

基準排水量 58,000t 満載排水量 63,700t 全長 265.5m 全幅 33.5m 飛行甲板 最大長155.0m 最大幅 45.0m(離着艦斜甲板含) 機関 独/艦本式蒸気タービン4軸 200,000馬力 速力 31.5kt(公試31.82kt) 航続距離 18kt 10,000海浬 武装 50口径41cm連装砲3基9門 65口径10cm連装高角砲12基24門 96式25mm三連装機銃26基72門 装甲 舷側 380mm 主砲塔 450mm 司令塔 580mm 飛行甲板等 102mm〜152mm(主要部) エレベーター 80mm 搭載機 常用30機 補用6機 艦上戦闘機 21機 艦上偵察機 3機 艦爆・艦攻 12機 エレベーター 右舷小型1基 左舷小型2基 後部中型1基 計4基 同型艦 「近江」 改良同型艦 「上総」「土佐」 日清、日露戦争に勝利し一流海軍国家の仲間入りしたを果たした日本は、さら にイギリス、アメリカと肩を並べるために、一層の海軍力の充実を計画した。 長門、陸奥、加賀、土佐、紀伊、尾張、など8隻の新型戦艦、天城、赤城、高 雄、愛宕など同じく8隻の新型巡洋戦艦を中心とした世界最強の艦隊を作り上げ ようというものであった。これが「八八艦隊」計画である。 しかし1921年のワシントン軍縮条約によって主力艦の保有量の制限がされると ともに建造も10年間にわたって禁止されたため、長門、陸奥が完成、そして赤城 と加賀が空母として再生されたものの、この雄大な計画は夢と終わった。 ワシントン軍縮条約による主力艦の建造禁止期間はネーバル・ホリディと呼ば れ、ロンドン軍縮条約成立による期間延長により、1936年の失効まで、戦艦の建 造は全て計画のみで終わっている。 戦艦「周防」について 建造計画が持ち上がったのは昭和13年(1938年)。「周防」は海軍の事情によ り、「大和」級を補完するための新型戦艦として計画された戦艦である。 昭和9年、ネーバル・ホリディの終わりを2年後に控えて、海軍は新型戦艦の 設計に着手した。極秘に建造されることとなる超弩級戦艦「大和」級である。 45口径46cm砲を塔載するなど、類を見ない超戦艦というべきものであった。 それは日本経済と工業力からみて、保有量で対抗するのは難しく、劣勢を個々 の性能で補うほかなかった。 また、海戦の主役は戦艦という、大艦巨砲主義の絶頂期でもあったのである。 昭和12年(1937年)。世界の海軍史上最大の戦艦である「大和」級の「一号艦」 が呉海軍工廠、「二号艦」が三菱長崎造船所で建造されることが内示された。 だが、「大和」級戦艦は必ずしも最強の戦艦ではないことが着工前から疑問視 されていた。軍令部より提示されていた航続距離18kt、8,000海里がクリアされず、 これからの海戦に不可欠な速力である30Ktも、計画段階で27ktに止まっている。 果たして海戦で役に立つか、という問題である。その重装甲により沈没はない にしろ、期待以上の働きができるのかということであった。 「大和」級戦艦と随伴するだろう在来の戦艦部隊も、改装された「金剛」級戦 艦を除けば、どれも25kt前後という低速である。高速化する軍艦の中にあって、 戦艦だけが取り残された存在となりつつあることは否めない。 それでなくとも、艦齢が20年を越えた老朽艦ばかりであり、一番若い「陸奥」 であっても15歳を越えている。近代化改装で持たせている戦艦群も、いずれは限 界がやってくるのもまた事実である。 そこで計画されたのが「周防」級である。 条約明けの列強各国が新造ラッシュに沸く中、旧態以前の日本海軍の戦艦群に おける代替新造戦艦として計画され、「大和」級を補完するのを目的に、当時の 最新技術を組み込んだ最新鋭戦艦として建造に着手された。 