キ84、4式戦闘機「疾風」架空版
〜日本におけるレシプロ制空戦闘機の最終発達型〜

  昭和17年春、キ44(2式単座戦闘機)をV型へと発展させるべく重ねられた検討の中から
新たに産み出されたキ84の開発は順調に進められていた。
  しかし、昭和17年4月に陸軍航空本部はその月に行なった新航空戦備検討会議の結果として
「次期主力重爆である三菱キ67(後の4式重爆『飛龍』)とエンジンを共通にすること」を
中島飛行機に命じた。
  すなわち、この前年に陸軍の公認試験をパスしていた三菱ハ104を搭載せよと言うものだった。
(公称1610馬力/高度6100m)
  自社が鋭意開発中のBA(この年9月に海軍『誉』、11月に陸軍ハ45として公認される)
を予定して設計を進めていた中島飛行機は当然のことながら猛反発した。
  BAに比べて直径が19cmも大きなハ104に換装するとあっては機首ばかりか胴体の
全面的再設計を行なわねばならず、陸軍が要求する実用化時期に間に合わない恐れありと
強硬に主張した。
  しかし現実問題としてBAがこの時点で試作段階であり、そして陸軍向けのものは試作発注が
成されたばかりで組み立てさえ行われていないと言う状況では「開発中の機体に開発中の
エンジンの組み合わせは川崎キ45の事例を見ても開発難航の火種となる」と言う航空本部の
意向を覆すことなど出来ようもなかった。
  しかし短く激しい議論の中で中島飛行機は大きな譲歩を勝ち得た。
  BAが制式化された後にこれへの換装を認めると言う言質を取り付けたのである。
すでに制式化されたエンジンで試験飛行を順調に行なって機体の優秀さを認めさせ、大量生産の
発注を得た後に自社のエンジンを搭載して送り出せるのであれば、経営上はむしろ好ましいと判断
した経営陣の指示を受け、開発スタッフはBA搭載を前提にした機体構成を出来るだけいじらずに
ハ104を搭載する努力を行なった(注1)
  主翼に手を付けないのはもちろん、直径の小さなBAに合せて決められた胴体のラインと構造は
いじらずに発動機架前方だけ置き換えると言うものだった。
  キ27(97式戦闘機)からキ44(2式単座戦闘機)に至る、エンジンに比して細身の胴体と
言う組み合わせに習熟していた中島飛行機ではあったが、BAへの換装(彼らの視点では復帰)
作業が容易になるように胴体側面を凹面に整形することは避けた。
  すなわち、細い胴体と太いエンジンカウルの間に生じる段差は推力排気管を並べて大方埋め、
残る間隙はフェアリングを胴体構造の外側から皿ビス止め(すぐに外せるように)して埋める。
  エンジン重量の増大による重心位置変化には操縦席後方の無線機と酸素ボンベを後方に大きく
ずらし、さらにこれら搭載品区画にも防弾鋼板を備えることで対応。
  幸い、ハ104は重量こそ大きいものの全長はBAよりも短く、搭載位置が機体重心に近づく
ためにこの程度の対策で済んだ。
  そして、機首上面のラインにカウリングを合わせたことでエンジン搭載位置が低くなり、それに
伴ってプロペラ軸位置も下がることでペラ先端と滑走路面との間隙が小さくなることに対しては
「試験飛行の初期段階でのみ搭載する仮のエンジンであるから」ということで対策を行なわなかった。
  照準器の視界にカウリングが食い込んでしまう前方視界の劣悪さも同様である。
  翌18年3月、キ84は遠目にはキ44と見分けの付け難いその姿を空に浮かべた。
  4月に入って本格的な性能試験が開始されると674km/h・高度6100mを記録した。
  これは要求値である680km/hにはわずかに及ばなかったものの機体設計の優秀さを示すには
充分な値だった。
  しかし、急激にスロットルを開いた際にプロペラのピッチ変更機構が追随しきれずエンジンが
過回転を起こす問題も明らかになった。
  6月、増加試作機の2機を改修して(中島飛行機の視点では本来の姿に戻して)製作された機体が
試験飛行を開始した。
  軽量コンパクトかつ大馬力なハ45−22(公称1730馬力/高度6000m)に換装(復元)し、
胴体側面のフェアリングと搭載品防弾を省くことで130kgの軽量化と胴体空力形状の改善(復元)
を施したものである。
  この機体に対して中島飛行機が出した速度見積もりは「仮に空気抵抗の減少を無視して馬力の向上
のみを算定するとしても695km/h、空気抵抗の減少を考慮すれば708km/h」と言う
もので、これはBAを搭載する前提で設計を進めていた初期の見積もりを上回るものだった。
「大きく重いハ42を搭載した状態で670を越えたのであるから、空力設計は意図以上に成功
している」と 自信満々で試験飛行に望んだ中島スタッフだったが、624km/h、上昇力は
3割以上も低下と言う成績に愕然とさせられることになった。
  ハ45の開発スタッフがつきっきりで調整を施してもこの数値はごく希に超えることがある
のみで、額面通りの出力を発揮していないことは明らかであった。
  これ以後、中島飛行機の機体部門はエンジン部門に対する深刻な不信感を抱くようになる(注2)。
  これを伝え聞いた三菱は陸軍向けエンジン市場における優位をさらに確実なものにすべく
公認を取り付けたばかりのハ43(注3)の搭載を陸軍航空本部に提案した。
  中島飛行機は反発したものの、陸軍が買い上げた試作機を三菱に一時貸与することには表立って
反論することはできなかった。
  三菱重工名古屋製作所で改造工事を施された増加試作機がハ43を搭載して飛びはじめたのは
8月のことであったが、これも631km/hに留まった。
  海軍が三菱に命じて開発中の17試艦上戦闘機は7月にハ45を搭載して試験飛行を開始した
ばかりであり、10月には三菱側の負担によってハ43に換装しての試験を行なう予定であった。
  海軍航空本部と三菱の担当者はキ84の試験成績を伝え聞いて「どちらでも駄目か」とエンジン
選定の誤まりを悔やんだと言われる。

