要目等
全長 44メートル
全幅 8.2メートル
基準排水量 300トン
戦車搭載数 6両
速力 14ノット
機関 ディーゼル・エレクトリック前後2軸
乗員 35名
武装 M2 50口径重機関銃×1
(九六式25ミリ単装機銃×4)
( 〃 25ミリ連装機銃×1)の搭載が可能
50センチ探照灯×2
建造数 4
略歴
1930年に採用した軽戦車は、浮航キットの搭載によってある程度島嶼間の移動
を想定していた。
イブクーロ王国を構成する島嶼は環礁に囲まれており、波は静かなのでこの程度で
充分と考えられたのだが、やはり実際に就役してみると様々な不具合が生じてきて、
時には沈没する戦車まで現れたため、やはり戦車の輸送を想定した船舶の建造を迫ら
れたのである。
このころ、すでに環礁内には浮きドックや大型工作施設などを束ねた海軍工廠が半
分ほど完成し、稼働を始めていたため、小型戦闘艦艇の大量建造演習にも絡めて、と
りあえず6隻の建造が決定し、陸海軍間で仕様の折衝が行われた。
海軍としては環礁内外での哨戒・警備活動にも使えるようにある程度の外洋航行性
能や武装を求めて通常船舶型を求め、対して陸軍は戦車の輸送が第一義であるとして、
環礁内での部隊移動に有利なLST型の採用を求めた。
そもそも真っ向から異なる仕様を求める両軍の折衝は当然平行線をたどり、数次に
及んだものの結論はでなかった。特に第五回・第六回の折衝は双方の若手担当者がつ
かみ合いを演じるほど荒れたといわれている。
両軍は躍起になってこれを否定しているが、会議の行われた陸軍司令部内の医務室
来室記録に10人に及ぶ陸海軍技術・運用担当者の名前が列挙されていることは事実
である。
さて。
第七回折衝も激しく荒れ、衛兵が飛び込んで両者を引き分けるという自体に陥った。
このとき、陸軍側の書いた輸送艇のスケッチと、海軍側の書いた略図面がそれぞれ
半分ずつにちぎれ、前半分どうしが重なった状態で海軍艦艇設計部のトネーリ技術中
尉の目の前に舞い降りたのである。
「これだ!」
中尉は叫んだ。彼は即座に鼻汁で(彼は日常的な鼻炎で苦しんでいた)二枚を張り
合わせ、両軍の責任者の前に提示した。
艇体の後部にランプをもうけ、全部は通常の舟形として航行性能を確保する。
戦車を砂浜にあげるときはバックして乗り上げればいい。
「トネーリよ」
艦艇設計部長はあきれ顔でこういった。
「お前、まさかスクリューを牽引式に配置するつもりじゃなかろうな」
そう、後進で砂浜に乗り上げれば、スクリューや舵が破損してしまう可能性がある
のだ。トネーリ中尉は苦し紛れに書いたのが図1である。
だが、この自棄とも取れる図面をみて、部長は固まってしまった。いける! これ
ならいける!
トネーリ中尉は後に小型艦艇設計の奇才と呼ばれるようになるが、その成果のほと
んどはこのようにその場しのぎで生み出された物であるという・・・・・・それはと
もあれ。
図1
図2
図1を見て貰えばわかるように、この艇は両舷に巨大な筒を装着している。
筒の前後にはスクリューと舵がもうけられているが、舵は通常船体側に密着してい
る。筒の外側には、梶を切った際に水流が流れ出すためのノズルがもうけられており、
転舵は舵と、戦車の用に左右の推進力の調整の両方を同時に行うことによって方位を
変更する。(図2)
さらに、このシステムは真横に移動したり、戦車で言う超信地旋回のようなことも
できるのであり、離着岸時にタグボートなどの支援を受ける必要もない。また、筒後
方には砂浜への乗り上げを前提にしているため、内部へ入り込んだ砂などを排出する
ための切り欠きももうけられている。
この特異な推進機構のため、ディーゼル・エレクトリック駆動を採用した。2基の
ディーゼルエンジンはドイツ製、発電器・蓄電池及び駆動用モーターはアメリカ製の
ライセンス生産が決定した。
全国産化も検討されたものの、技術力及ばずとして諦められた。
スクリューは停止させた際に水流を乱さない用、ペラのピッチを変更できるものが
新たに設計された。推進効率は若干犠牲になるが、安全な操艦のために必要不可欠で
あった。
船体構造は、トネーリ中尉のその場しのぎのままに、前方は通常の船舶と同じ形、
後部は引き上げ式ランプを備えた戦車輸送艇型となっている。
もちろん、後進して砂浜に乗り上げ、ランプを降ろして戦車を揚陸する。ランプは、
将来の戦車の大型化を想定して幅の広いものとなった。
ランプでの搭載・揚陸を想定しているためデリックなどはついていないほか、後部
構造物は陸兵の居住区に当てられており、約100人程度を収容できるというが、そ
んなに詰め込んだら居住環境はどうなるのであろうか。実際は50人程度が限界とい
われる。
独自離岸が困難になた場合のために艇首に牽引用のフックも備えられた。
当初は小型の揚陸艇(日本から購入して使っていた大発動艇)を搭載することも考
