朝日新聞社機「八雲」(ツイン紫雲)

 1931年のリットン調査団の報告以来、世界に孤立した日本は外交関係の維持と軍部の圧力の間で紆余曲折をたどりつつ、結局1933年2月最終的に国際連盟の勧告を受け入れた。
 その結果、日本軍は中国から全面撤退し、日本政府は満州自治政府の設立に協力することになった。
 それから10年、国力を超えた軍備拡張への歯止めは多方面にわたってその影響を増し、軍備縮小とともに航空界でも多くの軍人パイロットが民間に転出した。また、航空機産業も軍から発注された試作機がその後の展望もないまま民需転換を余儀なくされるに至っていた。

八雲1
 当時川西航空機では、2年前に初飛行してその後、海軍での採用のめどがないままになっていた紫雲の増加試作機型二機を双胴の高速郵便機に転換することを計画した。
 機体は、二機の紫雲を新たに設計した燃料タンクを内蔵する中央翼と楕円水平尾翼の双方で接続。右側の胴体は貨物用と燃料タンクとし、場合により横たわる形で一名を交代要員もしくは旅客(緊急輸送患者など)として輸送することが出来た。
 翼端フロートを廃して理想的な双発、双胴、双フロートの高速長距離小型輸送機の出現である。
 事実、紫雲であったときに比較し、主フロートの緊急投下の不要はもちろん、問題のあった引き込み式翼端フロートや二重反転ペラも不要となり信頼性は飛躍的に向上した。さらに双胴化により搭載量が増え、中央翼下に増槽を装備することにより巡航速度 400km/hr という高速で 5500km を越える航続距離を誇ることができた。

八雲2
 その後、伝統的に日本の民間航空界をリードしてきた朝日新聞社が南西群島向けに自社機による新聞輸送構想を立てていることを知るに及んで計画は急速に進んだ。当時、琉球列島は言うに及ばずガム・サイパン・ソロモン群島への本土新聞の到達は船舶により一週間はおろか一月近く遅れることも稀ではなく、また導入間もない無線通信で紙面を届けるなどということはその能力からして到底望むべくも無かった。また、利用できる民間航空路はまだごく一部が開設されたばかりであり、一方、軍の航空網の民間活用は極めて制限されていた。
 ツイン紫雲は、その高速と長大な航続距離に加え、水上機の利点を活かして珊瑚礁や穏やかな湾内を離着水の場とすることが出来た。まさに、南洋群島を周回して孤立する離島へ新聞を届けるのに最適な航空機であり、一部の関係者は自虐的にこれを「新聞配達機」と呼んだが、写真や記事をニュースとして本社に届けるという新聞航空の役割が、出来上がった紙面を届けることへ180度変わった記念すべき機である。
 貧弱でも一応の印刷所をもつ離島には原版で届け現地印刷をすることもできた。

たとえば琉球列島方面へは、当日朝、福岡博多湾を出発すれば昼前には沖縄本島那覇港。港で待機する地元新聞社に活版を渡して離水。午後には宮古、八重山を回って那覇で給油。その日のうちに福岡に戻ることが出来た。
 また、サイパン方面には一泊二日の行程で三日おきに巡回することが出来た。

八雲3
 この機体の記念すべき一号機は「八雲」と名づけられた。シウン(紫雲)が二機つながってハチウン(八雲)、即ちヤクモとなったという説もあるが、南海上の積乱雲が林立する、まさに八雲立つ大海原を疾駆する機にふさわしい名称といえよう。
 また、その塗装については二科会等で活動した洋画家山路真護のデザインした 朝日新聞の栄光の「神風号」のデザインをそのまま継承。フロート下部をホワイトというまことに軽快なものであった。
    川西では「一度に二機売れた」と言って喜んだという。

 やれやれです。塗装を決めるのにこれだけ書かないといけない。
 この世界の人たちは「カミカゼ」といえば、鎌倉時代のホントの神風と朝日新聞社の「神風号」しか知らなかったというのがミソです。航続距離や、周回のコースなどは検証が必要です。ほんとに24時間で福岡から琉球列島が往復できたかな。 片道1600Kmほどあるようなので、途中で給油も考えて,時速400Kmなら何とかでしょうか。  それにしてもゲタバキきとはいえ二式大艇に比べて速度関係ほとんど変わらず航続距離は半分以下と今回改めて紫雲の低性能を感じました。(航続距離 3370km、最大速度 468km/時、巡航速度 296km/時))ということで二機つなげて性能の方もゲタを履かせたところです。あまり根拠はありませんが。
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