この写真を見てほしい。フィンランド空軍ではBf109だけでなくハインケル
「He100D-1?」も使用していたのか。確かに輸出用戦闘機としてルーマニア、ハンガ
リー、スペイン、ソ連、日本などに少数機売却されているが。しかし細部はかなり異
なっている。主脚のフェアリング、胴体下の冷却器形状などHe100D-1よりもキ61に似
ている。キ61が日本以外で使用された例としては、中国共産党で1945年9月に北平の
ナンユアン飛行場で撮影された写真で確認できる。しかしこのフィンランド機は風防
が角張っている。増加試作13号機なのか(これは風防形状の第2案としてBf109方式
にしたもので審査部の荒蒔少佐は全速飛行を開始した直後に風防が潰れ視界を失って
辛うじて着陸するという事故が発生している。Bf109の風防枠は頑丈な鉄製だった
が13号機は枠も風防ガラスも軽量化の為に華奢なもの使われたのが原因であった。)
ただ写真をよく見るとキ61とはかなり異なっている。そして目を引くのがZ旗と漢字
の東郷である。ドイツ陸軍のある部隊ではタイガー1型に漢字の逆福が描かれた例が
あるが。では・・そうである。ドイツに渡ったキ61が更に進化していたのである。ド
イツの実験中隊のあの若いメカニック達の仕業であった(ひっぱりました。長かった
ですね?)。やはり現場のパイロットは航続距離の長い機体に魅力があったのか。ど
うやらこの機体はki61FにBf109-G6パーツを組込んだようである。若いメカニック達
は部隊で運用できるように可能な限りドイツ製に交換している(部隊ではki61Gと呼
んだらしい)。完成後実験中隊で各種飛行テストが行われBf109-G6の欠点がほぼ解決
した事が確認されたが以後ドイツの空を飛ぶことはなくヒトラーがフィンランド
にBf109の供給を許可するとBf109と共にフィンランド空軍に売却されていたのだった。
フィンランドのパイロットはこの機体を一目見てそして実際に飛んでみてがBf109の
欠点が解決されている事を実感しKA-61の番号が与えられた(この機体はTOGOと呼ば
れた)。なおこれに近い例ではソ連軍のカーチスP40ウォーホークが燃料切れで不時
着した機体にKH-51の番号が着けられ飛行テストが行われている(実戦には使用され
ていない)。
では写真からKi61Fとの違いを見ていく。
○プロペラ
Bf109F4後期以降に装備された幅広ブレードのVDM9-12087(直径3.0m)のようである。
○エンジン
ki61FのDB601NからG6のDB605A(1475馬力)換装に伴って機首は延長(キ61-2型改並
みに)している。これによってキ61-2型改になかったエンジン冷却用小型空気取入口
や滑油気泡分離装備のためのか小型空気取入口追加されているのが分かる。
○風防
交換パーツが無く華奢なキ61の風防からG6の風防に交換されている(のちにエラル・
ハウベに交換したともいわれている。G6では軽量で視界も向上しパイロットからも評
判が良かった)。これにより風防前後のラインは若干変わっている。Bf109-G6同様の
短アンテナ支柱とD/Fループアンテナそして胴体下にFuG25-IFFアンテナを確認できる。
なお元68戦隊の小山曹長によるとキ61は正面同士の対面での撃ち合いでは前方風防に
防弾が無かったので前からの弾丸が恐かったと言っている。
○武装
機首にMG151/20を2門(本家キ61丁のホ5以上に銃身が露出している)、主翼にMG131
を2門である。この組合せについてはBf109E〜Fへ移行する際に主翼の武装をやめ機首
のみとした事で空戦性能が向上した事もあり(F型は操縦性、速度、上昇力など総て
