満州国海軍巡洋艦「飛星」


 昭和18年2月、東條大将と和解のした石原中将が現役復帰し、関東軍参謀長として新京に赴任した。
 彼が東條大将と和解、復帰し、関東軍に入った理由は一重に、彼のかねてからの目標であった満州国の独立を推進せんがためであった。
 しかし、この時点において既に関東軍の中枢は、満州国を日本の傀儡として運営する考えを持った軍人によって占められていた。
 彼はなんとかこの状況を打破出来ないかを探った。
 そんな中、ある事件が起こった。陸軍の演習視察中だった東條大将が爆発事故により重傷を負い、陸相、首相職を行うのが不可能となってしまったのである。 
 これを好機と捉えた石原中将は、自分を指示する将校達と共に策謀を展開。そして3ヶ月後、石原中将は大将昇進の上、関東軍総司令官となった。
 そしてこれ以後、石原改革と呼ばれる満州国に対する大規模な政治干渉を行った。
 五族平等策、関東軍縮小、中国との和平工作など、その内容は多岐にわたるが、その中で石原大将は、関東軍の軍備増強を積極的に行った。
 このころ、関東軍は縮小する前から大きく戦力を減らされており、このままでは満州国内の戦力が不足するのは目に見えていた。
 そこで石原大将は、満州国軍の兵力を2年のうちに倍近い40万まで増強させる政策を提案した。
 この提案に喜んだのは満州国政府で、反対したのは帝国陸軍であった。しかし、その事を議論した会議の席上石原は以下の一言で反論を説き伏せた。
 「じゃあなにか、味方が増えるのが嫌だと言うことか?それとも満州国を信じる事は出来ぬというのか?」
 結局、この政策は断行された。
 
 その中で、海軍も増強されることとなった。しかも、本格的な航洋能力を備えた。
 これには理由があった。
 この時期、旅順・大連〜九州間の航路は、大慶油田からの石油や、満州産の穀物を運ぶ重要な航路であった。
 この航路を守っていたのは帝国海軍であるが、それだけでは戦力的に不足しているのが目立ってきた。
 そこで、満州国海軍を整備し、その任務に充てようとしたのだ。
 ちょうどこの頃、満州国の日本の租借地旅順にある造船所では、護衛駆逐艦や海防艦の建造が行われていたため、石原大将はこの内の数隻を回せないかと海軍に駄目元で頼んだ。しかし結果は、松型護衛駆逐艦2隻、海防艦4隻。そして練習用として旧式となったニ等駆逐艦2隻の供与と、駆逐艦「海威」の返却。さらに拿捕していた中国海軍の巡洋艦2隻の供与であった。
 なぜこのような事になったのか。
 実はちょうどこのころ、帝国海軍も人材不足が目立ち始めていた。それなのに、護衛戦力の拡充が急務であった。そこへ、その一部を請け負ってくれると言う話しが飛び込んだのであるから、これを使わない手はない。それがこの結果となった。
 
 そして、話は満州国に供与された2隻の元中国巡洋艦に飛ぶ。
 この2隻、元は「ニンハイ」型の軽巡で、艦体は小さく、速力も低い小型の海防戦艦に近い艦であった。
 帝国海軍は、この艦を「五十島」「八十島」と名づけ、本土の造船所において徹底的に改装した。
 まず全長を若干延長し、加えて機関を強化、燃料タンクも増設し航続力の向上を図った。
 この改装により、約500tの排水量増加となったが、速力は4ノット近く向上し、さらに外洋航行能力も高まった。
 また武装面においても、中国時代は2種類積んでいた対空砲を、日本製の8cm砲に統一し、さらに25mm機関銃も取りつけられた。
 さらに、艦橋を小型化し復元性を高め、電探、無線能力を強化した。
 こうして改装を終えた2隻であったが、結局帝国海軍の艦としては在籍することなく、そのまま旅順に回航のうえ満州国海軍に引き渡された。そして、それぞれ「飛星」「紅星」と改名され、新編成の満州国海軍黄海方面艦隊に配属され、「飛星」には、亡命してきた元南京政府海軍少将鳳湖峰長官座乗の旗艦となった。
 「飛星」級性能
 全長112m  排水量3110t 
 速力26,5ノット 航続力15ノットで3000海里
 武装 14cm砲6門 
    8cm高角砲4門
    25mm機関銃12門
    53,3mm魚雷発射管4門
    爆雷20個
 戦歴
 「飛星」 昭和19年初めまで習熟訓練後実戦参加。通商路護衛任務を行い、昭和20年4月、日本海軍の要請で沖縄に上陸した米艦隊を奇襲、「紅星」と協力しクリーブランド級軽巡1撃沈、駆逐艦2撃沈、1大破の戦果を挙げる。
 終戦まで健在。その後、昭和35年まで現役。
 「紅星」 沖縄戦まではほぼ「飛星」と同じ、沖縄戦からの帰還途中被雷1、大破。何とか旅順まで辿りついたが、その後のB29の空襲で沈没。