三菱 研究実験機 雷鳴

雷鳴


若手技師が開発したJ2ABと関係資料を入念に調べると進行中の烈風との共通点が多かっ
た為にデータ用として雷鳴が試作され烈風の設計に活かされるのであった(雷鳴の存
在も海軍は知らないのであった)。雷鳴というネーミングは本来若手技師がJ2Aのエ
ンジンをJ2Bのものに換装した時に使用するはずだったらしい(強制冷却ファンの音
に掛けて)。
○エンジン 
 J2B(火星23型の延長軸をハ104のものに交換)のものを使用。
○滑油冷却器
 雷電33型同様半分カウリング内に埋め込まれた。
○プロペラ
 雷電21型で先端と付根部を幅広にして推進力を高めた改良型を使用。
○胴体
 J2Aを参考に烈風のデータを盛り込んだ。さらに雷電31型で風防前方の胴体上面両
 側を削って視界不良を改善したがこれにも対応して再設計された。
○風防
 当時進められていた烈風のものを使用。
○主翼
 J2Aのものを使用。
○フラップ
 ファウラーフラップから当時進められていた烈風と同じスロッテッドフラップに
 変更。
○武装
 雷電21型と同じ。
○性能
 この雷鳴は雷電と烈風とのスタイル的ギャップを埋めていて形状的には烈風改
 (A7M3-J)に近く雷電の欠点とされていた部分はほぼ解決して最大速度は620km/h
 で航続距離は零戦32型に迫るものとなった。
実は若手技師の残した関係資料にはこの雷鳴が書かれていたのである。会社側は偶然
と思ったが必然であったのである。この雷鳴がなかったら烈風の誕生はもっと遅れた
ともいわれている。