えられたが、強襲上陸を目的とした船ではないとして却下された。
また、海軍が要求した哨戒艇としての用途を満足させるため、ヴィッカーズ40ミ
リ単装機銃を後部構造物上に、露天艦橋の上に1.5メートル測距儀を搭載する予定
だった。しかしライセンスの取得に手間取り、1号〜4号艇は砲座のみで砲を備え付
けない状態で建造されることとなった。(後日装備を予定)
また、国産の測距儀は生産に手間取り、こちらも後日装備ということで先送りされ
た。
艦橋前方に12.7ミリ機銃を一丁据え付けた他、数カ所に機銃を装備するスペー
スをもうけ、有事の際迅速に搭載できるようになっている。
さて、かくのごとく多大な期待をかけられて誕生した一号型戦車輸送艇は、とりあ
えず最初の四隻が33年中に全て起工された。
比較的小型であり、機関・駆動系などは事前に購入し到着を待って起工したため工
事は順調に進んだ。
一号艇から三号艇は同年中に完成、四号艇は艇首の12.7ミリ機銃をスイス製の
20ミリ機銃(エリコンFFS)へと換装して翌年初頭に完成した。
直ちに公試に入ったが、そこで幾つもの問題が浮上してきた。
まずは斬新すぎる駆動系の問題である。
王国海軍は今までに小型船舶でディーゼルエンジンを運用した経験があるとはいえ、
それはあくまで漁船に毛の生えた程度の哨戒艇であった。輸送艇に搭載されたディー
ゼルは、もとからどこかおかしかったのか故障が頻発し各艇の機関長を悩ませること
になる。
意外な事にモーターや電気駆動系にはほとんど問題は生じなかった。
第二には、吹きさらしの露天艦橋が不評だったことがある。
王国海軍の駆逐艦はすべて日本式で、屋根と風防ガラスのついた艦橋を採用してい
た。輸送艇は速力が遅いということもあって不要とされたものの、結局は風防ガラス
を後からとりつけ、雨天時には天幕を張れるように測距儀台などを改装した。
最大の問題は、しかしもっとも根本的な所にあった。
一号艇が戦車を満載すると尻が沈んでしまったのである。これにあわてて、建造中
の三号・四号艇は重量バランスを変更してみたものの、今度は未搭載時には尻が持ち
上がり、甚だしく危険な状態となった。
本艇は戦車搭載時・未搭載時でそれぞれ別々の役割を担わされており、この問題は
非常に重視されるべきであった。
結局、艦橋構造物前方の兵員居住区とその下層にある戦車用燃料漕をつぶし、戦車
を搭載するさいにはここにバラストを封入することとなった。迅速な戦車の発着は不
可能となったのであった。
これら対策後の本型艦首部を図3に示す。
ともあれ4隻の輸送艇は第一戦車輸送隊に配属された。
第一戦車輸送隊は戦車輸送隊と第三○八哨戒艇隊の二つの部隊を隷下に抱えており、
四隻の輸送艇は必要に応じてこの司令部しか持たない二隊の間を移動し、任務に就く。
あれやこれやと問題を抱えながら、四隻の輸送艇はそれなりに任務を果たした。
それにある程度の満足を得た海軍は、延期していた残り二隻を別設計の船として建
造することを決めた。
一回り拡大した450トン型で、戦車搭載時の傾斜に対処するために注排水設備を
搭載している。
つまり艇首の空間に必要に応じて海水を注入・排出することで戦車の搭載を容易に
しようというのである。
また、王国海軍は哨戒艇や水雷艇を統轄運用するために小型の巡洋艦の建造を予定
しており、ついでに戦車輸送任務の指揮も行えるようこの巡洋艦の設計を若干変更し
た。
両者とも設計案はすぐにまとまり、37年に建造に入ろうとした矢先に邪魔が入っ
た。
アメリカが、胃国軍が水陸両用戦能力を持つことを恐れ巡洋艦ならびに五号・六号
艇の建造を中止するよう圧力をかけてきたのであった。
当時緊張を高めつつあった日米関係は、イブクーロ王国にも影を落としつつあった。
両国とも友好関係を保っている胃国は確かに気になる存在であったためであろう。
結局、政府はアメリカの介入に屈しこれらの建造を中止した。
4隻の輸送艇はそれからも長く島嶼間の輸送や連絡に使用された。
ヴィッカーズ40ミリ機銃のライセンス取得は結局失敗し、日本から九六式25ミ
リ機銃のライセンスを獲得してこれを生産、搭載することとして、同時に測距儀も日
本から購入した。(後部構造物上に連装機銃を1基)
また、エリコン20ミリを搭載していた4号艇はこれを機会に25ミリへと換装し
た。
39年には有事を想定した武装搭載演習を実施し、よい結果を得た。
このときは、後部構造物上と艇尾作業甲板の両舷に25ミリ単装機銃を1基ずつ搭
載したが、それと平行して砲の搭載も研究が進んでいる。
1940年、第一戦車輸送隊は解体され、第三○八あらため第十七哨戒艇隊が戦車
輸送任務を兼任することになり、現在へ至る。
(1940年8月)
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