「周防」級の計画段階では、それまでの戦艦を踏襲した規格を予定されていた が、「大和」級において蓄積されたノウハウや、あらたな新技術を取り入れるこ ととなり、バルバスバウの採用や、電波機器の積極的な導入が試みられた。 艦橋も日本戦艦の特徴でもあった櫓型から、「大和」級で初めて採用された塔 型となり、艦橋の防御にも気を配られた。 主砲塔は前部に3基、後部に2基が予定された。「高雄」「妙高」といった重 巡洋艦に似たスタイルを持ち、「長門」と同じ45口径41cm砲を装備、連装5基と より強力なものになった。「大和」級にてその実用性を確かなものにした46cmも 検討されたが、あくまでも主役は「大和」級であり、「周防」級では無理のない 設計を最終的には通した。 副砲は最初から全廃し、40口径12.7cm高角砲を多数装備することとなった。高 角砲を両用砲としても使用することが、副砲の必要性をなくしたものである。 さらに追記すると、両舷側下に存在する副砲は非装甲、あるいは装甲が薄く、 防御の点からしてネックになるおそれがあった。それならば最初から全廃し、そ の分装甲を施すこととなったのである。 「周防」級は全体的に艦の中央部に艦橋などを集中させている。これは主要部 をできるだけ集中させた「大和」級の集中防御方式にならったものである。 そして一番重要視されたのが、速力と航続力である。これまでの低速な戦艦に 代わって戦艦部隊を担うのを目的とされた「周防」級は、最低でも30ktの高速を 求められた。「大和」級の計画時、欧米列強国の新型戦艦の速力を25kt前後と見 積もっていたが、建造が公になるにつれ、実際は28kt以上の高速戦艦であること がわかってきたのだ。30kt以上の優速力をもってし、仮想敵国である米戦艦と互 角か、あるいはそれ以上の性能を求められたのである。 紙の上で30kt以上を求めても、現実ではそうもいかない。日本の造船技術がい かに優秀であっても、機関においてはまたまだ未熟な点が多い。「大和」級と同 じ機関を塔載しても、試算では30ktが出るかでないかといった程度であることが 判明していた。 そこで艦政本部では、機関を純国産にこだわらず盟友ドイツにならうことにし たのである。 ドイツは欧米各国の中でも、機関においては比類を見ない技術力を誇っていた。 機関技術の例をあげれば、巡洋戦艦「シャルンホルスト」級は450度で50気圧、 戦艦「ビスマルク」では58気圧を誇っている。機関の耐久性に力を注いだ「大和」 級ですら325度で25気圧しかなかったことを考えると、いかにドイツのタービン技 術が優秀だったかうかがいしれる。 機関部重量1tあたりの出力も「ビスマルク」級で28.8馬力に対し「大和」級は 22.4馬力。「ドイッチュラント」級が巡航速度で19ktで約10,000海里、10ktで約 20,000海里を誇ったのはまさに驚異的である。 艦政本部は早速、盟友ドイツに技術使節団を派遣した。機関技術と引き換えに 再建から日の浅いドイツ海軍には、空母の航空機運用方法などを提供した。 この時昭和14年(1939)年。欧州においては第二次世界大戦が勃発している。 これにより、優秀な機関技術をある程度入手した艦政本部は、それを日本向に 改良し、最終的には33ktという快速を得ることに成功するのである。 「周防」級は全長246m、全幅33m、排水量も43,000tと、大和を一回り小さくし たコンパクトな船体となり、同時に軽快な速力を得た強力な新型戦艦となった。 「大和」級に随伴し、その高速力により露払いを務め、逃げすがる敵艦の追撃 も出来る、まさにスーパーサブの名に相応しかった。 計画案がまとまったのは昭和14年12月あるいは昭和15年3月頃と言われている。 一番艦「周防」の建造が昭和16年1月、横須賀海軍工廠において着手された。 