北上型(Light Cruiser→Minelayer Kitakami Class)


大正7年(1918)の八四艦隊計画修正案に基づいて建造された軽巡洋艦球磨型の3番艦から5番艦。
球磨型は昭和8年(1933)、海上護衛総司令部に移管され、この際に球磨及び多摩は実験艦的な性格を持った航空巡洋艦に改造された。
ロンドン海軍軍縮条約で、球磨型が規定の艦齢(16年)に達してその代艦を建造した後でも、3隻を練習艦として保有する事が認められていた。
そのため、海軍では北上以下3隻の練習艦への改造を昭和6年(1931)頃から検討しており、昭和11年(1936)から順次改装を開始した。
ロンドン条約では、北上以下の練習艦として保有する際に以下の条件を満たす事とされた。
(1)備砲の半数を撤去。ただし主要口径砲は4門まで残して装備
(2)全ての魚雷発射管を撤去
(3)全ての航空兵装とその付属物件の撤去
(4)ボイラーの半数を撤去
北上以下の3隻は改装終了後、欧州や米国への遠洋航海実習に用いられていたが、昭和14年(1939)欧州でソ連軍のフィンランド侵攻を契機に第二次欧州大戦が勃発し、アジア太平洋方面でも戦雲が高まりつつあったので、練習艦任務を解かれ機雷敷設艦への改装を実施する事となった。
練習艦への改装の計画段階から平時には練習艦として使用するが、戦時には短期間の改装工事によって敷設艦に転用する事が考慮されていたため改装工事は短期間で終了した。
この際に主砲を全て撤去して八九式12.7cm連装高角砲を4基搭載するように変更し、また、航空兵装も復活している。
北上型の3隻はこの状態で対米戦に突入し、その他の敷設艦とともに南方資源地帯と内地の間の重要航路周辺で海峡や水道の機雷封鎖を実施し、米国潜水艦部隊に対する防衛線を構築した。
また、フィリピンの機雷封鎖を実施し、航空部隊による空襲と共にフィリピンの孤立化を図った。
この時、木曽が戦争の趨勢を左右するほどの大戦果を挙げている。
昭和18年(1943)4月18日、フィリピン方面で行動中であった木曽及び水雷艇4隻が魚雷艇4隻からなる部隊と遭遇、3隻を撃沈、1隻を撃破した。
救出した生存者を尋問したところ、この部隊は在比米軍司令官マッカーサーの脱出部隊であり、撃沈された魚雷艇の1隻にマッカーサーが便乗していた事が判明した。
このため、日本軍はマッカーサーの戦死を発表、米軍のラジオ放送も数日後これを認めたため、日本国民の士気は揚がり、米国民の反戦ムードは一気に高まった。
昭和18年(1943)末、北上以下3隻は呉鎮守府部隊の練習戦隊に編入されて再び練習艦任務に戻り、3隻そろって停戦を迎えた後、北上と大井は解体処分を受けたが、木曽は横須賀で定係練習艦として使用後、昭和39年(1964)、名古屋港内に回航され記念艦として繋留保存されている。
北上練習艦改装完成時
◎要目(北上練習艦改装完成時)
 基準排水量:4,850t 全長:162.1m 最大幅:14.2m
 機関出力:45,000馬力 速力:25.0kt
 兵装:14cm単装砲4基
     12.7cm連装高角砲1基、25mm連装機銃2基
 同型艦:北上、大井、木曽

北上敷設艦改装完成時
◎要目(北上敷設艦改装完成時)
 基準排水量:5,060t 全長:162.1m 最大幅:14.2m
 機関出力:45,000馬力 速力:24.5kt
 兵装:12.7cm連装高角砲4基、25mm三連装機銃2基
     九四式爆雷投射機2基
     機雷300個
 搭載機:水偵1機