邪国海軍連合艦隊旗艦 戦艦『大和』

戦艦『大和』

  注:題名の国名、および文中の記述に疑問をお持ちの方は、お手数ですが文末の「作者より」
    の項を先にお読み下さい
 

    要目(最終時)
 
    基準排水量:79,600t
    全長:289.5m
    全幅:38.9m
    喫水:10.6m
    主機:艦本式オール・ギアード超高圧タービン8基 4軸 
    主罐:ロ号艦本式重油罐12基
    出力:318,000hp 
    最大速力:35.5kt
    航続力:8,500浬/20kt
    乗員:2,750名
    武装:50口径46cm3連装砲3基 60口径20.3cm3連装砲6基
       40口径12.7p連装高角砲12基 
       25mm3連装対空機銃44基 同単装16基 13mm連装対空機銃2基
    搭載機:水上偵察機8機(機種により増減有り)
    装甲(最大)舷側250mm+200mm(傾斜角20°)
          甲板160mm+70o
          主砲650o
    同型艦:なし(但し、書類上は『武蔵』『信濃』が同型艦となる)


 戦艦『大和』艦歴


 本艦は、邪国海軍最後の連合艦隊司令長官である塚原武俊元帥が、第二艦隊司令長官時代から旗艦と
して使用した戦艦として知られている。後に述べるが、その戦歴は総括すると「常に邪国海軍の勝利と
共にあり」と言えるものだった。だが、そうした栄光とは裏腹に、その生い立ちと余生には、いくつか
の複雑な事情と物語が存在していたのである。


 邪国紀元1024年。同年7月の軍縮条約の失効を待ちかねていた邪国海軍は、密かに設計を終了し
ていた新型戦艦3隻の建造を決定した。
 これが『大和』型で、仮想敵である邁国海軍のいかなる戦艦をも撃破可能とするべく、世界最大の4
6cm砲を搭載した巨大戦艦であった。その建造計画は重要国家機密とされ、邁国はもちろんのこと、邪
国海軍将兵の多くもその計画の存在すら知ることがなかったのである。
 その1番艦である仮称『一号戦艦』は、同年12月24日、盤攻城の海軍工廠で起工した。極秘の建
造とはいえ、その起工式には邪国海軍の首脳部が揃って集まり、世界最強となるべき戦艦の誕生に思い
をはせたと伝えられている。


 ところが、この史上最大の戦艦となるべき新造艦の前途には、思いもよらない悲劇が待ちかまえてい
た。翌年9月、盤攻城一帯を襲った大震災により同艦は船台から落下、おまけに隣接する倉庫から発生
した火災が飛び火し、船体を全損してしまったのである。たまたま工廠が休業日だったので人的被害は
この艦に関する限り無かったのだが、もはや損傷した船体を修理して、建造を続行するのは不可能な状
況になってしまったのである。
 やむなく、海軍は『一号戦艦』の建造中止、即時解体を決定した。この震災の影響で海軍も少なから
ず予算の削減を余儀なくされていたし、同工廠では仮称『三号戦艦』(のちに『信濃』となる)の建造
が予定されていたので、これ以上完成の見込みのない艦をドックに置いておくわけにはいかなかったの
である。こうして『一号戦艦』は正式艦名すら与えられないまま、薄幸の生涯を閉じることになってし
まったのである。


 その年の11月。軍令部から艦政本部に対して、ある設計命令が下った。
 それは『大和』型の次世代を担うべき主力戦艦の原案となるべきものであり、その要求は以下のよう
なものであった。

  1.主砲は新開発の46cm50口径、もしくは開発予定の51cm45口径砲とし、これ
    を8門以上搭載する。
  2.副砲は15.5pないし20.3cm砲を8門以上とする。
  3.敵機の攻撃を考慮し、高角砲を最低20門以上は搭載する。
  4.夜戦部隊の旗艦任務に対応するため、速力は30kt以上を最低条件とする。
    5.『大和』型の防御所の弱点である、中心線上の副砲の防御構造を再検討する。
  6.通信施設、および艦隊旗艦設備は『大和』型と同等、もしくはそれ以上とする。

