●我が陸攻閃山よ。乾坤一擲、東へ飛べ。


「編隊指揮官機より、発光信号! 突撃態勢ツクレ、降下用意」
「機長了解」

わたしは大尉として、閃山陸攻の機長席に座っていました。昭和18年の秋からです。あなたも知っているとおり、閃山は難産だったでしょ。だから機体のあちこちに改修の跡があるんです。初めて見たときはぎょっとしましたね。でも発動機――あぁ、エンジンは新しかった。ちょっと思い出せませんが、その時最新型の火星エンジンでしたよ。で、わたしは第6航空艦隊所属第203空に配属されましてね。マニラでアメリカ軍を待っていたんです。みんな血気さかんでしたね。そりゃそうですよ。4発陸攻が100機もいるんですよ。誰だって興奮するでしょうに。

それは壮観の一言に尽きた。見渡すばかりの巨人機の群れだ。総数100機あまり。機体には新兵器、イ号対艦誘導弾が括り付けられている。これをひっさげ、敵空母機動部隊をしとめるのだ。万全を期すために彼らを護衛する120機あまりの戦闘機烈風、零戦は編隊のはるか前方を飛行している。上空直衛の敵戦闘機はもっと多いかもしれない。砂粒のように小さくなった彼らのうち、帰れるのは何機だろう。村田朋儀大尉はふとそんなことを思った。
もっとも、編隊指揮官の頭脳はそんなことはすでに織り込み済だった。彼ら戦闘機隊が血路を開き、その間隙を衝いて、陸攻隊が突入する算段になっていた。優勢なる合衆国軍を油断させる方法。それをこれから実施しようとしていた。彼が100機の大編隊を率い、目指す先は、元寇のように押し寄せる合衆国機動部隊だった。

一糸乱れぬ、という言葉がぴったりですよ。うちの部隊は錬度が高かった。マリアナの消耗戦の後あまり無理な出撃をせず訓練に明け暮れたからでしょうかね。それに内地からも教官クラスを多数呼んだ。ええ。みんなわかっていたんです。今度の出撃が本当の意味での天王山になるだろうなって。やな気分でした。もう後はないんだなって。

攻撃隊は一斉に高度を下げた。レーダーの覆域をくぐり、発見されないように。海面すれすれにまで高度を落とすのは相当の技量と時間が必要とされる。だが、熟練搭乗員で構成された攻撃隊は難なくこなしてみせた。一方、反対に戦闘機隊は編隊を組み直し、あたかも爆撃機を護衛しているかのようにみせかけた。何も知らない敵機が気づいたとき、そこにあるのは戦闘機ばかり120機の群れだ。こうして戦闘態勢は整えられた。

ああ、始まったなとわかったのは低空飛行をはじめて数分後のことでした。はるか遠方で黒い帯がたくさん見える。戦闘機隊が血路を開いてくれている。そうしたら、隣にいた副操縦士がつぶやくんですよ。がんばれって。でもね、なにもできない。とても悔しい思いでした。攻撃の合図が出るまでがとても辛く感じましたよ。

日本軍機の空襲に気づいた合衆国機動部隊は上空直衛機を繰り出し、迎撃を試みた。当然の動きだった。彼らはレーダーの映像から、日本軍の戦闘機が30機ほどと判断した。60機が上がり、さらに30機が追加された。さらなる兵力投入の意見もあったが、首脳部はそれを退けた。第2波、第3波が来ないとは限らないからだ。もちろん、それは常識的な判断だった。VT信管とレーダーで構築された防空体制がマリアナ戦域で圧倒的な効果を上げていたことも影響していた。つまるところ、彼らは楽観視していた。こうして貴重な時間が失われた。

