軽戦至上主義



     日本戦闘機の特質とは何でしょう?それは運動性がいい、ということですね。日本
        の単発単座戦闘機中もっとも運動性が悪いとされる2式単戦「鍾馗」でさえ旋回性能
        で「F6F」と同等、さらに例をあげるなら、双発の2式複戦「屠龍」の旋回性能が
        「Bf109」と同等、といわれています。
         しかし、第二次大戦中、特にその後半以降になると世界の戦闘機の思想は一撃離脱
        主義が当り前となり、現在では「日本は96艦戦と97戦の成功により軽戦至上主義
        が正しいと判断して世界の趨勢に乗り遅れた」国で、日本戦闘機の思想は誤ったもの
        である!という観念が定着しています。ようするに日本戦闘機の思想は時代遅れの愚
        か者扱いです。
         それって本当でしょうか?みなさんもそう思われますか?
         実は、私はまったくそうは思っていません!

         まず、単発単座戦闘機(以後、単発単座戦闘機に限定して話を進める)が空戦を行
        う状況を想定してください。だいたい、次の5つになると思われます。
          1.敵の爆撃機の攻撃等を邀撃する防空戦闘
          2.爆撃機等を敵の邀撃から援護する護衛戦闘
          3.1.2.以外での対戦闘機同士の戦闘
          4.1.2.以外での対戦闘機以外の戦闘
          5.地上・海上の目標物に対する攻撃
         このうち、5.は本来の戦闘機の仕事とは言いにくいので除外します。
         そうすると、これら4つのパターンのうち、運動性を重視した戦法では不得手とな
        るのはどれでしょう。特にありません。では、一撃離脱戦法では不得手となるのはど
        れでしょう。これは、明らかに2です。
         一撃離脱戦法はその性格上、敵を攻撃した後に、一旦、その空域を離脱し、再度、
        攻撃を仕掛けるという形態をとります。しかし、敵戦闘機が味方の爆撃機に群がって
        いるときに戦闘空域を離脱し、再度戻るという方法を繰返していると、必然的に味方
        の爆撃機が撃墜される可能性が高くなります。敵が定期的に等間隔で攻撃を仕掛けて
        でもくれば、交代で対処もできましょうが、戦場でそんなことを期待しているおバカ
        さんはいませんから、運動性は悪いが一撃離脱能力に優れる戦闘機よりも、一撃離脱
        能力は低いが運動性の良い機体の方が圧倒的に護衛戦闘には向いていると言えるので
        す。
         その反面、一撃離脱能力は低いが運動性の良い機体が不得手な戦闘というのは基本
        的に存在しませんから、一撃離脱能力に優れる戦闘機の方が有利であるという考え方
        は的を得ているとは言えません。

         しかし、いくら運動性能が優れていても、それだけでは戦闘上の致命的な欠点が存
        在するのでうまくありません。
         それは「不利に陥ったときに逃げられない」ということです。
         たとえば、戦闘機同士で1対10の戦闘が発生したとします。この状況は圧倒的に
        不利ですからよっぽどこちらに有利な材料がない限りただちにその戦闘空域から離脱
        するべきです。しかし、戦闘空域から離脱するには下の3つのうちのどれかの性能が
        必ず必要です。
          @ 敵を上回る降下性能がある。
          A 敵を上回る水平最大速度がある。
          B 敵を上回る上昇性能がある。(かなり広範囲の高度に於て)
         ところが、大戦後半の「零戦」や「隼」などの運動性だけの機体は、多くの場合に
        おいて@〜Bのいずれも持っていませんから、不利に陥ったとき、うまくいっても、
        「敵弾を回避しつつ敵の銃弾か燃料がすべて切れるのを待つ」といった消極的な戦法
        しかとれません。これでは、どんなに腕が良くても同じ状況が何回か発生するうちに
        ついには撃墜されてしまいます。だから、運動性能が優れている機体に不得手な戦闘
        はないものの、不得手、というより致命的な状況は存在しますから、その点から言え
        ば一撃離脱能力に優れる機体の方が良いと言えなくもありません。

         しかし、軽戦至上主義が良くないとする意見に反対する根拠が、日本戦闘機に限っ
        て言えば、もう一つ存在します。
         それは、戦法と心理的要因とによるものです。
         他国では2機編隊のロッテは当り前、ドイツなどはそれを2つ組合わせたシュバル
        ムさえ一般化していましたから、ある意味で一撃離脱戦法をとりやすい状況がありま
        した。ところが日本では、編隊戦闘の基本はあったものの、実際の戦闘に突入すると
        単機の乱戦となるのが常でしたから、一撃離脱戦法をとりにくい状況がまずありまし
        た。それと、その戦闘方法と単機で巴戦を軸とした格闘戦をずっと行ってきた日本の
        戦闘気乗りに、いきなり違う戦法を強要しようとしても、とっさには役に立ちにくい
        ということがあります。高度が上がるにつれて酸素濃度が減り、思考力が極端に低下
        します。そういったときにとっさに出るのは、当然、身に染みついている操縦です。
        必ず格闘戦に突入しようとします。それに、当時の日本軍人の気質を考えると、自分
        の腕に対する誇りが第一にありますから、そういった観点からも格闘戦を重視した戦
        法をとろうとするでしょう。つまりは、運動性のいい機体こそが彼らの求めていたも
        のであり、また、彼らに与えるべきものだったと言えるのです。
         つまり、大戦の後半に日本戦闘機が不利に陥った理由は、軽戦至上主義が捨てきれ
        なかったからでも何でもなく、上記の@〜Bがすべてなくなってしまったのと、もう
        一つ、「数的不利が慢性化した」からなのです。考えてみてください、たとえば「零
        戦」は開戦当初は最大速度、上昇力のどちらでも最大のライバルである「F4F」を
        上回っていましたし、数的にも互角以上のものがありました。また、「隼」も少なく
        とも上昇力では対戦相手となった多くの戦闘機を上回っていたのです。ところが、大
        戦後半になると、こちらが大馬力・大排気量のエンジンを開発できないでいるうちに
        敵国はどんどん開発を進め、ついには最大速度、上昇力のいずれにも勝る機体を続々
        と生み出してきたのです。日本の戦闘気乗りはさぞや歯がゆい思いだったろうことが
        想像できます。

         だからこそ、基本は軽戦でありながら速度や上昇性能が向上した「紫電改」や「疾
        風」が彼らにはうれしかったのです。そして最後に登場した、ついには、「零戦」や
        「隼」の最新型をも運動性で上回る究極の軽戦闘機とも言える「五式戦」を「疾風」
        よりもさらに圧倒的に高く評価し、おまけに降下能力の高いその性能に手放しの絶賛
        を送ったのです。

         そう、日本の戦闘気乗りのみなさんの気質も考えた上で、あえて「軽戦至上主義
        は正しい!」と私は言いたいのです。