が改善されBf109シリーズ中最もバランスのとれた機体となった)、主翼にMG151/20
は積まず機首のみとしたらしい。ちょうどエンジン換装により機首が延びこれが可能
となった。ただ風防前方は盛り上がっている(2型改にマウザーを積んだと思えば良
いか?ちなみにマウザーとホ5の弾丸サイズはほぼ同サイズである)。一方主翼に
マウザーを積んだ本家キ61丙はその重さで旋回戦闘に入ると失速傾向にあったと
元244戦隊の生野大尉は言っている。なお本家キ61丁以降はホ5を装備し通常の徹甲弾
の他に曳光弾と合わせ榴弾も使用されたがそれは瞬発信管付であった。この信管はあ
まりに敏感すぎて榴弾が砲口を出るや否や破裂するという事故が頻繁に発生しその破
片が覆いを貫いて発動機の補機類を損傷するのだった。しかし信管を改良して量産に
移す余裕が無かったのでものすごく厚い鋼板を使用して発動機覆いの砲溝を補強した。
その結果重量が増加し尾部に平衡用錘が必要となり性能低下の原因になっていた
がKA-61はこれとは無縁であった。
○胴体後部
エンジン換装、MG151/20装備等でバランスを取る為にFw190-D9のように胴体後部延長
材が追加された(写真の胴体のKA-61の61部分)。
○主輪・尾輪
写真では確認しにくいが主輪のタイヤの溝は本家キ61とは異なる。G6のものに変更さ
れた可能性がある(G6のものであればタイヤ径は本家より大きいので大掛かりな作業
になったと思われるが)。尾輪については確実にG6のものと思われ固定式になってい
る。タイヤ径が大きくなった事で着陸時の安定及び地上での視界も向上している。本
家キ61甲の小さい尾輪は当初、接地すると回転がものすごく速い為に車輪のゴムがリ
ムから浮いてしまい外れるという問題が発生した。現地部隊ではどうにもならないの
で応急策として尾輪をそりにかえ引込式をやめ固定して急場をしのいだという。車輪
ゴムの材質の悪いせいもあるが着陸速度が速かったのが主な原因と言われその後固定
式になった。
○増槽懸吊架
Bf109のものに交換されている。
○垂直安定版
プロペラ及びエンジン換装等により方向安定性向上の為に増積して対応させている。
この辺もFw190-D9に似ている(これによりますますハインケルの機体に似ている)。
写真から分かるのは以上であるがこのKA-61の性能だが戦後米軍のテストでキ61-2型
改が685km/h出たらしいのでエンジン・プロペラ効率等を考えると夢の700km/hを期待
したいのですが・・・
■フィンランドでKA-61がTOGOと呼ばれたその時代背景■
日本が国家の存亡を賭けた戦いで空前大勝利を収めた日本海海戦は日本だけでなく世
界にも大きな影響を与えた。フィンランドは帝政ロシアの勢力下ロシア革命の混乱の
中で民族国家として生まれフィンランド空軍は帝政ロシアからの独立戦争のさなかに
誕生した。そして義勇兵としてスウェーデンから馳せ参じたフォン・ルーセン伯爵が
持ち込んだ機体に描かれたルーセン家の幸運のシンボル「青い鉤十字」が空軍の国籍
標識になった。フィンランドはソ連との闘いで常に戦闘機不足に悩まされていた。財
源は限られていたし政治的な緊張が高まりつつあった当時の欧州では余分な戦闘機を
保有している国はなかった。そんなフィンランドに対し当初ドイツはフィンランドの
同盟国でなく援助も協力もなく逆に軍事物資の供給の妨げになっていた。そういう状
況下でも旧式の戦闘機で数的に勝るソ連の侵攻を撃退していた(他国では活躍しえな
かった戦闘機を駆使し驚くべき戦果を上げていた)。しかしフィンランドではソ連と
の戦争の初期からBf109を入手しようと空しい努力をしていた。一方のドイツは戦局