  そして、この差違はさらに開くこととなる。
  ハ42(ハ104に新たに与えられた陸海軍統合呼称)に火星20シリーズの成果を応用して
燃料噴射に改め、過給機の能力を高めたハ42−22型(1900馬力/高度6100m)に換装、
防火壁前方の隙間を全て目張りしての試験では実に715km/hを発揮した。
  すなわち、ハ45をいかに改善しても(ハ43も同様に)この数値を上回るどころか追いつくこと
さえ不可能な水準となった。
  ここに至って中島飛行機もキ84にハ45を搭載するという当初のもくろみを放棄せざるを
得なかった。
  中島飛行機は同時期に開発していたハ44発動機に希望を託したが、換装を施した試作機は
地上滑走のみでその生涯を終えてしまい、キ84の中で中島製エンジンを載せて空を飛んだものは
上述の2機だけである。


  しかしラチエ電動プロペラの追随問題は18年の夏を過ぎても未解決のままだった。
  急激なスロットル操作を行なうとエンジン回転が激しく上下して機首がぶれ、針路保持さえも
困難な状態だった。
  同じ理由からハ42−11搭載型とハ42−22搭載型の加速性能はこの段階ではほとんど
変わりないものである。
  これらは結局、18年10月にプロペラ製作会社である日本国際航業が5枚ブレードのプロペラを
完成して(効率を犠牲にして)加速時の吸収可能馬力を増し、調速機を製作する東芝が追随能力を
向上した新型の調速機を開発するまで解決されなかった。
  これに伴い最高速はハ42−11搭載で667km/h、ハ42−22搭載(実用状態)で
695km/hにまで低下を来したが加速性能は顕著に改善され、実戦を想定した乱暴な
スロットル操作も受け付けるようになった。
  しかし実施部隊の整備能力が追いつかず、同じく電気制御のプロペラと調速機を採用したキ67と
同様にプロペラに関するトラブルは部隊での実用が終わる時期まで尾を引いた。
  水平姿勢でのプロペラ先端と滑走路面との余裕の少なさ、前下方視界の劣悪さによる着陸操作の
難しさも解決されないままであった。
  操縦者の中でも2式単座戦闘機を経験したもの、あるいは飛行学校から直接配属されたものは
「重戦闘機はこんなもの」「実用戦闘機はこんなものでしょう」と受け入れる姿勢を示して
中島飛行機を支持する意見を延べ、1式戦闘機から移行したものは抜本的な改修を要求して激しく
対立した。
  さらに18年11月に行われた陸海軍の試作機相互試乗において海軍側の操縦者が
「J2(注4)より着陸視界の悪い機体があるとは思わなかった」
「これで陸軍さんの野戦飛行場に降りるのは、『強風』(注5)で空母に降りるより難しそうだ」と
評し、またA7(注6)に試乗した陸軍側操縦者の多くがその視界の良好さ、着陸操作の容易さに
惹かれ「重戦でもこれほど乗り易くできるではないか」と意見を翻し、議論は全面改修の方向へ
進みかけた。
  しかし陸海の航空本部長が見守る前で行われた模擬空戦においてキ84がA7をまったく寄せ付けず
に圧勝したことから「技量で補える問題であるから」「高性能の代償としてはやむを得ない」
と棚上げされてしまった。