新造戦艦を1隻でも欲する海軍において、「周防」は「大和」級に次いで予算 の優先事項として扱われた。二番艦「近江」の予算もすぐに可決され、16年3月 に長崎三菱長崎造船所において建造に着手されている。三番艦以降も計画されて いたが、ここからは空母建造の整備が優先され、三番艦「上総」の予算が計上さ れたのは17年4月である。 「周防」の建造は着々と進められた。全体の工程の15パーセントを迎えていた 昭和16年12月8日。運命の開戦の時を迎える。 航空戦艦「周防」について 建造開始から一半年。進水を前にして、「周防」に衝撃的な運命が訪れる。 昭和17年6月のミッドウェー海戦である。空母2隻を失い、2隻を大破すると いう機動部隊の大打撃を受け、その対策として新造空母の急造を急ぐとともに、 他の艦艇で、その艦種や戦闘力などの点から空母に改装できるものが選ばれ、次 々に改装工事にとりかかることとなった。それはそれまでの海戦の花形であった 戦艦にまでおよび、「伊勢」級戦艦2隻がまず改装されることとなったのである。 矛先は就役済の艦艇だけではなく、建造中の艦艇にまで向けられた。 そしてその対象は、真っ先に「周防」に向けられたのである。進水を間近に控 えていた戦艦は好都合な素材であった。 時代はすでに戦艦から空母に移り変わり、「大和」は補完されるまでもなく、 その存在自体までもが危ぶまれていたのである。 「周防」は全面改造し、大型空母として建造を再開させることが検討された。 しかし、陸では艦橋や主砲塔などの構造物が完成の一歩手前であり、なおかつ、 建造をどんなに急いでも竣工するのは18年末で、その頃には急造計画において整 備されていた「雲龍」級正規空母、「涼鷹」級護衛空母がある程度出揃うとされ ていた。 大艦巨砲主義派と航空主戦派の激論は続き、妥協策として「航空戦艦」の提案 が出された。後部主砲塔を撤去し、航空甲板を設けるといったものである。それ も「伊勢」級のように水上機と特殊機しか運用できない中途半端な改装ではなく、 艦上機を運用するための広大な飛行甲板を設けようというのである。 元々この案を提出したのは大艦巨砲主義派であった。何としてもその主砲だけ は残したいという一心の、最大の妥協案である。 一方、航空主戦派、特に山本GF司令長官がこれに興味を示した。日頃毛嫌い している大艦巨砲主義者たちが苦心の末出した結論に一応の評価と、それ以上に これは機動部隊の護衛に使えないかというアイデアがあった。 強力な対空兵装をした戦艦、さらに艦隊直掩の戦闘機を積めば艦隊防空能力が 著しく向上するはず、と閃いたである。 途方も知れないアイデアだが、古今東西、戦艦に航空機を積むというアイデア は絶えることがなかったことも事実。それを具現化しようというのである。 「1隻で2隻分の働きが出来て得ではないか」 山本GF長官は、幕僚たちに言ったそうである。幕僚たちは冗談に聞いていた が、本人はいたって真面目だったようだ。 この奇抜ともいえる提案に双方とも思惑はあったにしろ合意し、建造途中だっ た「周防」は航空戦艦として改造されることとなったのである。 だが、問題点もあった。 「周防」の全長では飛行甲板が短いということであった。航空機を運用するに は最低でも150m以上の飛行甲板が必要だった。それに、どうやって後部甲板に艦 載機を離着艦させるか、ということである。 全長が短いという点は、船体の大幅な延長工事を実施し246mから265mに、20mの 延長で改善できたが、依然、航空機の離着艦が問題になる。 そこで採用されたのがアングルドデッキである。 アングルドデッキは各国海軍が研究していたが、未だ実用化には至っていない。 そこで試験的に「周防」に導入しようというのである。「周防」で運用データを 収集し、後の空母に役立てようということでもあった。 