の悪化から信頼できる同盟国を痛切に必要としておりヒトラーは個人的にBf109の供
給を許可したのであった。なおドイツでは大量捕獲したソ連製エンジン(クリモ
フM-105)も売却している。これをフィンランドで使用しているモラヌ・ソルニ
エIMS406の老朽化し予備パーツを入手できないイスパノスイザのエンジンの代わりと
してこのソ連製エンジンに換装しメルケ・モランMS-631として使用するのであった。
Bf109は旧式戦闘機で闘わなければならなかったフィンランドにとって待望の最新鋭
戦闘機(最初に到着したのは1943.3.9)だった。強力なエンジンに必要最小限の機体
を組み合わせることで速度・上昇力など高性能を発揮した。簡単な構造で量産性も高
く扱いも容易であった。しかしその華奢で幅の狭い脚やがっちりフレームで囲まれた
コックピットは地上での視界の悪さと離着陸が難しいというより危険で航続距離の短
さは悩みの種でもあった。そんな頃(1944.6.19?)Bf109-G6に交じってKi61Gがやっ
て来たのであった。フィンランドのパイロットはKi61Gを一目見てそして実際に飛ん
でみてBf109の欠点が解決されている事を実感した。フィンランドに引き渡され
たBf109-G6の内14機が両翼下面にMG151/20を追加装備した武装強化型で「カノーネン・
ボーテ(カノンボートつまり砲艦)であった。しかしほとんどのパイロットはノーマ
ルの20ミリ1門と13ミリ2門での近距離攻撃で十分と考えていたので上昇力や速度は低
下する為に多くのパイロットから嫌われほとんどが外されていた(カルヒラのよう
に20ミリ・3門の強烈な威力を好んだものもいたが)。このKi61Gはカノーネン・ボー
テ並の武装(20ミリ・2門と13ミリ・2門)でありながら速度・上昇力・運動性・航続
力がBf109-G6を上回るだけでなく離着陸も良いのでパイロットに喜ばれた。そして元々
日本製である事が分かるとさらに歓迎をもって受け入れられた。常にロシアの圧力を
受けていたフィンランドにとって大国ロシアを破った小国日本。バルチック艦隊を撃
ち破った日本連合艦隊の東郷元帥はフィンランドでも英雄であった(ビールにもなっ
ている)。そしてKi61Gの機首から露出した銃身は日本海海戦でバルチック艦隊を破っ
て大勝利した東郷元帥が司令長官として座乗した連合艦隊の旗艦「三笠」の主砲を思
わせるのであった。そんな事でこの機体はKA-61の番号が与えられ風防下にZ旗そして
垂直尾翼に漢字で東郷と描かれTOGOと呼ばれた(Bf109はメルスと呼ばれた)。そし
てこの機体に乗り込むパイロットは常に東郷元帥が言った「皇国の興廃この一戦にあ
り各員一層奮励努力せよ」の心構えでソ連軍と闘ったと言われている(しかし誰も
がKA-61に乗る事を希望したが機数に限りがありその願いは叶わなかった)。
明治から平成の近代日本の歴史でアメリカ人・アメリカ国民が崇拝または畏敬した日
本人は3人いて東郷平八郎・坂井三郎・本田宗一郎であるという。
まず東郷だが
日本は国家の存亡を賭けた戦いで空前大勝利を収めた日本海海戦(この時東郷は「こ
の戦果は天佑神助により我が将兵の奮励努力の賜である」と報告している)は日本だ
けでなく世界にも大きな影響を与えた。帝政ロシアの勢力下にあったその属国や周辺
諸国及び当時の欧米諸大国の植民地政策下にあった諸国の人々に希望と力を与えた。
例えばその強大な勢力の圧迫を受けていたトルコ(イスタンブールには東郷通りがあ
る)は日露戦争でのロシアの敗北を機に政治体制を変えて近代化に進み、ロシアの版
図の中に押し込まれていたフィンランド・ポーランドの独立運動に拍車をかけた(こ
