
諸元 全長 : 10.20m 全幅 : 14.00m 自重 : 5,800kg 全備重量 : 8,300kg 乗員 : 1名 発動機 : P&W R-2800-57 空冷星型複列18気筒 離昇出力2,100hp(緊急出力2,800hp)×2 最大速力 : 798km/h 海面上昇率 : 1,841m/min 航続距離 : 1,600km(標準) 3,200km(大型増槽使用時) 武装 : 12.7mm機銃×4(機首) 20mm機関砲×2(両翼付根) 搭載量 : 最大4,000ポンド 2,000ポンド爆弾または魚雷×1(主胴体下) 1,000ポンド爆弾×2(内翼下) 5inHVARまたは250ポンド爆弾×6(外翼下) 1945年5月8日、ドイツの降伏により欧州における第2次世界大戦は事実上の 終結を告げた。そしてこの後、連合各国による、ドイツの先進技術の争奪戦が 繰り広げられた。この中に、航空機の後退翼理論があった。 後退翼理論自体は1935年、ドイツのブーゼマンによって発表されていたが、 本格的に研究を行なって、実用化に成功していたのはドイツのみであった。 当時、グラマン社では、FTBF「ストレイキャット」の改良を続けていた。 一方でグラマン社内における「ストレイキャット」のライバル、F7F「タイ ガーキャット」が部隊配備されつつあった。時間をかけて設計/試験を行なっ た「タイガーキャット」は「ストレイキャット」と同様の性格の機体で、性能 面で「ストレイキャット」を上回っていた。「ストレイキャット」が「タイガ ーキャット」に対し有利な点といえば、機体が比較的、小型/軽量であるぐら いであった。「ストレイキャット」開発陣はこの利点を生かすために、速力、 あるいは運動性の向上を図り、「タイガーキャット」に対抗しようと考えたの であった。ドイツの後退翼理論がもたらされたのはそんな時期であった。 後退翼理論を、単に「高速発揮に適した翼形」と勘違いした「ストレイキャ ット」開発陣は、「ストレイキャット」に後退翼を装備し、速力の向上を図る 事を決定した。後退翼の装備に合わせてエンジンナセルの形状が変更され、空 気抵抗の減少が図られ、発動機はP&W R-2800-57に変更された。 結論をいえば、「ストレイキャット」は大幅な速力向上に成功した。だがこ の成功は後退翼装備の影響というよりも、低抵抗形状のエンジンナセルと、大 馬力発動機のおかげであるといって良い。 しかし、後退翼の装備は別の効果を「ストレイキャット」に与えた。 臨界マッハ数に達していないものの、高速域では主翼表面の気流の乱れは大 きくなる。後退翼の装備で、この高速域における翼表面の気流の乱れが小さく 抑えられたのである。この結果、後退翼装備型「ストレイキャット」は、高速 域での運動性が大幅に向上したのである。 もうひとつの効果はダイブ速力限界の向上である。 後退翼装備による臨界マッハ数が高くなることで、ダイブの限界速度が向上 したのだった。これによって、初期型のジェット機程度であればダイブで容易 に振り切る事が出来るようになったのである。 一方で後退翼装備は当然のように悪影響ももたらした。 後退翼の装備は着陸速度を大きくする。本来、艦載機である「ストレイキャ ット」にとって、これは着艦性能の悪化を意味した。 このため後退翼装備型「ストレイキャット」は少なくとも「エセックス」級 の大きさをもつ大型空母でなければ運用できなくなっている。 後退翼装備型「ストレイキャット」は機体構造が大きく変更されたことから 海軍からは「ストレイキャット」とは別の機体として扱われることとなり、19 46年夏、FTB2F「ストレイキャットU」として制式採用されることとなっ た。当然のことながら、すでに第2次世界大戦は終結しており、「ストレイキ ャットU」はその活躍場所を失っていた。 一部の機体は朝鮮戦争に参加し、ジェット機に対抗可能な数少ないレシプロ 機として名を馳せることになった。レシプロゆえの高い加速力と後退翼装備に よる、高い高速域運動性を生かしてかろうじて対抗可能といった程度のもので、 その実態は他のレシプロ機に比べればマシ、という程度のものであった。 しかしながら、レシプロ機としては、限界に近い性能を発揮しており、戦後 のエアレースでは常に上位に食い込む活躍を見せている。 |