 軍令部はこの要求に沿った戦艦の建造を、遅くとも2年後には開始したいと考えていた。現在建造を
予定している『大和』型2隻の他は、軍縮条約以前に建造された艦ばかりであったので、来るべき邁国
との戦争に備え、戦艦部隊の増強は急務だったのである。そのため、軍令部としては艦政本部に圧力を
かけてでも、その設計を急がせる腹づもりだったようである。
 ところが、この要求に対する艦政本部からの返事は、軍令部も予想だにしないものだった。艦政本部
は研究用として46cm50口径砲、後に駆逐艦『雪風』型に搭載された超高圧機関を4組搭載した、大
和型の改良型となる高速戦艦の設計を独自に行い、しかもその設計をほぼ終えている、というのである。
 この設計は近い将来、軍令部から新たな戦艦設計の要求があることを見越して、次世代の戦艦を研究
するためのものだったため、本来なら図面上での存在で終わるはずのものだった。だが、予定された性
能は今回の軍令部の要求をほぼ満たしているものであったし、実艦を建造するにあたっても、大きな設
計変更を必要とするものではなかったのである。
 そのため軍令部は、直ちにこの設計案を採用、紀元1026年3月15日、先に解体された『一号戦
艦』の代艦として、盤攻城海軍工廠で仮称『二一号戦艦』が起工されたのである。
 
 
 『二一号戦艦』は紀元1028年8月25日に進水、『一号戦艦』の予定艦名『大和』を受け継いだ。
艦型の分類に関しては、この時点で既に完成間近であった『武蔵』『信濃』を含めて、『大和』型とこ
のとき正式に分類されている。だが実際の性能がかなり異なっていたからか、海軍将兵および民間(戦
後のことであるが)の間では『武蔵』『信濃』と区別するため、本艦を『大和改』もしくは『新大和』
型と呼ぶことが多かったようである。
 『大和』の竣工は紀元1031年初頭を予定していたが、同年暮れにパー国戦が開始され、邁国との
戦争がいよいよ現実的なものとなりつつあった。そのため軍令部は完成を急ぐよう下命し、これに対し
て工廠側は昼夜を問わぬ突貫工事で対応、予定より半年以上早い紀元1030年5月21日。史上稀に
みる大型高速戦艦『大和』は完成したのである。邪邁開戦の2ヶ月前のことであった。
 
 
 本艦は旧『大和』型に比して、全幅はそのままだったが、船体が前後に延長されていた。これは高速
発揮に重点に置いたためで、高圧機関を採用したのも同じ理由からである。速力は35.5kt(公試で
は36.8ktを記録)に達し、艦の運動性も船体が長くなったことで、旧『大和』型に比して幾分なが
ら向上していたから、十分に夜戦部隊旗艦の任を果たすことができる艦であった。


 防御に関しては、副砲塔そのものの装甲を強化することはもちろん、副砲弾薬庫を装甲板で覆って箱
状とし、主砲弾薬庫への延焼を防ぐように工夫されていた。また各砲塔の弾薬庫には、海水を利用した
冷却装置と発泡式および二酸化炭素放出式の消化装置も完備されている。また舷側装甲は主要部分が強
化され、甲板は変化が無いが、旧『大和』型の1枚装甲ではなく、2枚の装甲を複合し、その間に空洞
を設けるといった構造を採用している。舷側装甲の傾斜角は旧『大和』型と同じ20°であった。
 なお本艦の防御の特徴としては、夜戦部隊の旗艦として水雷戦に参加することを想定していたため、
形式は一応従来の集中防御方式を踏襲していたが、艦首尾の非装甲区画にも主要部分と同等の水密区画
を設けるなど、艦全体の防御を考慮した設計になっていた。そして、これらの改良が結果として本艦の
沈没を防ぐ大きな要因となったのである。


 武装も旧『大和』型より強化されていた。主砲の口径が50口径になり、副砲は新開発の20.3p
60口径3連装砲を中心線上に2基、その両舷にさらに1基ずつ配置した。これにより、艦首尾線上に
それぞれ9門、両舷側には最大12門という大火力を向けることが可能になった。また対空兵装は、高
角砲は12.7p連装砲12基にまで増やされ(『武蔵』『信濃』も本艦の配置に準じて増備)、機銃
も25mm3連装機銃20基、13o連装機銃2基装備されている。これは敵航空機がまだ脅威と見なさ
れていない時代の設計としては、かなりの対空能力を持っていたというべきであろう。
 
 
 さて、本艦は研究用の設計から生まれた戦艦であったから、特に超高圧タービン8基を組み合わせた
主機関に不具合が多かった。その熟成には結局2ヶ月あまりを要し、実戦部隊に配備されたのは、開戦
後の7月28日になった。ただ、時間をかけて問題に対応したことが幸いし、この時点で各部の問題は
ほぼ完全に解消、以後終戦まで大きな問題は発生しなかった。
 艦隊配備後の『大和』の所属は第二艦隊の第八戦隊で、同時に第二艦隊司令長官塚原武俊中将の旗艦
となった。これ以降、塚原は作戦によっては『大和』を降りることもあったが、ほぼ終戦まで、本艦を
旗艦として各地を転戦することになるのである。


