中島 十六試単座戦闘機

十六試単戦

 昭和16年12月、日本はついに米英への宣戦布告の道を選んだ。太平洋戦争の開始である。
 日本海軍は、零式艦上戦闘機の戦闘力に満足すべきものを感じ、しばらくはこの機体で対戦闘機戦闘を優位にこなせるであろうという感触を持っていた。しかしさすがに、4、5年先までこの優位が続くとは考えていなかった。
 開発/計画中の戦闘機もあったが、三菱のJ2にはまだ時間がかかりそうであり、川西の水戦改造機も、陸上戦闘機の経験のない川西の機体であるため、その完成度は未知数であった。しかもこの2機種は局地戦闘機であったので、対戦闘機戦闘用の機体の今後には不安があった。
 前年、三菱に対して次期艦上戦闘機の試作を打診してみたものの、多忙を理由に辞退されていた。来年度に再度打診する方向ではあったが、零戦、J2、中攻の開発/生産は未だ続いており、今度は辞退されないという保証はどこにもなかった。
 そこで、他のメーカーに打診する方針を立てたが、海軍戦闘機という機種に経験があるメーカーは、他には中島飛行機しかなかった。しかし、中島も九七艦攻、零戦の量産と、次期艦攻や大攻の開発を抱え同じく多忙であった。しかしながら海軍は、零戦の活躍ぶりに満足していたせいもあり、3年以内に量産に移行できれば良いという考えで、またあくまで保険であるという考えから、九六艦戦の時と同じように、用途を限定しないうえ、試作機完成も昭和18年前半までにという大判振る舞いで、中島に対し戦闘機の開発を打診することにした。
 このころ、中島飛行機で小直径ながら2000馬力を目指している18気筒エンジンが公式審査を完了し、実機搭載試験を開始していた。海軍はこのエンジンに大きな期待を寄せ、今後しばらくの新規開発機にはこのエンジンを使う腹づもりでいた。そのため、この機体にはその経緯からこのエンジンは使うわけにはいかなかった。
 そこで、中島製18気筒エンジンより前に開発の始まっていた、火星のシリンダを利用した三菱製18気筒エンジンに白羽の矢を立てた。このエンジンも2000馬力を狙っており、出力的には遜色がなかった。このエンジンは、本来は爆撃機用に計画されたものであるため大きく重く、艦攻ならいざしらず、およそ戦闘機向きではなかった。三菱ではより小型の18気筒エンジンも計画されてはいたが、時期的にこちらは間に合いそうもなかったので、海軍は中島に対しこのエンジンを使用するよう要請した。
 中島は待っていた。戦闘機が作りたかった。戦闘機の老舗は「中島飛行機」であるという自負があった。そのため、海軍の目論見とは逆に二つ返事でこの申し出を快諾した。エンジンに三菱製を指定されていようと、そんなことはどうでもよかった。また「中島の戦闘機」が造れるのであるから。
 まず、仕様決定のために数ヶ月をかけての検討が海軍と中島の間で行われた。この会議の席における中島の熱心さに海軍は驚嘆した。また、すでにいくつかの戦闘機設計案が用意されており、会議は実にスムーズに進んだ。中島はいつかまた戦闘機を造る日が来ることを確信し準備を怠っていなかったのである。
 三菱とはまた違う中島の戦闘機設計理論に海軍はとまどいも持ったが、その内容は納得できるものでもあった。その結果決定された要求仕様は以下の通りであった。
1.最大速度660km/h
2.上昇力6000mまで6分以内
3.武装20機銃×4
4.航続力1600km、増槽使用時2400km