「周防」の場合、右舷艦尾から高角砲群、艦橋部の横を通って海上に航空機を 射出しようというものである。これによって完成していた主砲塔や艦橋部にほと んど手を加えることなく、前方に貫通した飛行甲板を得ることができたのである。 試行錯誤の末、斜甲板を離着艦用専用とし、他の広大な甲板は艦載機の駐機な どが行えるようにした。 エレベーターにも新機軸が使われている。後部に中型エレベーターを1基配置 した他に、右舷に1基、左舷に2基の小型のサイドエレベーターを採用している。 これはミッドウェー海戦における教訓を取り入れ、空襲時にすばやく艦載機の 収容を行えるようにしたものである。 飛行甲板は102mm〜152mmの装甲に護られ、1t爆弾の急降下爆撃にも耐えられる。 ただし、これらの装甲は航空機の攻撃に限ってのことである。 戦艦同士の撃ち合いになった場合、「周防」と同じ、あるいはそれに準ずる口 径の砲弾に対してその保証はない。重装甲の航空戦艦といっても、半分は空母な のである。 「周防」の航空戦艦への改造の変更点としていくつかあげると、艦橋後部の煙 突に大きな改良が加えられた。マストの位置はそのままにして、大和で採用され た後方へと傾斜した煙突が、空母「隼鷹」から採用された高く外側に傾斜した煙 突に変更された。着艦時の煙の影響などを考慮した結果この方式になり、右舷に はみ出した分、高角砲が1門減らされ、スペースの空いた左舷側に1門増やされ ている。全てが初めての試みであったため、変則的な高角砲の配置になったが、 三番艦「上総」以降は改善され、より理想的な配置へとなった。 「周防」は建造の変更により、塔載予定だった45口径41cm砲から、開発され 50口径41cm新型砲へと変更された。これによって初速度は増し、射程も伸びた。 装甲の薄さから主砲による撃ち合いができないならば、一方的にこちらから打て ばよいというアウトレンジ戦法である。それは後に開発されたレーダー射撃装置 によって、より精度の増した射撃を可能とした。「周防」は大戦後期、「大和」 級はおろか、海軍でも有数の電子機器を塔載する艦となった。最新の電子機器を 装備するための余裕をもたせた、先を読んだ設計が功を奏するのである。 高角砲も、40口径12.7cm砲から強力な65口径10cm砲12基に変更され、対空兵装 のより一層充実が図られた。対空機銃は飛行甲板との兼ね合いで少々減った。 船体の大型化により最高速力は31.5ktと低下したが、航空戦艦となった「周防」 は基準排水量58,000t、全長265mと巨大な艦となった。 空母としての最大の能力である塔載機数も、常用30機と軽空母1隻分を誇る。 しかも補用機としてすぐに組み立てられるように工夫された予備機6機が塔載さ れていた。 飛行甲板に限界まで露天繋止すると、さらに20機前後を塔載できた。 山本GF長官の言った「1隻で2隻分の働き」を可能とした。 戦艦との撃ち合いには飛行甲板がネックとなるなどの難点などがあるが、それ らをぞけば優秀な「航空戦艦」となったのである。 「周防」級の戦歴について 「周防」は昭和18年11月という、起工からわずか3年という速さで竣工した。 2月まで乗組員の慣熟訓練を兼ね、南方方面への航空機の輸送任務に従事して いる。姉妹艦の「近江」は1月に竣工し、日本海で慣熟航行を行った。 4月の艦隊改変により、「周防」「近江」の2隻で第8航空戦隊を編成する。 この時点でわかるように、両艦は空母として扱われたのである。 第8航空戦隊は第一機動艦隊に編入され、「瑞鶴」「翔鶴」「加賀」「飛龍」 らとともに中核を成すと同時に、それらの護衛艦としての役割も担うのである。 「周防」の初陣はマリアナ沖海戦である。マリアナ諸島で日米両機動部隊が ぶつかった、本大戦最大の航空戦の一つと言われている。 