川西 大型陸上攻撃機「栄山」

「栄山」一一型

 昭和16年、川西航空機は大いなる転機を迎えようとしていた。
 ここのところ、陸上航空機の性能が日々飛躍的に向上してきている。そのため、今までのように水上機ばかり手がけていたのでは、今後、航空機製造会社としての未来に翳りが出てくることは必至である。そこで、早急に陸上機を開発し、そのノウハウを蓄積することが絶対の死命であることは明白であった。
 「早急に」ということは、既存の水上機のいずれかを改造するのが一番の近道である。しかも、これは全社を挙げての一大プロジェクトであるため第一線機となるべき機体である必要がある。こういったことを考えていったとき、その対象となる機体は「二式飛行艇(通称、二式大艇)」と「水上戦闘機『強風』」しかなかった。
 このうち「強風」は、元々水上戦闘機としてしか考えて設計されていなかったため、中翼配置とした主翼や、そのままでは3点姿勢が不可能なほど持ち上げられた尾部などから、陸上戦闘機とするには大きな改造が予想された。また、「強風」のサイズや性格を考えると「局地戦闘機」にするしかない。しかし、この機種は戦闘機の老舗・三菱が、現在「十四試局戦」として開発中である。むこうが先行しているうえ、持っているノウハウを考えても、川西側がそれを上回る機体を開発することは至難の業だと思われた。また、搭載しているエンジンも同じ「火星」であるので、その点も大きなマイナス材料であった。唯一、胴体の基本形状、搭載エンジンの変更を含めた大幅な変更を加えれば、太刀打ちできそうな計算はたったが、それでは「早急に」という、最大の目的が達成されないこととなる。また、大馬力エンジンを積んだ小型単発機そのもののノウハウが川西には決定的に不足していたため、「強風」そのものの出来もかなり不満の残るものとなっていたのも事実であった。
 このため、川西が選んだ選択肢は「二式大艇改造の大型陸上攻撃機」製作であった。
 陸上攻撃機は、少し前に三菱製の双発機が「一式陸上攻撃機」として採用になったばかりであったが、現在の航空機発展の速度性を考慮すると、今すぐに次の機体の設計を開始する必要がある。しかし、どこのメーカーも多忙であるため、今年度中に新型機の発注が行われそうな気配はない。また、先年行われた「九六陸攻」による渡洋爆撃の成果を見るまでもなく、太平洋を主戦場と想定する限り、今後の陸上攻撃機はさらに長距離を多量の爆弾を積んで飛行する必要性が増していくであることは容易に予想できた。それを見越して試作指示された中島の大型陸上攻撃機「深山」は、元とした「ダグラスDC−4」が失敗作であったこともあり、完全な凡作機となり、制式採用される気配はまったくなくなっていた。
 「二式大艇改造の大型陸上攻撃機」は、これらの条件すべてに、まさに打ってつけであった。

 この提案は、当然のことながら、今後の用兵と「深山」の失敗に頭を悩ませていた海軍には一も二もなく了承され、ただちに試作指示が出された。
 とはいえ、元々が全長28mにも達する大型機である。しかも、飛行艇製作で大型機のノウハウは十分にある川西といえど、大型陸上機となるとまた別物である。そのため、「早急に」という思惑とは裏腹に、試作一号機の設計/製造は多大の困難を極めた。
 なお、極力抑えられた改造点は以下の通りである。
 1.胴体の、特に前半部の高さを大幅にけずり、全長の半分近くにも
   達する長大な爆弾倉を設置。
 2.降着装置を前輪式配置とした。
 3.主脚の長さを短くするため、主翼を中翼配置に変更し、内側エン
   ジンの搭載位置も下方に下げられた。また、気化器空気取り入れ
   口の開口部をオイルクーラーと共にエンジン下部に移動し、主脚
   のフェアリングを兼ねる設計とした。
 4.爆弾倉との位置関係の問題で、側方銃座と上方銃座の位置を変更。
 5.胴体の表面積が減ることにより横安定性の悪化が予想されたため、
   垂直尾翼を上方に増積。

