櫛 田 丸  KUSHIDA MARU

 <櫛田丸>は戦時下における資材・設備の有効活用を目的に制定された戦時標準船のうち、1TLと呼ばれる第一次計画の大型油槽船型の改造艦である。
 1TLは大型・優速で最初から補用空母として計画されていた部分があるが、本艦は空母というよりは「航空油槽船」といった存在で、摂津重工が独自に提案した「自分の面倒を自分で見れる武装商船団」の目玉としてA型貨物船改造の防空艦、E型貨物船改造の駆潜艦、おなじくE型改造の掃海艦などと共に計画された。
 実際、空母として買収・編入にはならず、徴用船として特設軍艦(特設航空母艦)に類別され、海上護衛総隊が設立されるまでは海軍の管理・運用の元、船舶運営会により運航されている。

 ミッドウェイ海戦の直前に本艦の計画が提出された為、摂津重工は機動部隊の壊滅を予測していたと言われる事があるが、実は2〜3型は獲れると思っていた戦時標準船の設計が1型も取れなかった為、改造計画および第二次計画で挽回すべく設計案を毎日のように提出しており、空母増強案がミッドウェイの直前に提出されたのは単なる偶然である。

 構造物が未完成の1TLに柱を建てて飛行甲板を載せ、艦橋とエレベータ、格納庫を取り付けただけで、軸数は1軸、舵は釣合舵と非常に簡単な構造となっている。
 重量や重心、資材の関係から艦橋など一部を除けば強い波を受けると凹むほど薄く作られていて(中央部分の壁に至っては骨組みにカンバスを張っただけの布製)艦隊行動には無理があったが、何もしないでも勝手に沈んでいくような戦標船の護衛としては充分だった。

 飛行甲板は150mで海軍の定めた最低要件より10mも短いが、舷側に水上機用のものを改造した火薬式の射出機を装備し、九七式艦攻も運用可能となっていた。
 エレベータは前部に1基。搭載機は常用12機。壁の無い部分も格納庫として使用したり、露天繋止を使用すればさらに20〜30機程度が搭載できた。
 問題点は原形の1TLの機関位置の関係上、煙突の位置が後ろすぎる事で、事故も多く、後の研究の結果、上むきの傾斜煙突の方が良好となったので、以降の艦は設計を改めている。

 普通の艤装でも3ヶ月以上かかるTLの改造に3ヶ月弱で成功した事になるが、実は計画提出の時点で採用の内示を受け、船台上にあった時から改造に着手し、正式に改造が決定した時点では海軍側の艤装の為に海軍に引き渡すだけという状態という裏技を使っており、後の艦はこれほど好成績に建造できていない。

 完成当時は他の武装商船と共に輸送部隊の主護神として活躍したが、戦局が悪化していくと、たかだか十数機の航空機では雲霞の如く襲ってくる敵機や敵潜に抗しきれず、逆に空母が混ざっていると敵の攻撃が激しくなり、損害が増すという事態となり、次第に活躍の場は狭められていき、戦争後半には発進のみで収容を考慮しない一種の特攻空母としての運用も計画されていた。
 昭和19年12月10日、翌月より実施予定の「特攻輸送(南号作戦)」の先駆け兼12日に出発予定のヒ87船団の先払い(事実上の囮)として、防空貨物船<鈴鹿丸>などと共にシンガポールを出撃、敵機や敵潜の執拗な攻撃をうけつつ北上を続けたが12月27日、ついに沈没した。
 しかし、ヒ87船団は25万トンという、当時の1年分の輸送量の20%にあたる石油と共に無事日本に到着。地道な輸送に従事した本艦は最後にその一身をもって敵艦隊の撃滅にも等しい偉勲を残した。


櫛田丸 Kushida-maru 元摂津海運所属の櫛田丸。建造所摂津重工志摩造船所。昭和17年10月5日商船として艤装中航空母艦改造に着手、昭和17年10月20日徴用、特設軍艦に編入、特設航空母艦に類別、昭和18年1月22日改造完成、昭和19年12月27日汕頭沖で空襲をうけ沈没。昭和20年1月15日除籍。

要目(新造時)
基準排水量  12200トン
全長160.50m
最大幅20.00m
平均吃水8m
主機TLT(蒸気ギヤードタービン)1基/1軸
主缶21号水管缶2基
出力8600馬力
速力16ノット
燃料搭載量2239トン(他に輸送用として1万2千トン)
航続力15ノットで7000浬(12ノットで1万浬)
兵装12センチ単装高角砲2基、25ミリ連装機銃8基
搭載機射出機2基/常用12機(他に輸送用として24機程度)
飛行甲板155m×20m
乗員570名
櫛田丸
 ※この画像では舷側カンバスは未装備状態※