三菱 二式輸送機 G5M2-L

大東航空使用機“瀋陽大空輸”作戦参加時 1948年

●瀋陽大空輸と大東航空

「戦争が終わってすぐに飛行機会社を創ったんです」
小柄でめがねをかけた老人はそう話を切り出した。差し出された名刺には、内田弘毅とある。大東航空の創業者というより、株で財を成した人物として知られているだろう。だが、今の華やかな生活とは裏腹に、休戦直後の混乱期はひどく苦労したという。
「除隊になったのはいいけれど、メシの種がない。で、ある日屋台の辛み汁かけ飯を食べながらふと思ったんですよ。大陸貿易でちょっと儲けるかって。いけると思った。あの当時はあまった爆撃機がいっぱいありましてね。2.3機もらって輸送機にして使ったんです。そりゃ私も飛行資格を持っているから、営業に輸送に飛び回りましたよ」
だが、天性の金銭感覚をもってしても時代の荒波に勝てなかった。事業はすぐに息詰まる。原因はそのころ大陸を覆い始めた政情不安と他社との競合だった。悪条件が重なり、彼はたいして旨みのない東京−瀋陽線で細々と食いつなぐしかなかった。
「そこへですよ。大陸で本格的な内戦が起こった。1947年のことです。ある日のこと、うちの事務所にお偉いさんが来ましてね。戦争になったが、ある荷物を運んでくれっと言うんですよ。中身?詮索しませんでしたよ。それが運び屋の矜持というものです」
国民党の腐敗に耐えかねた農民一揆が共産党と結びつき、やがて大規模な内戦になったのは周知のとおりである。共産軍は中国東北部を瞬く間に掌中に収め、主要都市瀋陽も瞬く間に大海の孤島と化した。国民党はいたるところで押されていた。
これに対し、日本は国民党を支援すべく、軍民問わず、輸送できる飛行機すべてをかき集めた。時を同じくして、羽田飛行場の一角に木枠梱包された大量の貨物が並んだ。
「あれはもう見ることができないでしょうね。羽田飛行場に大型機が集結したんですよ。用意を整えた機体が次々に発進していく」
いわゆる瀋陽大空輸はこうして始まった。異機種連合の大編隊は一路瀋陽へ向けて飛び立った。内田もそのなかの一人だった。対空砲火がほとばしる中、全速力で通過したこともあった。編隊とはぐれ、そのまま行方知らずになった僚機もいた。
「冷や飯ばかり食わされていたと思っていたけど、その時初めて自分の幸運に感謝しましたね。だって、そこは飽きるほど飛んでいたところだったから」
数回の輸送作戦の後、内田は編隊指揮官の役を得る。地理に明るいことがその理由だった。そんな時でも彼は商才を発揮した。
「チャンスだと思いましたよ。かたっぱしから声をかけて、うちに引き込んでいった。みんな冒険したがったし、今の給料以上の値を提示したらおもしろいぐらいについてくる。それを確かめたら、今度は酒と包みをもって国民党の幹部のところへお出ましです」
方法がどうであれ、小さな航空会社だった大東航空が一躍成長企業の仲間入りを果たしたのは事実である。やがて大東航空は保有機を3機から40機に増やし、大陸全域を駆け抜けた。それは国民党が南京を放棄し、台湾へ逃走する日まで続いた。その後も大東航空は成長を続けたが、創業期の強引な経営手法が尾を引いたのか、航空業界再編の波間に消えた。もっとも、内田氏は早くからこの業界から手を引いていたが。念願の豪邸を手に入れ、金髪女性との結婚を果たした内田氏は言う。
「まぁ、できる奴が勝つ、ということですよ」

その発言の真意はともかくとして、勝因は選んだ機体にあった。休戦後乱立した航空会社は保有機として一式陸攻を選んだ。たしかに機体容積が大き無きに等しい11型を改造しており、結果、戦場と化した大陸での行動は常に不安がよぎった。これに対し、閃山は防御が充実しており、修羅場と化した大陸での行動にうってつけだった。皮肉なことに、民間機としてなら十分活躍できたはずの一式陸攻は早々に引退することになったのである。(実際、休戦直後の民間市場の間では、一式陸攻のほうが高く売買されていた事実がある)

『伝承・戦後の民間航空』(原書房刊)より

※機体そのものについての記述はほとんど見られないが、休戦後に使われた払い下げ軍用機を巡る興味深い逸話が載っているので、ここに紹介する。