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昭和17年12月から開始された川崎キ78試作高速研究機、いわ ゆる「研三」による実験結果により、高速機開発に自信を深めた日本 陸軍は、18年9月、今度は空冷星型エンジンによる高速研究を計画 した。 空冷エンジンであるため、開発を中島飛行機に依頼、それを受けた 中島では、当時、実用化の域に達していた小型高出力の空冷星型18 気筒エンジンである「ハ45(誉)」を装備し、徹底的に高速飛行の みにこだわった機体を設計/開発した。 その形態として、まず、エンジンカウリングをエンジン直径ぎりぎり まで絞り、オイルクーラー用インテークを左翼付け根、気化器用イン テークを右翼付け根に配し、前面投影面積をできうる限り小さくし た。さらに、そこから尾部に向かって胴体をなだらかに絞りプロペラ 後流による空気抵抗を減らすようにした。主翼は胴体との干渉抵抗を 減らすべく中翼配置とし、さらに極力有害抵抗を減らすために外版に 厚板の広板を使用したうえ各外版の間を手作業で全く段差がなくなる まで加工を施した。また、翼厚比12.5%という第二次大戦中のレ シプロ機としては最も薄く、しかも、全幅が7.48しかないという 主翼を採用した。このため、主脚は胴体へ後方折り畳み式に収納する こととした。 飛行時の重心移動を最小限とどめるため燃料タンクを主翼位置と同じ 胴体中央部に配置、高速飛行時の安定性低下を極力なくす配慮も行い、 それによりコクピットを著しく後退させる配置とした。このため、離 着陸時の視界が極端に悪化したが、高速飛行のためやむをえないことと 割り切っていた。 プロペラもただひたすら最高速を狙う機体であるためダッシュが きかないことには目をつぶり直径4mにも及ぶ、幅広の4枚羽根とし た。エンジンもこの機体に装着することのみを目的として、5分間に 限り2800馬力を絞り出すハ45の発展型ハ145−54特とした うえ、熟練工が丹念に組み上げバランス取りをしたものを特別に5基 だけ作成した。 先の「研三」はすでに19年1月には飛行を停止しており、その テスト期間中、最高699.9q/hという最大速度を記録するにとど まっていた。この状況を踏まえ、自分たちの機体に絶対的な自信を 持っていた中島設計チームは1939年4月にドイツのMe209が 記録していた「世界最高速度記録755.12q/hの打破!」を 合言葉に先行きの暗い戦局の影を打ち払うかのようにこの機体の 開発作業に没頭した。 昭和19年8月に完成した実機は、大直径プロペラによる強大な トルクと長くトレッドの狭い主脚により極めて劣悪な滑走性能を示し たが、優秀なベテランパイロットの操縦によりなんとか飛行試験を 行なうことができた。 本来なら戦局の逼迫で中止させられるべきこのような研究が長く 終戦間際まで続行できた理由は今日では一切不明だが、中島設計 チームの鬼神のような気迫が、陸軍をして中止という言葉を忘れさせ たのではないかとまで言われている。 そしてついに、昭和20年7月7日、数えて22回目の飛行のとき FIA既定に則った3qコース上で、実に777.7q/hの世界速度 記録を樹立したのである。この記録は戦時中のこととて公認はされな かったものの、中島設計チームと日本陸軍に、敗れていく祖国の上で これ以上ない歓喜を味合わせてくれたのだった。
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