すべては大正14年、外遊を終えて帰朝した平賀譲造船中将が艦政本部第四部長に就任した事に端を発しました。希代の天才ではあるものの協調性に欠ける部分のある平賀中将を外遊中に失脚させてしまい、人当りの良い藤木少将を後任に据えるという謀議が行われましたが結局は実現しませんでした。
平賀中将とその一派は艦本の主流となり、多くの優秀な艦艇を産み出しましたが用兵側と技術側で深刻な対立も産み出してしまいました。この頃のチグハグな建艦計画は太平洋戦争の敗因のひとつにも挙げられており、今日でも「もし、平賀中将が失脚していたら?」はシミュレーション小説の定番となっています。
水雷艇<千鶴>は特に用兵と技術の対立が先鋭化していた昭和6年度に計画されました。
基準排水量600トン以下の艦艇には軍縮条約が適用されない事に目を着けた用兵側が不足する駆逐艦の代用として排水量600トン、速力30ノット、12センチ砲3門、61センチ魚雷3連装1基6本という過酷ともいえる要求を提示、艦本は当然の如く無茶であると反発、連絡会議も紛糾してしまい、艦本の技術士官の「素人の無い物ねだりならまだしも、これでは味方殺しだ。軍令部は英米の手先か!」の台詞に対し、軍令部の参謀が抜刀するという騒ぎにまで発展しました。
事態を救ったのは牧野中尉や吉川大尉といった両陣営の将来を嘱望されていた若手の士官達で、日頃から用兵と技術の対立を憂いて連絡を取り合っていたのが功を無し、怒り狂う首脳陣をなだめ、妥協させるの事に成功しました。
妥協の結果、排水量600トンは変わらずに速力27ノット。砲は自力で突撃路を開啓するのではなく、あくまで水雷戦隊や巡洋艦隊に追従して突撃するという事で12センチ砲1門とし、替りに1万トン巡の雷装廃止などで低下した艦隊の雷撃力を補うという意味で雷装については軍令部案のままとされました。
完成当初は中途半端な性能から存在価値を危ぶむ声がありましたが、逆に手頃な艦として漁業保護から地上支援まで幅広い分野で重宝され、裏方のみでなく長江遡上作戦など正面作戦でも活躍、実戦部隊の評価は極めて良好で改良型を含め32隻が建造され、さらに条約破棄後もふたまわりほど大型の後継型の建造が続けられ、開戦時には水雷艇は50隻を超える大勢力となっていました。
開戦後は主に船団護衛に従事、<千鶴>など前期型(条約型)は航続距離が短いなど本職の海防艦などに比べて不利な部分もありましたが、それに劣らない働きを見せました。
遡上作戦の頃から魚雷発射管を降ろす事がありましたが、太平洋戦争中盤以降はほとんどの艦が発射管を降ろしており、「水雷艇」もないだろうという事で類別名変更も考慮されましたが、そのうちに戦局がそれどころでは無くなったので終戦までそのままでした。
<千鶴>の終末は昭和19年9月6日、台湾沖で敵潜<ウィロウ>の雷撃を受けての沈没でした。
ころころ、南方で「寝返った日本潜水艦が日本商船を襲っている」という深刻な噂が囁かれていました。
<千鶴>はヒ72船団を護衛して南方から内地に向かう途中でしたが、9月5日、船団を攻撃してきた潜水艦に対し突撃を行ない衝突、取り逃がしたものの大きな損害を与える事に成功しました。
そして、運命の9月6日。損傷して内地に向かうという味方潜水艦<伊51>が船団に同航してきました。ところが、その損傷は前日、<千鶴>が敵潜に与えたものと酷似していたのです。<千鶴>艇長は噂を信じ、<伊51>を攻撃してしまいます。
突然、味方に攻撃された<伊51>は慌てて逃走しますが<千鶴>の追撃を受けて沈没を覚悟します。
その時、損傷を負わされながらも船団を追っていた「本当の敵潜」<ウィロウ>が出現、同士討ちに気付いた<千鶴>は混乱してしまい、有効な回避策をとることができず<ウィロウ>の雷撃を一方的に受けて沈没するという悲劇的な最期となりました。
なお、体勢を立て直した<伊51>は<ウィロウ>に反撃、これを撃沈している事がせめてもの慰めであるといえるでしょう。
要目(新造時)
| 基準排水量 | | 650トン(公称600トン)
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| 垂線間長 | | 77.5m
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| 最大幅 | | 6.8m
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| 平均吃水 | | 2.5m
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| 主機 | | 艦本式ギヤードタービン 2基/2軸
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| 主缶 | | ロ号艦本式水管缶 2基
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| 出力 | | 11000馬力
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| 計画速力 | | 27ノット
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| 燃料搭載量 | | 重油120トン
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| 航続力 | | 14ノットで2500浬
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| 兵装 | | 12センチ45口径単装砲1基
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| | 40ミリ単装機銃1基
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| | 53センチ3連装発射管1基
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| | 爆雷投射機(Y砲)1基、爆雷投下台2基
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| 乗員 | | 120名
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