 中島の理論は、機体を極力小型軽量化し高翼面荷重を採用して各舵の効きをよくするともに、大排気量の高出力エンジンを利用してダッシュ性能の良い機体にまとめ上げる。要するに、旋回性能は劣ってもそれを補って余りある機動性の高さで勝負するというものであった。この構想は前々からあったものの、今までは軍側のガチガチの要求仕様から実現できないでいたものであった。つまりは、この試作は中島側にとっても多分に実験的性格のものであったが、中島には強い確信があった。
 中島は強い熱意と情熱でこの試作にあたった。また、事前に用意されていた設計でもあったため、試作は驚くべきスピードで進み、昭和17年11月28日には早くも試作1号機の完成にこぎつけた。
 初飛行の操縦桿を握ったテストパイロットは驚愕した。安定性が劣悪でまっすぐ飛ぶことすら難しかったからである。しかも、ならしが終わって急なスロットル操作ができるようになると、その強烈なトルクゆえの操縦桿のとられに再び驚愕した。そして、急機動のテストを行う段になって三たび驚愕した。操舵に対して機体が驚異的に過敏に反応し、押さえるのに一苦労だったのである。当然、パイロットは設計側にこれらの改修を強く要求したが、設計側の主務者、重鎮・森重信技師は断固としてこれを拒否した。曰く「これはそのような戦闘機なのだ!海軍パイロットが言うなら考えよう!」と。
 しかし、海軍に領収されてから操縦桿を握った歴戦の強者パイロットは即座にその素性を見抜いた。確かにじゃじゃ馬だがその素性を知り、その性格を生かす操縦をするなら、これは戦慄の戦闘機だ、と。
 この言葉を裏付けるように、この素性を知り抜いたパイロットが操ったこの機体は、零戦との模擬空戦において、相手を全く問題とせず常に圧勝を納めた。後方に占位された場合は驚異的なダッシュ力と上昇率を利してあっという間に零戦を振り切り、巴戦に持ち込まれたときには抜群の横転性能と降下性能で零戦を置き去りにし、高位をとられても高速でも変わらない急機動で瞬く間に零戦と別の空間へ移動した。
 逆に攻撃側に移ったときも同様で、後方を占位された零戦はどんなこをしてもこの機体を振り切ることができなかった。唯一、低速での急旋回で内側に回り込むことができたが、そのときは敵に横転からの降下で置き去りにされるだけであった。
 しかしながら、あまりに劣悪なその安定性には海軍パイロットもさすがに異論を唱え、上反角の増加と垂直尾翼の上方への増積が行われた。そのため機動性はやや低下したが、それでも、どの海軍機もまったく追随できないという点では同じであった。

 これらの改修にやや手間取り、実戦デビューは昭和19年後半となった。ベテランパイロットにより操られたデビュー戦では、5機で7機のF6Fを瞬く間に全機撃墜、米海軍に深刻なショックを与えた。
 しかし、そんな腕を持ったパイロットなど日本海軍にはほとんど残っていなかったのである。極端に操縦の難しいこの機体は、初心者パイロットにはただのお荷物でしかなく、うまく乗りこなせずに戦闘や事故で失われる機体が続出した。また、高い着陸速度に起因する事故も頻発した。彼らは零戦の方に好んで搭乗したのであった。
 それでも、この機体を乗りこなせる腕を持ったパイロットにかかれば戦慄の戦闘機で、緒戦期の零戦伝説に匹敵する伝説を残したのであった。

諸元
全幅  10.4m
全長   9.2m
自重  2460kg
全備重量3720kg
エンジン ハ42−21 空冷星型18気筒 1900馬力
最大速度 653km/h/6200m
上昇時間 6000mまで5分48秒
航続距離 1520km(増槽使用時2230km)
武装 九九式二号四型機銃×4


胃袋3分の1からのコメント:
 設定を考えて欲しいとのことで投稿いだきましたので、私が考えてみました。つまり、上記の文章はすべて胃袋3分の1の仕業です(笑)
 ただし、打ち込む時間も含めて2時間で考えた設定ですので、考慮が足りてないかもしれません。ごかんべんを(笑)
 しかも、私の中島フリークぶりが前面に出て、いいことばっか書いてますね(^^;;;;;
 画像の方はただもう、「かっちよいい」の一言ですね〜!ステキです。
 これからも期待しています(笑)
 最後に。もちろんこれはフィクションですから、文中の登場人物等は実在のものと何ら関係はありませんです。