最終的に1921年のワシントン条約締結のきっかけとなる日米間の建艦競争は、きっかけや当時の
日米関係からして、後に「史上もっともばかばかしい軍拡競争」と呼ばれるにふさわしいものであった。
そもそも、事の始まりは弩級艦、超弩級艦時代の海軍戦略を研究していた日本海軍が、対アメリカ海軍
戦略の研究を始めたことにある。当時、戦略上は完全な敗北であった日露戦争を米英の政治的介入で引
き分けに近い形に持ち込めたことにより日本国内では新米英派が主流となっており、極東に置けるソ連
の南下を警戒していた米英も日本及びに中華民国を支援するなど日米間は比較的良好な関係を保ってい
た。それがどうして日本海軍による対米戦の研究が行われたかというと、理由は極めて単純に「他に敵
がいなかった」というものなのである。日露戦争において戦略的に勝利したロシア(ソ連)であるが、
勝利はあくまでも大陸での地上戦によるものであり、海戦では太平洋艦隊に加え、、増援としてわざわ
ざバルチック艦隊まで回航したにもかかわらず東シナ海海戦で壊滅的打撃を受けてしまっていた。しか
もその後、弩級艦時代に突入すると太平洋に生き残っていた戦艦も旧式化で戦力としてはとうてい数え
られず、新型戦艦も太平洋に回航されることはなかった(それどころか、ロシア革命での混乱の影響で
当時は弩級艦を含むほとんどの戦艦が稼働していなかった)。また、第1次大戦で敗北した結果として
海軍が保有していた全ての弩級艦を賠償艦として失っていたドイツも対象外、イギリスも日英同盟が存
在していたし、そもそも仮想敵として研究対象にするには地理的にいささか遠すぎた。かくして、単な
る軍事技術的な研究として日本海軍は対米戦の研究を開始することになる。
これに対して、アメリカの反応はいささか過激であった。単純な研究であったとはいえ、日本海軍に
仮想敵扱いされたのがよほど不愉快だったのか、国力に任せて日本海軍を圧倒する大艦隊の建造を計画
するのである。この事態に引きずられる形で日本海軍も本格的な大艦隊建造計画を練るようになり、こ
れが戦艦8隻、巡洋戦艦8隻からなる日本の「八八艦隊」と、戦艦10隻、巡洋戦艦6隻を主力とした
アメリカの「ダニエルズプラン」に発展する。
当然ながら、これは日米両国共に無意味な建艦競争であり、特に日本にとっては国力からしてもはや
不可能に近い計画になってしまっていたため、どうにかしてこの競争(というより馬鹿騒ぎ)を終わら
せる機会を求めていた。また、海軍大国であるイギリスも、日米の海軍増強に危機感を抱くようになり、
建艦競争を終わらせるために日米に働きかけることになる。イギリスの仲介という絶好の機会を得た日
米もこれに同意し、フランス、イタリアも参加してワシントン会議がもたれることとなったのだ。
ところが、日米英共に望んでいたはずの会議でまたも問題が発生する。会議が始まった時点で竣工し
ていない戦艦は廃棄することでまとまったのだが、日本海軍の建造していた「長門」級二番艦「陸奥」
が竣工しているかどうかを巡って会議が紛糾したのだ。そもそも、「長門」級は主砲として当時最大の
41センチ砲を搭載、防御力もジュットランド海戦の戦訓を生かして水平防御を強化しているなど強力
であり、速力に至っては巡洋戦艦に近い26.5ktの高速を誇るなどいった高性能艦であった。これ
に対して単艦として対抗可能な艦はほとんど存在せず、特にアメリカ戦艦は「長門」に対抗して40.
6センチ砲を搭載した「コロラド」級を含めてその低速から「長門」が戦闘を望めば離脱することが出
来ず、「長門」が戦闘を望まなければ追いつくのが不可能であるというどうしようもない状態におかれ
ていたのだ。この、「ナガト・ショック」は米英をはじめとする各国を震撼させる事となり、当然なが
ら米英は「陸奥」の竣工を認めず、むしろ「長門」の廃艦すらねらっていた。ここでアメリカは「条約
の規定、すなわち排水量35000t、主砲16インチ(40.6センチ)に違反している戦艦は竣工
しているかどうかに関わらず廃艦とする」という案を出す事で41センチ主砲を搭載している「長門」
廃艦を狙うが、これが墓穴を掘ることとなる。「長門」封じ込めで共同歩調をとっていたイギリスが排
水量40000tを越える「フッド」を保有している事を失念していたのだ。当然ながらイギリスは猛
反対。会議はまったく進まなくなってしまう。
最終的な決定として、「長門」「陸奥」「フッド」の保有を認める代わりに、イギリスは2隻の新戦
艦を建造、アメリカは既に竣工していた「メリーランド」を除く「コロラド」級を廃棄して2隻の新戦
艦を建造することで同意がまとまることとなった。かくして米英は対「長門」級ともいうべき高速戦艦
の建造を行うこととなる。
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