  昭和19年1月に陸軍4式戦闘機として制式採用後、中島だけでなく立川飛行機でも
転換生産された本機の総生産数は日本の戦闘機として最も多い10829機である。
  10000機程度が実戦部隊に配備されたと言われる。
  ただしこの数値には増加試作機87機(一部が制式採用前にニューギニア戦線に投入された。
また、各種の試験に用いられた為に多様な仕様が混在し、4式戦闘機の形式研究において混乱の
もととなっている)も含んでいる。
  米陸軍航空隊の新鋭ノースアメリカンP−51やソ連空軍のYak−9D、La−7、
英空軍のホーカー『テンペスト』と互角に闘える日本唯一のレシプロ戦闘機、ニューギニア、
中国、シベリアの各戦線における制空権を保持した立役者としてその名は高いが、戦闘損失
よりも着陸事故による損失が多いことでも有名である。
  米陸軍航空隊がP−51の最終発展形であるH型を、そしてそれに続いてジェット戦闘機
P−80を配備してからは制空戦闘機としての運用が困難となり、6式戦闘機『火龍』へと
その役割を譲って戦闘爆撃機へと類別変更された。
  しかし、6式戦が生産・運用経費ともに極めて高価なことから休戦まで4式の生産は
続行され、量的主力で有り続けた。



注1:これは三菱の耳にも入り、同時期に海軍航空本部との間で行われていた17試艦上戦闘機の
発動機選定を巡る議論は一時の紛糾が嘘であったかのように終結することとなる。三菱は中島を
見習い、「A20はまだ試運転を開始したばかりであるのも確かであるし、とりあえず海軍の
要求通りにBAを載せよう」と譲歩した。



注2:実馬力は1300馬力/高度6000mであったとされる。
  後の6式戦闘機「火龍」に自社初のジェットエンジン「ネ230」でなく三菱と新潟鉄工の
共同開発になる「ネ330」を搭載せよとの陸軍側の指示を技術陣がほとんど抵抗せずに
受け入れたのはこれが原因と言われる。



注3:中島のハ45に対抗して三菱が開発した小直径大馬力発動機。三菱社内コードA20。
  海軍艦上戦闘機『烈風』のエンジンとして有名。
  無理な小型軽量化を図ったエンジンが地上試験よりずっと劣る出力しか発揮できないと言うことが
明らかになったことは両社、特に三菱のエンジン開発に大きな影響を与え、同社のエンジン開発には
「まず要求の出力を発揮させ、重量軽減は機体設計者に補ってもらう」傾向が強く見られるように
なった。
  三菱の航空エンジン部門である名古屋発動機製作所の所長が舶用発動機部門の出身であることの
影響もあると言われる。
  しかし、A20の企画は所長からのトップダウンによるものであったことから筆者は
キ84での飛行試験成績の影響が大きいものと判断している。



