三菱 二式陸上攻撃機 G5M1 閃山

Mitsubisi Land Attaker Type 2 Rikkou G5M1“Senzan”(Jennie)


閃山22型甲 村田朋儀大尉搭乗機

【開発経緯】
閃山は1938年に試作が開始された、日本最初の実用4発陸上攻撃機だった。
この頃、日本帝国海軍はその戦時戦略―――漸減作戦のための大型攻撃機を必要としていた。彼らは合衆国から大型旅客機DC-4Eを輸入し、それを軍用機化しようとした。当時の日本の技術では近代的4発機は無理な相談だったからだ。ところが、DC-4Eは開発したダグラス社でも失敗作と位置づけられており、結局のところ、参考品以上のものになりえなかった。であるならば、自力で作り上げるほかない。海軍の決定は以上の経緯によるものだった。
その頃三菱はすでに12試艦上戦闘機(零戦)、12試陸上攻撃機(一式陸攻)を抱えており、とても新型機に取り組める余裕ではなかったが、経営陣は万難を排してでも開発するのが得策と考えた。将来の爆撃機市場を独占するためである。

初の近代的4発陸攻であったため、開発は難航を極めた。幾度となく試行錯誤が繰り返された。やっとのことで試作機が完成したものの、海軍は領収を拒否した。性能が要求に及ばなかったのである。三菱は焦った。彼らはこの4発陸攻に多額の投資をしていたからだ。窮地に立った彼らは、完成なった機体をフランスと対立しているシャム王国に売り込んだ。シャム王国はさっそく数機の大型陸攻を国境紛争に投入したが、鈍重であることや貧弱な防弾装備のせいで全機未帰還の燦燦たる結果に終わった。これ以後、シャム王国は三菱の機体を使用していない。(その後、中島が大量受注に成功したのは言うまでもない)

この事態に、三菱の技術陣は総力を挙げて取り組んだ。一式陸攻で培われたさまざまなノウハウ、防弾装備の強化が盛り込まれた。そのため開発から4年経過した1942年、ようやく満足できる水準に達することができた。

苦節4年間は決して無駄ではなかった。対米戦2年目に突入した帝国海軍は、一式陸攻以上の攻撃機を求めており、ちょうど完成したばかりの新型陸攻がその後継にふさわしいと考えていた。一式陸攻が貧弱な防御力のゆえに損害が大きいこともその理由の一つであった。こうして、新型4発陸攻は二式陸上攻撃機閃山として制式採用され、激戦の続く南方戦線を中心に集中配備されていった。充実した防弾装備を持つ本機は前線で歓迎され、それまで中核を務めていた一式陸攻を故意に故障させた部隊もあったという。ポートモレスビー空襲を皮切りに、対米戦中期から後半にかけて活躍、戦後は『空中艦隊構想』(無線誘導対艦誘導弾『桜花』を搭載した爆撃機の大量投入戦術)の中核を担い、1948年最後のレシプロ陸攻蒼山に道を譲り、引退した。

なお、ごく少数が民間機に改造され、1950年代後半まで使われた。武装をはずし、豪華な客室設備を持った本機は戦後の民間航空の伸長に一役買ったのである。しかし、とりわけ本機を有名にしているのは、第6航空艦隊に配備された約100機の閃山であろう。第6航空艦隊は1944年、来襲する合衆国機動部隊を超低空侵入爆撃で迎撃、当時最新兵器であったイ号対艦誘導弾で航空母艦〈レイク・シャンプレーン〉、〈バンカーヒル〉、〈キアサージ〉,重巡洋艦〈ピッツバーグ〉を撃沈、その他所属艦艇に損傷を与え、その後の捷一号作戦における日本軍勝利の遠因となったことは名高い。ちなみに、アメリカ兵はレーダーの覆域をくぐって攻撃する閃山をダイダロス・アタックと呼び、畏れたと伝えられている。
連合国軍のコードネームはJennie。

【作者コメント】
初めて飛行機部門に参加します。あまり技術的なことはわからないので、機体の大きさ等は目分量です。設定らしい設定もありません。かたち良ければすべて良し、という毎度おなじみの考えがここでも反映されています(笑)。制作にあたっては、海野さんの一式陸攻や「泰山」を参考にしています。いつものようにペイントブラシで描きましたが、曲線の表現が難しい!――思うようにならず、何回も修正しました。
所属部隊等、史実と異なると思いますが、それはご勘弁を。

2001年6月24日記 よーすけ