 非常な苦労をしながらも、試作一号機は昭和18年3月13日に初飛行した。
 細かい初期トラブルを改修するのに時間がかかり、海軍に領収されたのは3ヶ月後となったが、初期テストの段階では操縦性などはおおむね良好で、むしろ、機体重量が減ったこともあり、軽快性は「二式大艇」よりかなり向上していた。しかし、テストを重ねる内に川西の大型陸上機に対する不慣れな側面が徐々にあらわになってきた。
 まず、降着装置の強度不足から前脚が折損した。これは、テストによる離着陸を重ねる内に脚支柱の強度が下がってきたためと思われた。いわゆる金属疲労である。この問題は、脚の補強と若干の素材の変更により解決された。
 つぎに、テストを始めて2ヶ月後に、胴体の中央後部縦通材に亀裂が入っているのが発見された。これも、とりあえずは補強により対処したが、量産機では縦通材の配置に若干の設計変更が必要であることがわかった。
 また、「二式大艇」に比べた横安定性の悪化は予想以上で、そのため、垂直尾翼はさらに上方に延長された。

 その他、いくつかのトラブルはあったものの、致命的な問題は発生せず、一式陸攻を上回る航続性能、一式陸攻の4倍に相当する4トンの爆弾搭載量、一式陸攻の戦訓をとりいれた内袋式防漏燃料タンクなどが評価され、昭和19年8月に制式採用され、量産機が揃い始めた19年末から、主に近海に出没する敵艦艇に対しての攻撃機に使用された。


諸元

 全幅:   36.35m
 全長:   28.00m
 全備重量:23,550kg
 エンジン: 三菱「火星」25型 空冷複列星型14気筒1,850馬力
 最大速度: 506km/h(5,200m)
 航続距離:4,970km(爆弾2トン搭載時)
        8,280km(最大)
 実用上昇限度:10200m
 爆弾:4,000Kg(最大)
 武装:九九式20mm機銃:
     前方×1、側方×各1、上方×1,尾部×1、計5
 乗員:9名


胃袋3分の1のコメント:
 う〜む、何カ月ぶりの一般投稿だろう(笑)・・・ちと反省m(_'_)m
 さてさて、実はこの機体の構想自体は10年以上前からあったのでした。
 こんなものを考えた理由は、要するに私には、川西が既存の機体を陸上化するにあたり「強風」と「二式大艇」の選択肢の中で「強風」を選んでしまった理由が納得できなかったんですね。
 もちろん、単発単座機と大型4発機の改造では、大型4発機のほうが製造に多くの時間がかかることは予想されます。しかし、元となる機体の基本設計を考えてみると、私にはどうしても「二式大艇」の方がはるかに陸上機化するのにむいてるようにしか見えなかったんです。
 たぶん、川西は「戦闘機」というステータスに惹かれたのではないかと思います。また、戦闘機の方が発注数が多くなるだろうということも考えたのかもしれません。しかし、大型機の方が機体そのものの価格は当然高くなりますから、高い利益率の機体価格に設定しやすかったのでないかと考えます。工場の設備的にも川西なら問題はないでしょう。つまり、川西航空機という「企業」で見れば、「大型陸上攻撃機」を選んだ方が良かったのではないかと思うのです。
 また、「十四試局戦」がありながら「局地戦闘機」で三菱に対抗しようとした意図も図りかねます。結果的に史実はそうなりませんでしたが、普通に考えたら三菱に対抗できると考える方が無理がありますよね。結果は個人的には「ほぼ互角」だったと判断しますが、これは「引き分け」ではなく「両方負け」とするのが正解でしょう。
 実際に出来上がった機体「紫電」は、とても成功作といえる代物ではなかったというのが確かなところだと思いますし、「紫電改」ですら、出現時の世界の趨勢から見れば、陸上戦闘機としては「低性能」と言わざるを得ません。
 これに対し「二式大艇」改造の陸上攻撃機にしておけば、下手をすると出現が昭和20年にずれ込んだかもしれませんが、性能的には世界の4発爆撃機の標準ぐらいのものは作ることができたのではないかと考えます。

 と、色々書いてきましたが、結果的には川西の判断は正解となってしまっています(笑)。昭和20年に海軍が大型陸上攻撃機を運用できる余地はどこにも残されていなかったのですから。
 それでもやはり、心情的には川西の選択は「私には理解できない」のでした。