注4:海軍14試局地戦闘機。昭和17年3月初飛行、試作機5機のみで不採用。
  不採用の最大の理由は試作機の性能が思わしくなかったこととされる。
(602km/h:高度6000mの要求に対して574km/h:高度6000mに留まった)
  いくつか提案された改修案を実施することもなく打ち切られた理由として当時の航空本部担当者は
・本機の初飛行時点では米豪分断と言う海軍戦略構想の実現手段として
「ソロモン海方面に前進基地を設けここを拠点として交通路を遮断。また、この過程で米機動部隊を
誘出、陸上基地と機動部隊の共同攻撃によって撃滅」
と言う構想であり、この実現には陸上基地から作戦する高速戦闘機が不可欠として期待を集めていた。
・昭和17年6月、稼動全空母を集中投入して行われたミッドウェー作戦において米機動部隊は
決戦を回避して米本土西海岸へと避退し、要地への奇襲攻撃と離脱の繰り返しに転じた。
  この情勢変化によって軍令部は「軽空母を用いての通商破壊による米豪分断と米機動部隊誘出、
主力空母を用いての洋上機動部隊決戦」に傾斜し、連合艦隊司令部もこれに同調したことから
陸上戦闘機の必要性が薄れた。
・着陸速度が極めて高く、前方視界も不良なことから艦上戦闘機への改修が不可能と判断された。
・同時期に仕様検討会議が行われていたA7の開発に注力させる意図が航空本部側にあった。

の4点を挙げている。
  これを裏付ける要素として、
・川西航空機が開発中であった15試高速水上戦闘機(N1K)の開発が14試局戦と同時期に
  打ち切られたこと
・N1を基本として川西の費用負担で開発されていた15試局戦(N1K1−J)が15試艦上戦闘機
  (N1K1−A)へと仕様変更されたこと

  などが挙げられる。
  また、この方針転換に伴って多くの陸上航空機に対して開発・生産機種の削減、配備機数の
切り下げと搭乗員の空母機動部隊への転換と言う措置が執られた。
  それらについては内容が多岐に渡ることと本項の主題から外れることから割愛する。



注5:15試作高速水上戦闘機として出発し、上述の方針転換によりフロートを除去、
引き込み脚と着艦フックの追加、後部胴体の形状変更を施して艦上戦闘機に改めたもの。
  昭和18年4月に制式採用。『烈風』登場までのつなぎとして、主に艦隊防空に活躍した。
  ただし航続力が零式艦上戦闘機に比して劣ること、着艦操作に熟練を要することから機動部隊の
主力戦闘機とはなりえなかった。
  後にハ43を搭載、主翼配置を低翼に、また胴体形状を全面的に改めた『強風改』(N1K2−A)
へと発展し、
全くの別機となったことから新たな正式名称『陣風』(A8K)を与えられて昭和19年9月に
正式採用となったが、『烈風』と対比された為に『強風』と同様に少数生産に留まった。



注6:海軍17試艦上戦闘機、後の『烈風』を示すコード。低翼面荷重の要求によりキ84よりも
遥かに大型の機体となったが、同じくハ43を搭載している『陣風』、そしてハ43搭載試験時の
キ84に比して大きさの割にさほど遅くない(624km/h:5800m)ことは三菱の
空力設計技術を示すものと言われる。
  また、揺れる空母からの発着を強いられる艦上戦闘機でありながら部隊運用における事故率は
キ84よりも低かった。
  ハ43の実性能は常に額面より低く、また稼働率の劣ることが問題とされてハ42への換装が
検討されたが、視界の極端な悪化を招くことが相互試乗で明らかであったこと、そして機動部隊の
戦闘機は低空での運用が主であり馬力よりも空気抵抗の影響が大きいために行われなかった。
  「練習機並み」と評された零戦よりもさらに容易な操縦操作、艦攻なみの巨体を利した搭載力は
高く評価された。
  特に、離着艦速度の高い新型艦爆や艦攻を運用できない軽空母においては搭載機の全てが『烈風』
で占められ、出撃時の装備と搭乗員の専攻によってのみ戦闘機隊、爆撃機隊と言う区別がなされる
ことが多かった。
  護衛空母を除く全ての空母に搭載されて高い汎用性を示した機体であったが、本来の任務である
空戦においては英米の艦上戦闘機に比べて常に一歩ずつ及ばなかった。