J7 Super Kai




シリコンバレーのバイオ企業ネオジェン社の創業者かつCEOであるリチャード・ウー氏は、自らも操縦桿を握るウィークエンドパイロットであった。氏が飛行免許を取得したのは、ビジネスが軌道にのった40歳を過ぎてからであり、忙しさもあって、その腕は自慢できるほどのものではなかったが、氏には航空機に関して2つの夢があった。一つは社用ビジネスジェットを購入して自ら操縦桿を握ること、もう一つはリノ・エアレースのアンリミテド部門に出場することである。こちらの方はパイロットとしてではなくオーナーとしてではあったが。

と、言うわけで氏はアンリミクラス用の適当な機体、まともに戦うつもりならばP-51かF8F、シーフュリーあたり、を探していた。そんな中、氏はある航空雑誌に掲載された驚くべきニュースを見た。旧日本帝國海軍の18試局地戦闘機J7「震電」の3-5号機が、ある空軍の基地で発見され、売りに出されると言うのである。その中の2機はエンジンさえ換装すれば飛行可能とのことであった。

氏は震電には特別の思い出があったのだ。氏の父親は台湾出身であるが、昭和19年に九州帝国大学を卒業し、九州飛行機に技術者として入社。つまり、末端とは言え震電の開発に関わっていたのだ。日本の敗戦とともに台湾に帰国したが、日本支配下でのエリートコースを歩んでいた氏の父にとって、中華民国は祖国たりえず、1950年代初めに米国へと移住した。米国では航空関係の仕事につくことはなかったが、ウー氏は子供の頃には良く飛行機、特に震電の話を聞かされて育った。氏自体は、若い頃はあまり機械に興味はもてず、バイオ関係の道を歩むことになるが、40を過ぎてから空への憧れがましたのは、やはり父の影響があったのであろう。

氏は市場価格に影響しない程度に自社株を売り、売りに出された震電を3機とも購入した。飛行不可とされた1機は九州の博物館に寄贈し、飛行可能な1機はチノのHall of Fameに寄贈。そこでR2880エンジンを搭載してフライアブル状態として保管されることとなった。そして最後の1機。氏はこれを思い切ってレーサーとして改造することにした。本来が対重爆用の迎撃機である震電は、言ってみれば高速の30mm機関砲プラットフォームである。純粋な戦闘機であるP-51やF-8Fに比べると、低空での運動性は期待できず、したがってリノ向きとは言いがたい。、しかし、徹底的に改造すればYak-9程度にはなるのではなないか?との期待はあった。

まず必要になるのはエンジンである。震電の機体の大きさからするとR2880が最適であるが、トップクラスと戦うにはややパワーが足りない。レシプロ最強とも言えるR3350を乗せるのはかなりの改造が必要で、大馬力を伝達するプロペラ延長軸も面倒である。そこで、思い切って液冷のグリフォンエンジンを搭載することとした。もちろん、機体の後ろ半分はほとんどスクラッチとなるが、元が特異な形状であるために、多少改造したところで原型のイメージは崩れない。

震電のハー43エンジンはプロペラ延長軸を介して6枚ブレードのプロペラを駆動するようになっていた。これは、直径の大きい空冷エンジンを、できるだけ空気抵抗を少なくして搭載するための工夫であった。グリフォンの前投影面積はハー43よりはずっと小さいため、延長軸は不要である。が、その分エンジンを後方に設置することになり、重心も後退してしまう。機首の30mm機関砲も当然なくなるので、重心はさらに後退する。これを少しでも緩和するため、操縦席を思い切って30mm機関砲搭載位置に移設することにした。もとの操縦席の位置にはラジエータを設置し、NACAインテークを利用して空気を取り入れる。オリジナルのままの機体前部と、グリフォンのサイズに合わせて新しく作製した機体後部の段差を利用して、ラジエータからの排気を行うようにした。なお、このエアインテークはオイルクーラーと過吸器用のインテークもかねている。

リノのエアレースは高速での旋回が必要だが、この際に翼面から空気がはがれないように、主翼付け根にはストレーキを設け、また主翼端には翼端板を装着した。前翼も、ドッグトゥース型にしてある。

リノ初参加の昨年はグリフォンのチューンも軽く、「顔見せ」程度の飛行であったが、それでも決勝はシルバークラス(予選の9−16位が参加するレース)は飛ぶことが出来た。今後はエンジンチューンをさらに進めるとともに、脚をカーボン製の軽いものに変えるなど、機体全体の軽量化をはかる予定であり、ゴールドクラス上位進出を狙っている。