 『大和』の初陣は10月23日の到島沖海戦だったが、それ以前に、輸送船団護衛中に浮上した敵潜
水艦と衝突、これを沈めるという珍事に遭遇している。本艦には完成時から大型の水中聴音機が搭載さ
れていたので、こうした船団護衛あるいは対潜哨戒にも幾度と無く投入されていた。これは夜戦部隊に
欠かせない水雷戦隊の指揮艦として必要な能力ではあったが、この逸話からも、多用途に対応可能な汎
用性の高い戦艦であったということが伺える。
 到島沖海戦では、遊撃隊を勤めた第二艦隊の旗艦として奮戦、敵戦艦『ペンシルヴェニア』『コロラ
ド』『オクラホマ』の3隻を撃沈、同時に『ペンシルヴェニア』に座乗していた邁国海軍作戦部長カビ
ーを戦死させるという大戦果を挙げた。初陣とはとても思えないその獅子奮迅の戦いぶりは、敵からの
みならず味方からも大いに恐れられるほどであった。この活躍ぶりはもちろん本艦の高性能の賜物であ
ったが、同時に第二艦隊の平時における猛訓練と、塚原武俊という邪国海軍きっての名将を指揮官とし
て有していたからこそでもあった。


 その後、『大和』は第二次ツツガムシ島沖海戦では前衛部隊総旗艦、ササダニ沖夜戦では第二輸送隊
の旗艦として参加、その持てる戦闘力を存分に発揮して邪軍を勝利に導いた。そして紀元1032年3
月15日、座乗していた塚原武俊大将が連合艦隊司令長官に就任したのを受け、本艦は連合艦隊の総旗
艦として第二艦隊本隊に独立して所属することになったのである。
 同年7月、邁国との一時休戦が成立した直後に入渠。射撃用、対空砲連動用の電探が追加装備され、
対空機銃も更に増設された。これが『大和』の最終状態となり、以後終戦までこの状態で戦い抜くこと
になるのである。
 
 
 再び邁国と戦端が開かれて後、『大和』が始めて戦場に出たのは、紀元1033年8月1日に行われ
た中部大東洋海戦であった。このときは病気療養中の塚原に代わって、第二艦隊司令長官(連合艦隊司
令長官の職務を代行)の堀田真治中将が指揮を執っている。この戦いは『大和』が援軍として到着した
時点で、既に邪軍の敗北が決しているような状況であった。それでも、大損害を出して退却する第五艦
隊の援護に活躍している。また直後の第一次虎麦港海戦では、全軍を指揮する堀田真治の旗艦として参
戦、敵戦艦2隻を一瞬で屠るなどの活躍を見せている。
 この年の暮れに発生した市民によるクーデターの際には、現役に復帰した塚原武俊の指揮の下、首都
盤攻城の沿岸まで進出し、威嚇射撃を行ってクーデターの無血成功に貢献した。そして虎麦港航空戦で
機動部隊の支援に出撃した後、邪国海軍最後の決戦となった第二次露島沖海戦に、連合艦隊総旗艦とし
て出撃したのである。


 第二次露島沖海戦は、先の虎麦港での航空戦で壊滅に近い被害を受けた機動部隊を除く、両国海軍の
総力が激突した一大艦隊決戦であった。その渦中で旗艦として奮戦した『大和』は実に大小60数発の
被弾、および魚雷5本の命中という大損害をこうむり、戦闘不能寸前まで追い込まれた。しかし、多量
の浸水を見ながら沈没を免れたのは、十分な防御力と消火設備、強固な水密区画の設置が実を結んだ結
果であり、艦政本部の設計が見事なものであったという証明になったと言えるだろう。
 
 
 この激戦の直後、再び邪邁両国は停戦したが、『大和』が戦場に出ることは無かった。これは邪邁両
国が講和条約を締結したことで戦争が終結したからなのだが、第二次露島沖海戦で受けた損傷の復旧に
は相当な時間を要すると考えられたからでもある。そのため6月30日『大和』は第一予備艦として第
一線を離れたが、邁国との講和条約締結の際、その条件として軍艦籍から除籍されることが決定された
のである。
 当時『大和』は虎麦港のドックで細々と修理を続けていたのだが、この状況下では修理を続ける意味
もなく、作業は中止。ここにきて『大和』は、廃艦、スクラップにされるという危機に直面することと
なったのである。
 
