シャム(タイ)王国海軍 巡洋艦
  タク・シン型     タク・シン


 1936年に発生した仏印との小競り合いで新鋭海防艦<トンブリ>をフランスの軽巡<プリモゲ>に一蹴されてしまったシャム王国(1939年にタイ王国に国名変更)が一新した海軍建設計画の一環として日本で建造した軽巡洋艦。

 フランスがアジアに配備している軽巡に対抗する事を目的に計画されており、極端な重武装艦であった<トンブリ>があっけなく沈められた反省を基にバランスの取れた巡洋艦を目指したのですが、予算や設備の関係から排水量を5000トン(後に計画変更で100トン増加)に制限され、対して当時アジアに配備されていたデュゲイ・トルーアン型は軽巡といっても7000トン超の大型艦で、目的決定の時点ですでに重武装に過ぎることが確定しており、いかにコンパクトに纏めるかを主眼に設計されました。

 かつての<夕張>と同じく、基本思想をコンパクトな巡洋艦ではなく巨大な駆逐艦としており、船体などは駆逐艦をそのまま拡大したような形となっていて防禦もごく軽いものが施されているだけで速度と後続距離も巡洋艦としては少なく、それらを全て武装に注力した形となっています。
 主砲は14センチ連装砲4基。トルーアン型は15.5センチ砲ですから破壊力で劣るのですが、日本海軍が14センチ砲を採用したのと同じ理由の他、トルーアン型は装甲が弱く問題は無いとの判断がありました。
 雷装は4連装発射管2基を中心線上に配置。3連装を両舷2基づつのトルーアン型に比して雷数で不利となりましたが、日本海軍が機密兵器である次発装填装置の搭載を認め、さらに61センチ魚雷(流石に酸素魚雷ではない)も許した為、かなりトルーアン型に対して優越となりました。

 本型は<タク・シン>と<ナレスアン>の2隻が建造され、さらにあと1隻が計画されていましたが、こちらは計画が大変更され、重巡として建造される事になります。

 引渡し後、フランスとの間に発生したシャム湾海戦ではタイ艦隊の主力として参加。練度の低さを勇気で補おうとした例は海戦史上に多々ありますが成功した例は少なく、この戦いはその例外の一つとして広く知られる事になります。
 タイ艦隊はフランス艦隊に比べ艦の大きさでは劣るものの小艦艇や飛行機が多い事から浅瀬と小島の多いシャム湾での決戦を試み、フランス艦隊の誘引に成功します。
 2隻は練度の低さによる命中率の低下を距離を詰める事で解決しようと肉薄砲雷戦を挑みます。なかでも<ナレスアン>は重巡<コルベール>の20センチ砲弾が艦橋をなぎ倒した後も各部署が独自に攻撃行動を続行、指揮官不在のまま戦闘を継続して海防艦<スリ・アユデア>と協同して<コルベール>の撃沈に成功しました。
 結局、海戦はタイ側の完全勝利(実際はタイ側も潰滅に近い損害が出ているのですが、フランス側は文字通り「全滅」した為、タイの完全勝利として知られています)に終わり、欧米諸国に大きな衝撃を与えることになります。

 日米開戦後、タイも参戦。日本艦隊と協同してスラバヤ沖海戦などに参加、その後もインド方面を扼したり南方相互航路の護衛に加わったりと縦横の活躍をみせ、昭和19年に実施された「日泰満連合艦隊」の最初で最後の作戦となった捷一号作戦でも主隊として参加、旗艦<ラトチャカーン・ティーヌン>が雷撃で落伍した後は<タク・シン>がタイ艦隊旗艦となりサマール沖海戦などに参加、米軍の反撃で<ナレスアン>を失ったもののレイテの連合軍に大ダメージを与える事に成功しました。
 しかし、その後は満足な活躍の機会が与えられないまま活動の場を狭められてゆき、<タク・シン>もかつての栄光の地であるシャム湾で被雷、なんとか沈没は免れてサタヒップ基地に曳航されたものの、そのまま終戦を迎えました。


タク・シン Tak=Sin 造船所摂津重工志摩造船所。昭和14年1月竣工。終戦時は航行不能状態でサタヒップに所在。戦後解体。

ナレスアン Naresuan 造船所摂津重工大阪造船所(進水までは大阪鉄工所桜島工場)。昭和14年8月竣工。昭和19年10月27日フィリピン沖で米機動部隊の攻撃を受けて沈没。

 
要  目  (新造時)
基準排水量5100トン
全長155.0m
13.5m
平均吃水5.1m
主機艦本式ギヤードタービン 4基4軸
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専燃) 6基
出力65000馬力
速力30ノット
航続距離18ノットで4000浬
兵装14センチ連装砲 4基
8センチ単装高角砲 4基
40ミリ単装機銃 6基
61センチ4連装魚雷発射管 2基
(後部発射管のみ次発装填装置付き)