「マリアナの復讐戦」と有馬さん(編隊指揮官のこと)は言っていましたね。マリアナ戦域で多くの機体と部下を失っていますから。だから、いつも鬼気迫る勢いでしたよ。だからでしょうかね。新兵器の対艦誘導弾をかき集めたのは。うちの航空艦隊だけでしたよ。それを使っていたのは。でもね、新兵器はまだ数がそろっていなかった。まだ開発を終えたばかりのものでしたから。うちら2週間しか訓練できていない。まいりましたよ。今の子供はラジコンで遊んでいるけど、その頃の僕らには無線操縦なんて想像外の世界のことですよ。機械らしい機械に触ったこともない。戸惑いはありました。木の棒と箱を使って、模擬操縦器を作りました。兵の一人が目標と見立てた箱まで両手を広げ、走る。それを後ろから、右!左!と叫んだ。そうやって練習したんです。今じゃ恥かしい思い出ですね。

100機あまりの閃山に搭載されていたイ号対艦誘導弾は50発にすぎない。開発が戦局に追いつかなかったためだった。そのため、残り半数は酸素魚雷を搭載した。それでも1機2本。およそ100本である。
編隊指揮官有馬中佐は最重要目標を空母と位置づけていた。タウイタウイを拠点とする連合艦隊にとっての最大の脅威は、眼前にある6隻の大型空母と2隻の軽空母と考えたらしい。彼は合図を送った。

「編隊指揮官機より発光信号、無線封鎖解除、攻撃開始!」
いよいよでした。私はスロットルを前に叩き付け、速度を上げました。私の機体は誘導弾搭載機でしたから、上昇して発射する必要があります。操縦環をゆっくり引いて機体を持ち上げました。フワリとした感触を感じました。同時に、敵艦隊から一斉に対空砲火が上がりました。気づいたんですね。でも、もう遅い。あとで副操縦士が話してくれたんですが、その時の私は笑っていたそうです。

日本軍は欺瞞に成功した。合衆国が戦闘機のみの編隊と気づいたときにはすでに遅かった。迎撃に上げた戦闘機のほとんどが撃墜されてしまった。しかもあらぬ方向から日本軍機が現れた。
有馬は混乱に泣き叫ぶ合衆国戦闘機隊の無線に割り込み、レコードを流した。ワーグナー作曲『ワルキューレの騎行』が電波に乗って躍り出た。彼の望む復讐戦が始まろうとしていた。

ええ、それはそれは凄かった。一度に多数の対艦誘導弾が発射されるんです。白い煙をたなびかせながらね。無線誘導だから、どうしても敵に向かってすすまなければならない。だから、撃墜される僚機も見ました。ところどころに主を失って海面に突っ込む誘導弾を見ました。でも、数分後ですかね。空母に命中していくんです。おもしろいくらいに。花火みたいに、黄色や赤いものがとびちって、すぐに墨のように黒い煙が上がる。あぁ火薬庫にあたったんだな、と思いました。
攻撃を終えた機体はすぐに離脱することになっています。旋回して、離れるとき、尾部銃座から報告がありましてね、空母がたくさん燃えているって言うんです。ちゃんと報告しろって怒鳴りましてね。そうしたらみんな燃えている。煙で良く見えないと言うんです。まだ配属されたばかりの新兵だからしょうがないと思っていましたけど、後でいろいろと話を聞いたら、なるほどそう思うのも無理はないなと思いました。

後に編隊指揮官の名をとって「有馬の復讐戦」と俗称されるこの海戦において、日本軍は空母〈レイク・シャンプレーン〉、〈バンカーヒル〉、〈キアサージ〉、巡洋艦〈ピッツバーグ〉を撃沈、残った艦艇もそのほとんどが本格的修理を必要とした。フィリピン方面の日本軍航空部隊を叩くはずの彼らは、逆に返り討ちにあった形になったといえよう。この大敗北により、合衆国のフィリピン攻略は不十分な形で始まり、日本軍の勝利の遠因となったことは言うまでもないだろう。

村田朋儀氏は戦後大日本航空に入社、機長として1970年まで現役にあった。その経歴の中で閃山の民間機型に搭乗したこともあるという。

『証言・あの頃わたしはA』(毎日新聞昭和60年8月2日付朝刊記事)より

※もともと終戦40周年企画の新聞記事のため、軍事的歴史的考証は十分とはいえないが、当時の証言を載せたという点で貴重なので、ここに紹介する。