日本軍は持ちうる空母戦力を全て投入し、米軍も太平洋に展開する全艦艇を 集結させていた。 6月19日、グアム西方で両軍は衝突した。 第一機動艦隊旗艦「瑞鶴」、「翔鶴」より艦爆、艦攻隊が出撃、その後方を 行く「加賀」「飛龍」から制空戦闘機隊が続いた。第8航空戦隊からは各艦か ら12機、合わせて24機の艦攻隊を出撃させ、残りの戦闘機は護衛空母「涼鷹」 の戦闘機隊と艦隊直掩に就いた。 北から進入してくる第二機動艦隊(旗艦「隼鷹」)の七隻の空母からも攻撃 隊が発艦し、第一、第二両艦隊合わせて500機の攻撃隊を出撃させたのである。 米軍も12隻の正規、軽空母から合わせて650機を出撃させていた。それも艦隊 防空に100機以上の余力を残してである。ただ、日本軍には足の長い陸上航空兵 力も他にあったので、最終的には五分に近い戦力となった。 そして両軍の機動部隊を、互いが放った猟犬が襲う。 日本側は、最新鋭の防空軽巡洋艦「空知」級を始めとする防空戦力で序盤は なんとか凌いでいたが、数に押されはじめ、まず第二機動艦隊旗艦「隼鷹」が 4発の爆弾で轟沈した他、同艦隊の軽空母「瑞鳳」、「龍鳳」も沈没、就役間 もない最新鋭空母「大鳳」が魚雷により中破した。 第一機動艦隊も被害は少なからぬものがあった。「飛龍」が爆弾3発を艦中 央甲板に集中して被弾し沈没した他、「翔鶴」も飛行甲板に爆弾を受け大破、 「加賀」機関部に被雷し大破、「瑞鶴」も至近弾を多数受けて中破している。 ここで第8航空戦隊の対空兵装が活躍した。対空戦闘時には、個艦単位より も戦隊単位の方が有効であるとの研究結果に基づき、「空知」級など防空軽巡 を指揮下におさめて米軍機を迎撃した。 あらかじめ戦闘区域を決めた弾幕射撃は効果を発揮し、一歩出遅れている近 接信管なしの射撃でも、多数の敵機を撃墜することに成功するのである。 特に松田千秋少将の指揮する戦艦「近江」は、苛烈な爆弾の雨を巧みにかわ し、一発の命中弾もなく35機を撃墜するという大戦果を上げている。 「周防」は、旗艦「瑞鶴」への魚雷攻撃に身を挺して守り、左舷中央部に2 発もの魚雷を受けている。しかし、戦闘速力を維持したまま何事もなかったよ うに「周防」は対空戦闘を続けたという。 日本側は4隻の空母を失い、2隻を大破、生き残った空母も何らかの損傷を 受けていた。直掩の戦闘機隊はどうにか7割を維持していたが、攻撃隊の帰還 数は250機を割っていた。 これに対して米軍側の被害は、空母「エセックス」を始めとした空母5隻撃 沈、3隻が大破し、特に「インディペンデンス」級軽空母は全滅だった。 6月19日の航空戦で互いの空母戦力は消耗しきったといってよい。米機動部 隊を率いていたスプルーアンス大将はこれ以上の空母による戦闘には消極的に なり、日本側残存艦隊との決戦には、無用の長物とはばかられていた戦艦部隊 を充てたのである。 そして19日深夜、戦艦部隊同士による砲撃戦が始まった。 「大和」を始めとする戦艦部隊が砲撃戦を開始している頃、深手を負った機 動艦隊は後方へと待避を開始していた。第二機動艦隊が北上しながら待避する のに対し、第一機動艦隊は一路トラック島に向けて退避を開始。 その途中、待ち伏せていた米重巡艦隊と遭遇戦闘に陥った。高速力の敵重巡 艦隊は多数の駆逐隊を率い突入してきた。 艦隊前面で露払いしていた「空知」と「綾瀬」が応戦するが、なかなか効果 が上がらず、押されつつあった。 ここで「周防」と「近江」の張子の虎、41cm砲の活躍の場がやってくる。 米艦隊は護衛に戦艦クラスがいることは確認できず、前日の空襲の航空艦隊 だとばかり考えていた。そこに41cm砲弾である。隊列を規則正しく進んでいた 米艦隊はクモの子を散らすように散開し、それぞれ別の方向に遁走を始めたの である。