の頃フィンランドで東郷ビールが作られている)。またインドのネールはその自伝に
「アジアの一国である日本の勝利はアジアのすべての国々に大きな影響を与えた」と
記すように、アジアの被植民地の民族に独立の希望と勇気をもたらしたのだった。東
郷が述べた「連合艦隊解散の辞」は世界中に紹介されルーズベルト米大統領は非常に
感動し米陸海軍長官に書簡を送り隷下の陸海軍人に教示するように命令し、現在でも
米海軍兵学校のテキストにもなっている。米国訪問の際には「東郷は日本だけでなく
世界の東郷である」と新聞が報じ米国政府と国民は東郷を国賓として熱狂的に歓迎し
ている。また米海軍大平洋艦隊司令官であったニミッツも熱烈に崇拝していた。ニミッ
ツは明治38年に少尉候補生として遠洋航海で日本を訪れ園遊会で憧憬の的であった東
郷を遠く眺めていた。その時ニミッツは候補生を代表し「我々のテーブルで歓談して
頂けませんか・・・」と東郷におずおず申し出た。東郷は快く承諾し英国仕込みの流
暢な英語でニミッツ達と歓談した。この時の感激はニミッツの心に深く刻まれニミッ
ツは東郷平八郎の熱烈な崇拝者となった。昭和8年東郷の国葬に米軍アジア艦隊旗艦
「オーガスター」の艦長として参加し、儀仗兵を指揮して葬列の行進に加わった(葬
列は英・米・仏・伊・中国の儀仗兵も加わってその長さは2kmにも及んだという)。
そして東郷邸に出向いて哀悼の意を表している。さらに大東亜戦争後に記念館「三笠」
が連合軍に接収されて荒廃しているのを知ったニミッツは、その復興を日米に働きか
け復元完成し祝典の際に自分の肖像写真には「貴国の偉大な海軍軍人、東郷元帥の旗
艦で名高い三笠を復元した日本の愛国者達へ。東郷元帥大崇拝の弟子、米国海軍元
帥CWニミッツ」と記して三笠へ贈っている。
一方の坂井といえば日本で最も有名な零戦撃墜王でもあるがそれは日本だけではない。
戦後日本国民が敗戦の痛手という重圧に押しつぶされ意気消沈していた時代に新しい
日本を築く若者達に戦争には負けたが勝ち続けた人間もいた事そして戦争の真実を伝
えるべきと考えGHQの戦争犯罪人追跡調査を受けるやもしれぬと覚悟の上で自分の体
験を書にまとめた。その中で坂井は再び繰り返さない為にも海軍士官にとって隠蔽し
たかったであろう戦中における海軍士官と海軍下士官の対立を明確にした(しかし坂
井亡き後はこの点を触れるものはいない。これらの対立は現在の航空自衛隊でも続い
ているという)。
日本以上に外国特にアメリカでの坂井の人気は日本人も驚く程であった事を大半の日
本人は知らない。坂井への敬意を表しアメリカ海軍厚木基地の司令官が交代する際に
各司令官は坂井邸に表敬訪問し空母ミッドウェーを始め歴代の艦長交代式・司令官交
代式には必ず来賓として呼ばれていたという。1983年にはアメリカ・アラバマ州モン
トゴメリーで盛大に開催された「人類が空を飛んで200年祭」で東洋人としてただ1人
選出され招かれている(この式典は大空を舞台に様々な偉業を成し遂げたエアマン25
人を称えるもの)。日本で知る人は限られているが旧敵国であるアメリカの国民及び
アメリカ軍が坂井に示した歴史的評価自身への人格に対する尊敬を日本人はもっと知
るべきであろう。そしてそれを象徴するのが坂井がガダルカナルで被弾して重症を負
いながらもラバウルへ奇跡の生還を果たした時の飛行帽とゴーグルが日本でなくアメ
リカに有ると言う事ではないだろうか。しかもその場所がニミッツ・ミュージアムな
のである(生前に何度もオファーがあり展示の為貸し出していたという)。
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