−−雷鳴の時代背景−−
通説では海軍のわがままに苦しめられた中で結果を出して来た三菱。被害者的なイメー
ジが強かったがそうでもなかったらしい。三菱の社内システムは中島・川崎よりも技
術者の負担が大きく技術者不足から社内での派閥抗争(技術者争奪戦)が行われてい
たらしい。今回三菱社内で作成された飛行機開発史「三菱飛行機歴史」の雷電の項目
で記載されていない機体が3機存在していた事が明らかになった。雷電の悲劇は木型
審査で海軍側の不手際が(三菱は悪くないのだが)最後まで足を引っぱることになる。
この時期の三菱は零戦の実用化で手一杯の中そして主務者が次々に病に倒れる中で雷
電の開発は行われていた。トラブルが続く中で人員の補充が行われそれに対応していっ
た。その中に野心に燃える若手技師がいた。彼はライバル会社の中島信者でもあった
(中島系列の会社にいたらしい?)。彼は社内のタブーに無頓着で正しいと思ったこ
とはズバズバ言っては周囲から煙たがられた。しかし言いたくても言えない人達から
は喜ばれた。その為に会社上層部は快く思わなかったのでその力を発揮できる仕事が
与えられなかった。そんな状況で彼は派閥抗争に自ら飛び込んでいった。掘越技師の
活躍に
地位を奪われた人達が彼を利用して反撃に出た。中途入社の若手技師を利用して失脚
させられた人達は復帰を狙ったのだった。一方の若手技師はただ純粋に良い物を作り
たいだけで正当に評価してほしいだけだったのだが。その為にあえて失脚させられた
人達を逆に利用するのだった。そんな彼が雷電の改善案(A・B)を提出した。A案は
中島の理論(キ44と雷電を比較分析して導き出した)に基づいたもので中途入社ゆえ
に社内のしがらみにとらわれる事なく客観的で技術論に裏打ちされ正鵠を得ていた。
B案は現行のラインでの改善案であった。雷電のトラブル解決の糸口が掴めない中こ
の案の試作を許可したものの好意的でなかった為(零戦・雷電誕生までの苦労を考え
れば仕方ないかもしれないが)に予算と開発期限は厳しいものであった。失脚させら
れた人達は表には出ないので彼が常に矢面に立たされた。しかし彼は負けることなく
挑んだ。予算および開発期間を抑える為に新規設計は極力減らし流用パーツで対応し
た。そして完成した機体は会社上層部を驚かせた。しかし採用されなかった。その理
由としては本家・雷電の振動問題が一応解決した事、なによりも現行ラインを変更し
ないで済む点が大きい為だったらしい。しかし一番の理由は会社が分裂することを上
層部が恐れた為と言われている。そして社内でも雷電のトラブルの根本を解決するに
はこうするしかないと分かっていた節がある。雷電の胴体形状については空技廠の理
論を前提にしている。これは川西の強風も同じである。これを否定することは会社と
しては出来なかったのである(しかし烈風の時は遠回しに反論したのだが)。さらに
三菱最大の功労者を否定する事は出来なかったのである(なおこの機体について掘越
技師は病気療養中の為に知らされていなかったと言われている)。三菱社内でも雷電
の胴体形状に反対する声が一部にあった。しかし常識を破って96艦戦・零戦を産み出
し確固とした自己の設計哲学を持つ掘越技師長に意見が言えない状況になっていた。
というよりも技師長の健康を心配するあまり側近達が負担をかけないように遮断して
いた(中島ではキ84の胴体形状について小山技師長と若手技師が大激論の末に若手技
師の意見が採用されていた)。これ以上雷電の戦線への投入がに遅れることは海軍の
戦闘機生産計画に大きな混乱を引き起こしてしまう為に雷電をリセットする事はもう
不可能であった。
それを知っていながら失脚させられた人達は勢力を取り戻そうと画策していた。派閥
争いが大きくなり会社が分裂しかねない状況に上層部は決断した。若手技師を生け贄
にする事で上層部は失脚させられた人達との和解が成立し三菱の分裂は回避された。
失脚させられた人達はこうなる事を予測していたのであった。若手技師を捨て駒にし
たのである。世界を相手にした闘いで最前線で命のやりとりをする兵士達をよそに自
分の身分・立場のみを守ることに奔走していたのであった。(これは陸海軍にも言え
るのだが・・・・)一度動き出した公共事業が止められないのと同じ様にすでに投資
したお金を無駄にする事が出来ずに現行の雷電のままで改善をする事が三菱の方針と
なり海軍でテストされる事なく闇に葬られこの技師も解雇された。しかしこの機体が
烈風にフィードバックされるのであった。形状的には烈風改(A7M3-J)に近い。この
ような背景から三菱社内で作成された飛行機開発史「三菱飛行機歴史」の雷電の項目
で記載されていないのであろう。このようなことは戦後の日本の会社でも無くなるこ
とはなかった。出る杭は打たれる、出過ぎた杭は引っこ抜かれるのである。この若手
技師は幕末・土佐藩の土佐勤王党の党首・武市瑞山の行動に似ていなくもない。ただ
この若手技師の場合は切腹させられなかったのだから瑞山よりは良かったであろう。
三菱の前身は幕末・土佐藩の土佐商会であるのだからこれも因縁だったのかもしれな
い(もしくは青色ダイオードを開発した技術者の方が近いか?)。なお雷電とJ2A・B
は日産のブルーバード410とSS・SSSの関係に似ているか?(ピニンファリーナがデザ
インしたが売れずにスポーツセダンとしてマイナーチェンジして売り上げと収益の増
加に寄与しただけでなくスポーティなブルーバードのイメージ構築に成功しフェアレ
ディZにつながるのであった)。違うのはJ2ABが闇に葬られた点である。しかしこの3
つの機体がなければ烈風の誕生は遅れていたとも言われている。
    
雷鳴


−−あとがき−−
黒の機体はモデルグラフィックスのオリジナル戦闘機コンテストに
出したものです。一応掲載されました。白黒ですけど。(85,11月号)
このころは1/72で烈風が無かったのでキ84のキャノピーを烈風のもの
として製作しました。設定は雷電21型の延長軸を短くして烈風のキャノピー
を流用して雷電の問題点がすべて解決するというものです。和製FW190として。
時を経て学研の雷電のイフシュミレーションを見て驚き今日に至っております。
ファインモールドの烈風が発売され烈風の資料が増えてきたので学研で烈風が
発売される前に私の原点ともいえる機体をリメイクして雷電三部作として
無理矢理つじつまを合わせて見ました。日産Zをデザインした松尾氏の
エピソードをモチーフにしました。
最後まで読んでくれてありがとうございます。