 
 だが、邪国海軍の首脳部と将兵たちは『大和』を見捨てなかった。彼らは自分たちで資金を募り、政
府に保存を要請する運動を起こしたのである。また終戦によって『大和』の戦歴を知る機会を得た国民
も、この運動を積極的に支援するようになっていった。その結果、邪国政府は『大和』の修理再開と、
盤攻城港において記念艦として保存することを決定したのである。


 紀元1035年1月5日、修理が完成した『大和』は盤攻城港に係留された。同時に管理、運営のた
めの『戦艦大和会』(中心は旧乗組員たちであった)も発足し、このまま盤攻城港に永久保存されるこ
とになったのである。
 
 
 現在、『大和』は邁国との苦しい戦いをくぐり抜けてきた邪国海軍の象徴として、そして、現代民主
共和政治の基礎となった市民クーデターを象徴する艦として、国民から親しまれる存在であり続けてい
るのである。




    作者より
 
     A‐140です。この『大和』は私にとって初の投稿となりますが、これは私が友
    人から受け継ぎ、現在も細々と執筆している小説に登場する『大和』です(なお、本
    艦のイメージを具体化したのは「鋼鉄の咆哮」でした。かなり強かったです)。


     文中にある邪国(じゃこく)および邁国(ばいこく)というのは、この地球上には
    存在しません(当然ですが)。それどころか、この世界自体が私の独断によって生み
    出された産物でしかありません。ただ使っている兵器が邪国の場合、第二次大戦時の
    日本軍風であるというだけの話(邁国側はアメリカ風、これは両国の人名にも当ては
    まります)でしかないのです。
     なぜこのようなことになったかといいますと、私が友人から受け継いだ時点でこう
    いう話だったから、ということもありますが、史実どおりの日本vsアメリカという
    構図にすると、その国力のあまりの差を埋めようが無いと判断したからです(つまり
    どうやっても日本が一方的に負ける、ということです)。
     これでは私の書きたかった話は書けそうもありませんでしたし、また本艦のような
    架空艦を作ろうにも、現実の日本の国力、および技術力の不足という矛盾を整合させ
    ることが不可能だと思ったのです。それならいっそのこと「(一部の兵器を除いて)
    すべて架空の世界の話にしてしまえ」と考えたのが本音というところです。その点に
    ついてはご了承いただければ幸いです。
    
 
     この作品は以前に書いたものを、この『架空機の館』の皆様の作品を見て、触発さ
    れ大幅に手直ししたものです。とはいっても、初めてということもありまだ未熟な絵
    であります。それに設定がまったく滅茶苦茶なものを持ち込んでしまい、場違いだっ
    たかと恐縮しております。絵自体もほとんどオリジナルの『大和』で、私なりのオリ
    ジナリティがあるわけでもありませんし…(強いて相違点を挙げれば、艦橋が低く太
    いことと、副砲の配置が違うということがはっきりわかるくらいですか)。
     ところで、この艦の要目は自分の願望で決めましたが、現実性はないでしょうね。
    (こんな大型戦艦が35kt出すという時点で無理があるような気も…)。しかし、
    この艦には個人的にこだわりがあって、性能面で絶対に妥協したくなかったというこ
    とがあります。
 
 
      最後に、この絵を大改修するにあたり、『架空機の館』内に展示してある多くの方
    々の作品を参考にさせていただきました。もちろん、直接盗用したものはありません
    が、中には「自分の描いたものに似ている」と思われる方もいらっしゃるかもしれま
    せん。もしそうでしたら、この場を借りてお詫びいたします。私には十分な技術があ
    るわけではありませんから、できることといえば、他の方の作品を参考にするくらい
    です。その点、ご了承いただければと思います。
 
 
     次回ですが、巡洋戦艦を3隻投稿する予定です。3隻といっても、実は同じ艦型の
    バリエーションですから、恐らく同時の投稿になると思われます。また上面図の完成
    に手間取りそうですが…。では、これからもよろしくお願いします。
 
 
    注:10月14日に「今度こそ」となる完成図面を投稿しましたが、サイズが変更
    されたため歪みを生じ、文章の改訂という形で対処、再度投稿しました。
     初めてということもありますが、この作品に関しては管理人さんにお手数をかけ
    続けてしまいました。あらためてお詫びとお礼を申し上げます。
     
     では、さしたる技量は持っておりませんが、これからもよろしくお願い致します。

                          2001年 10月14日 投稿