タイ王国海軍 巡洋艦
  ラトチャカーン・ティーヌン  ラトチャカーン・テイーヌン


 従来のタク・シン型軽巡では排水量の限界からフランスの新鋭軽巡ラ・ガリソニエール型に比しては劣勢は否めず、軽空母<クリーアト>の運用実績やサタヒップ軍港の拡充で大型艦運用の目処がついたなどから、1930年代初頭より行なっていた海軍建設の仕上げとしてタイ王国が日本で建造した大型巡洋艦。

 本型はフランスの大型軽巡だけでなく、アメリカやイギリスが東南アジアに配備している条約型巡洋艦にも優越する事を目的としており、完成の暁には東南アジア海域における最強の艦艇(日本は別格)となる予定でした。
 兵装、速力、航続距離など各面で日本の重巡に比べてやや劣っていますが、無理の無い設計で防御や安定性などの面で優れていたと言われています。日本設計艦として珍しい事に米重巡のような航空機格納庫が後部にあるのが外見上の特徴です。

 タイ海軍の期待の星として工事が進められましたが、日米関係がいよいよ切羽詰まってくると工事に遅延が目立ちはじめます。
 日本海軍による買収なども考慮されましたが、なんとしても完成させたいタイは艤装未了のまま受領し、シンガポールに移して工事を続行、資材の不足などに苦しみながらも昭和18年7月に工事を完了します。

 竣工後、ただちにタイ艦隊に編入されますが、タイ海軍が担当していたインド洋の通商破壊や南方航路の護衛には艦型が大きすぎ、単独で作戦を行なうにはタイ海軍の戦力が過小と帯に短し襷に長しの状態でいまひとつ活躍できずにいました。

 昭和19年、開戦前から構想されていたものの、各軍や部署の調整に手間取り続けていた「日泰満連合艦隊」構想がついに実現しますが、時すでに遅く、戦争の趨勢は明かになりつつありました。
 昭和19年10月17日、連合軍のフィリピン上陸を受けて「日泰満連合艦隊」最初で最後の作戦となった捷一号作戦が発動、<ラトチャカーン・ティーヌン>は<タク・シン><ナレスアン>と共に第一遊撃艦隊に加わりレイテ湾を目指します。
 しかし、10月23日、パラワン水道で米潜ダーターの待ち伏せ雷撃を受け魚雷2本が命中して中破。同じくダーターの雷撃で損傷した<高雄>と共に艦隊を離脱してブルネイに引き返す事になり、ブルネイで応急修理後はサタヒップに回航されますが修理と平行して防空砲台として使用された為、損傷に修理が追いつかず、そのまま同地で終戦を迎え、戦後は自沈処分となりました。

 余談ですが、戦後に発表されたある架空戦記では、パラワン水道で本艦の代わりに日本艦隊の旗艦の<愛宕>が雷撃を受け、沈没した為に艦隊司令官が精彩を欠く指揮しかとれず、レイテ湾に突入する事無く大敗したというものがあります。


ラトチャカーン・ティーヌン Rhama-I 造船所摂津重工志摩造船所/海軍第101工作部 昭和14年起工、途中一時工事途絶、昭和17年8月第101工作部にて工事再開、昭和18年7月竣工、終戦時はサタヒップに所在。昭和21年自沈処分。

 
要  目  (新造時)
基準排水量14200トン
全長180.6m
18.2m
平均吃水6.2m
主機艦本式ギヤードタービン 4基 4軸
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専燃) 8基
出力130000馬力
速力30ノット
航続距離18ノットで6000浬
兵装20.3センチ単装砲 4基
8センチ単装高角砲 12基
25ミリ三連装機銃 12基
61センチ四連装魚雷発射管 2基(次発装填装置)
搭載機水上偵察機5機[露天配置含む] (射出機2基)
 ※実際は一部の装備はイギリスからの鹵獲品で代用した為、上記と異なっていた可能性が高い