しかし、元は高速戦艦として設計された航空戦艦である。その足と主 砲の射程距離を活かし、逃げる敵艦を各個撃破した。命中弾を受け紙細工のよ うに海面から飛び上がる敵駆逐艦、船体を真っ二つに割られた巡洋艦など、突 入時に大小合わせ20隻を誇った米重巡艦隊は、30分の間に10隻が轟沈、6隻が 大破航行不能。わずかに生き残った艦隊は命からがら逃げおうした。 行きがけの駄賃とまではいかなかったが、本海戦で記録した圧倒的なワンサ イドゲームとなった。 米軍が日本海軍に「航空戦艦」が存在することを知るのは、大戦後期になっ てからであり、米国市民が知るのは大戦終結後のことである。 戦後、米海軍で航空戦艦の研究が進められたのは、「周防」に衝撃を受けた 米国民の声と、その世論を無視出来なくなった議会の後押しのためである。 その中で、失敗作と呼ばれ行き場もなく解体を待っていた「アラスカ」級に とって、航空大型巡洋艦に改装が決まったのはまさに幸運であろう。 不況の続く現代日本から見れば「リストラの星」である。 閑話休題。 明けて20日、昨夜の戦艦部隊同士の戦闘で日本側は戦艦「山城」「金剛」と 重巡を何隻か失ったものの、米軍の旧式戦艦を3隻撃沈、「アラバマ」と「マ サチューセッツ」をマリアナの深海に沈め、最新鋭の「アイオワ」級戦艦2隻 を半年のドック送りにしたのである。戦術的に、この夜戦は日本艦隊の勝利と なる。そして戦略的にも多大な犠牲を払ったマリアナ沖海戦により、中部太平 洋の制海権は完全に日本側の手中のものとなったのである。 これはひとえに、「大和」級戦艦と日本技術陣がやっとの思いで開発したレ ーダー射撃装置によるものである。 その後、ウェーキ沖海戦、マーシャル沖海戦、そして第二次ハワイ空襲を経 て、対米戦は一応の決着を見る。 大戦末期・戦後史 「周防」のその後 マーシャル沖海戦が終わった頃から、山本五十六GF長官を始めとする和平 派の活動が活発となり、ソ連と欧州で対立していたアメリカとの間に、和平に 向けて動きはじめた。昭和21年2月頃である。 そして昭和22年初頭に、海軍と米軍との間で停戦の密約が交わされた。 陸軍はアメリカとの講和条件である中国大陸と朝鮮半島からの撤退に断固反対 していた。山本長官は時の内閣である鈴木貫太郎内閣のアメリカとの講和を前 に、米軍との停戦を一方的に陸軍へと通知したのである。東条陸相はこれを不 服とし、陸軍は継戦を叫び続けた。 そしてこれが、日本国始まって以来の「三ヶ月戦争」と呼ばれる大規模内戦 へと向かうのである。 泥沼と化しつつあった内戦が終結し、昭和22年8月16日、その長かった戦争 にピリオドが打たれるのである。戦後、陸軍のような軍部の暴走を防ぐため、 陸海空軍はシビリアンコントロールの元に置かれた。 「周防」は姉妹艦「近江」「上総」「土佐」と共に昭和25年の朝鮮戦争にも 参加する。米機動部隊と並ぶその姿に、米海兵たちはサムライの勇ましさを感 じたという。 30年代に入り、レシプロ機からジェット機への変革は「周防」の航空戦艦た る所以をも揺るがしつつある。かつて甲板を埋めていた戦闘機群は今は博物館 でしかお目にかかれなくなり、その主砲の力を試す場はもはやどこにもない。 昭和33年に「周防」は第一次近代化改装を施し、スチームカタパルトを装備し 大型化する航空機に対処したが、それにも限界があった。 「大和」級戦艦のようにミサイル塔載戦艦にしたらどうか、という案もでた が、それでは費用が高くつきすぎ、新造した方が安上がりだという結論に達し て見送られた。太平洋戦争の傑作艦も行き場所を失い、ひっそりと舞台に幕を 降ろすかのように42年に退役、モスボール化された。 だが、再び舞台に上がる日はやってきた。 国会で新造空母の予算がつかず、その代替として当分の間、「周防」級で持 たせようということになったのである。 