局地戦闘機「雷電」三五型(J2M4)

「雷電」三五型

局地戦闘機「雷電」三五型(J2M−4)諸元
全長・・・9.910m
全幅・・・10.850m
全高・・・3.875m
自重・・・3,150s
全備重量・・・4,200s
発動機・・・三菱ハ42−26(陸軍名ハ104−26)「木星」二六型空冷複列18気筒2400hp
最大速力・・・735km/h
航続距離・・・1200km(標準)1850km(過荷重)
武装・・・30mm機関銃×4

 海軍が、半ば自棄糞になって三菱に発注した雷電三四型の意外な高性能に調子に 乗って1944年7月に発注した雷電の更なる改良型である(三四型とは、機首延長 型雷電である二二型の発動機「火星」二六型1,850馬力を「木星」二四型2,3 00馬力に換装した物。二三型は欠番。)。
 要求性能は、ズバリ「後方視界拡大」「速力増加」の二つであった。「速力増加」 は発動機出力の拡大で何とかなりそうだったが、問題は「後方視界拡大」であった。
 後方視界を拡大させるには胴体を細くし、涙滴風防を設置すれば良いのだが、そん な事をすると時間がかかってしょうがない。かといって、欧州機みたくバックミラー を装着する訳にもいかず、結局この胴体のまま涙滴風防化する事が決定した。海軍に もそう報告した。
 と書けば如何にも楽そうだが、本当の所はそうではなかった。雷電の胴体は断面の 殆どが真円状に近く、後部上面胴体を削るのが大変だったのだ。しかし、幾ら大変だ と言っても、一旦報告した物をひっくり返す訳にも行かない、という事でこのまま進 む事となった。官と民の相互信頼が足らなかった証拠でもある。
 結局、新型機開発とほぼ同じくらいの労力を使い(富嶽と違い、こちらは開発費が 出た)、零号機が完成したのは1945年9月1日であった。苦労の甲斐あり、性能 は概ね満足すべき物であった。海軍は500機もの発注を出したが、名古屋三菱・海 軍高座工廠の両雷電生産ラインは三四型の生産で真っ盛りであったため、高座第二海 軍工廠の完成を待って生産開始となった。
 高座第二海軍工廠が完成したのは1945年11月6日であったが、資材の搬入等 であちこちでいざこざが起こり、量産1号機がロールアウトしたのは停戦条約発行日 の1945年12月8日であった。つまり、雷電三五型は太平洋戦争では何一つ活躍 していないのである。しかし、出番はまだあったのである。1948年3月の北海道 事変ではソ連空軍のツポレフTu−2「ブル」相手にかなりの戦果を上げたのだ。
 生産自体は560機(506機という説あり)で終わったが、呉の首都防空隊には1 954年3月まで在籍していた。
            1996年刊行「日本海軍軍用機集」(グリーンアロー出 版社)より抜粋
                    (嘘800馬力どころか8000馬力ぐ らいいっとる・・・)
 どうも、かDoです。雷電三五型の出前に上がりました。まあ、御笑覧下さい。例 の如く、怪しい奴の怪しい世界に出てくる飛行機です。おかしい所(後ろが跳ね上が り過ぎとる等)はいろいろあろうかと思いますが、勘弁して下さい(主翼の形が変なの は設計変更しているためです)。
「呉の首都防空隊」というのは、首都が広島にある為です(笑)。 「雷電」改造に あたっては、本当は私も胴体を細くしようと思っていたのですが、どうしてもハ−1 04を搭載したかった・雷電といえば相撲取りみたくぶっといこの形しかないっ!と いう凄く自分勝手な理由によりこうなってしまいました。まあ、現実面から言って、 大会社の三菱が小会社の川西みたいに胴体細くするなんてこともなかろうと、そう無 理矢理自分に対し理由を付けたりもしましたが・・・、考えてみれば、ハ−104搭 載の可能性もほぼ零に等しい・・・ま、いっか。
 という事で、次は4発の一式陸攻か、自分で考えた「金剛代艦改扶桑山城代艦」 (笑)でも送ります。
 それでわ(おいおい、字が違うぞ)
     (林原めぐみ「raging waves」を聴きながら)・・・流浪の 「かDo」より。