満州帝国海辺警察隊・打撃警備艦
  海 城      Hai-Cheng

 昭和11年、南満州鉄道の提唱により満州国近代化プロジェクト「曙光」が開始されました。
 この計画は、近代化により、いつかは日本からの自立を夢見る満鉄を始めとする在満企業および満州政府の若手テクノクラートと満州に進出し利権を確保したい海軍と親海軍系企業団が先頭を走り、満州における陸軍の伸張を嫌った政府政党系勢力がこれを支援、最終的には利権を奪われる事を恐れた陸軍・親陸軍系企業や既出企業、満州政府保守系勢力も加わり、「同床異夢」という言葉にぴったりの状態ではありましたが、日本と満州の官民の力を結集した大計画である事は間違い無く、日本が70年かけて成し遂げた「日本の奇跡」を今度は20年で実現するという、壮大なものでした。

 <海城>は「曙光」の一環、満州海軍建設計画により新興満州海軍の旗艦として計画されました・・・しかし、<海城>は満州国海軍には配備されませんでした・・・完成しなかった訳でも、途中で買収されたわけでもありません。日本海軍が満州より放逐されてしまい、満州国海軍は事実上消滅(後に河用艦艇は江上軍として陸軍に吸収)。そこで、海洋戦力として警察の一部門である海辺警察隊を支援する事となった為、「曙光」で建造された艦艇の大半が海辺警察隊に流れたのです。
 その結果、海辺警察隊は民政部に属する警察組織の一部門でありながら戦艦や巡洋艦(後には空母も)まで有し、小国海軍を遥かに凌駕する「史上最強の水上警察」となり、<海城>はその旗艦として「史上最強の警察艦」となりました。

 <海城>は最初から「海軍の象徴」としての用途が重視されていた為、「わざわざ新造しなくても、見栄えの良い艦を分けてやったらいいんじゃないか」と<朝日>や<摂津>の譲渡、あるいは<比叡>や<扶桑>の売却案も有力で、一方で「どうせ新造するなら、有事に(日本海軍が)使えるものを」という事で超甲巡案など諸案入り乱れましたが、予算の都合から、強砲力・低防御・低速・短航続の海防戦艦となりました。

 象徴ですから、威容を重視して設計されており、巨大な砲塔(実際は14cm砲弾でも直撃されると怪しい砲室)などが特徴ですが、重油缶4本の1本煙突で射出機を装備する初期の計画から、重油缶2本、石炭缶4本の2本煙突に「スペックダウン」したのもデザイン上の理由からだと言われています。

 開戦後、貸与案や連合艦隊編入案、空母改造案もありましたが、低速かつ航続距離があまりにも過小である事から見合わされました。
 石炭缶を搭載していたことから、他の重油専燃に比べるとマシとはいえ、低速の大型艦に活躍の場があるはずもなく、海成型巡航警備艦や海進型警備艦の前線での活躍を尻目に主に日本海や東支那海などでの警備や支援任務につき、大きな戦果も挙げることも、大きな損害も受けることもなく終戦を迎えました。

 しかし、確信犯的な「新鋭旧式艦」で計画時には「カカシ」「鬼瓦」などの批判があった本艦を、ソ連はなにと勘違いしたのか、この艦をやたらと過大評価し、排水量3万トン以上、主砲は40センチ、速力30ノットの「日本軍の隠し玉」と思いこんでいた節があり、ソ連軍の進行が途中で止まったのは大連に本艦が健在だったからという説が事実なら「カカシ」の面目躍如といったところでしょう。

 満州帝国崩壊後は中共軍が接収。日本海軍の大型戦闘艦艇はすべて破棄という英米の方針に対し、ソ連は満州籍であるから対象外として反発、一時はかなり緊張した状態となりましたが、回航中に爆発・沈没し、緊張の種は海底に消えました。一説ではアメリカの特殊部隊の攻撃であったとする説や過大評価をもみ消すためにソ連軍がやったという説など、諸説ありますが、真相は今日でも謎のままです。

海城 Hai-Cheng 造船所摂津重工志摩造船所,昭和16年2月11日竣工,昭和20年12月11日事故により沈没。(資料散逸により除籍年月不明。満州帝国崩壊の混乱により正規の除籍・接収手続きがなされていない可能性も高い)
海王 Hai-Wang 計画中止

要  目  (新造時の海城を示す)
基準排水量15000トン
垂線間長135m
19.5m
平均吃水7.2m
主機艦本式オール・ギヤードタービン 2基2軸
主缶艦本式水管缶 6基(重油・石炭混燃)
出力22000馬力
速力21ノット
航続力14ノットで2000浬
兵装30センチ連装砲 3基
8センチ連装高角砲 6基
25ミリ連装機銃 10基
25ミリ単装機銃 10基
装甲甲板30ミリ 舷側25ミリ