃発時には
 「新聞掲載事項許否判定要領」(昭和十二、九、九 陸軍省報道検閲係)と云うガイドラインも定められた。これは中国との「事変」に対し、日本政府の主張を正しく報道せよと云うものであるが、
四、左ニ列記スルモノハ掲載ヲ許可セス
  ((1)〜(11)は略)
  (12)我軍ニ不利ナル記事写真
  (13)支那兵又ハ支那人逮捕尋問等ノ記事写真中虐待ノ感ヲ与フル虞アルモノ
  (14)惨虐ナル写真但シ支那兵又ハ支那人ノ惨虐性ニ関スル記事ハ差支ナシ
 (「シリーズ20世紀の記憶 秘蔵の不許可写真1」毎日新聞社)
 と戦場取材記事・写真の掲載不許可基準を示している。

※2:黄海海戦は、日清戦争において帝国海軍と清国北洋水師の間で行われた海戦で、松島は北洋水師が誇る甲鉄艦を撃破するべく、大型の大砲一門を搭載した<三景艦>の一隻で、この海戦で甚大な損害を受けている(このあたりの話を判りやすく描いている読み物として、「宮崎駿の雑想ノート」(大日本絵画)をあげておく)。

※3:明治〜戦前の都市部の葬礼と、霊柩車の歴史については、井上 章一「霊柩車の誕生」(朝日新聞社)にくわしい。