その飛行甲板はまだ健在であり、多少の改造を施せばまだまだ使えるとの判 断から昭和45年、現役に復帰した。 その際、飛行甲板をカタパルトからスキージャンプ台とし、大型化し過ぎた 航空機の塔載をあきらめ、S/VTOL機の塔載を決定したのである。 搭載機にはAV-8BハリアーUのライセンス生産、AV-8Jと対潜哨戒ヘリを塔載 した。使い勝手のよさが、現場ではなかなか好評のようだった。 フォークランド紛争により、ミサイルに対抗できるのは重装甲の戦艦だけで あると再認識されてから、ますますその活躍の場を広げた。 昭和60年に第三次近代化改装で第三砲塔を撤去し、飛行甲板後部と合わせて ミサイル垂直発射装置を装備した。同時に、巡航ミサイルも装備し、近代的な ミサイル戦艦となる。改装された「周防」級4隻は海軍内では「戦術航空戦艦」 と呼称され、再び機動部隊の中核を担うのである。 平成元年から新鋭原子力空母「信濃」級(二代目)が就役を開始し、「周防」 は機動部隊の中枢の座を譲りはしたが、それでも依然として海軍内において、 その存在を示威し続けていた。 「周防」級は最後の奉公である湾岸戦争に、多国籍艦隊として参加。 巡航ミサイルを発射するシーンは何度にも渡りお茶の間に流れ、その迫力を 見せ付けた。その後、1993年までに全艦が二度目の退役を迎えることとなる。 冷戦終結後の軍事プロセスの低下により、「周防」級が再び現役に復帰する ことはないだろう。 退役した「周防」と「近江」はその後、一部武装を撤去し、呉と佐世保でそ れぞれ一般開放されている。 「土佐」は神戸港に繋留されて博物館として改装中であったが、1995年の阪 神大震災の際に、被災した神戸市民の一時避難所として活用されている。広々 とした甲板の上で洗濯物を干し、駆け回って遊ぶ子供たちの姿を写した写真が、 その年のピュリッツァー賞・特別賞を受賞した。 戦艦と空母という相反する優美なフォルムは、退役した今なお多くのファン たちを魅了し続けている。 戦艦としては決して恵まれた半生ではなかったが、戦争を知る世代に愛され 続け、戦争を知らない世代にその時代というものを見せているのである。 どうしょうもない後書 「お前は今日から幸だ!」と友達に付けられた服部祐輔です。 今回もいかがだったでしょうか、「幸祐輔暴走劇場」は? 長い長い説明書きですみません。こんなけ書いて、言いたいことが書け ているような、書けていないような複雑な今日この頃です。 この航空戦艦は「涼鷹」の時に予告して、はや二ヶ月近くが経ちます。 画が描きあがったのは、「涼鷹」より後の、六月の中旬か終わりくらい だったと思います。長い説明書きを含めると、七月の頭には出来ていました。 しばらく忙しかったんで、ほったらかしていたんですが、ある日のこと。 とある書店(関東近隣の人なら文真堂を知っている人いるかな?)で戦記 物の単行本を発見したんです。 作者はその道では言わずと知れた著名な方。 本のタイトルは「鋼○の○章」(隠れてねー)。 そのカバーイラストに書かれていたフネにも同じような斜めの飛行甲板 があるじゃないですか!? こりゃていへんだと、おっとり刀で今回出させてもらいました。 多分、このイラストを見なかったらあと二ヶ月はほったらかされていた でしょう。 お世話になっている胃袋3分の1さんや、これを読んでくれている皆さん にこの場を借りて感謝申し上げます。 次は第5回の競争試作にも出させてもらえたら、と思います。 また。説明書きが長くなると思われますが‥‥‥。 後書も長いようなので、この辺りでおいとまさせていただきます。 それではまた逢う日まで‥‥‥。 KIK・S「25ans 〜頑張れWorking Girl〜」を聴きつつ 99/07/26 恐怖の大王いつ来るの? 服部祐輔 |