洗脳軽巡物語〜妄”走”者たち〜


『高雄』級重巡洋艦の建造により、日本はロンドン条約で規定された12隻の重巡を予定通り、
保有する事となった。しかしこれでは、米海軍の保有する重巡18隻に対抗するには、いささか
物足りないものである。が、もう重巡は作れない。
必然的に、建造枠の残っていた軽巡が、この穴を埋める事となる。
その建造に際し、海軍は頭を悩ませた。

『軽巡として建造し、戦時には砲塔を載せ換えて重巡にすれば良い』

という意見も出されていたが、これはイザ改装する時にどのような不都合が出るか分からない。
もしも想定外の不都合が出てしまえば、その艦は戦力として成り立たなくなる。成功する確証の無い
ものを作るほど、日本という国にも、帝国海軍という組織にも余裕はない。
そうして出た結論は、

『総合力として重巡を圧倒できる軽巡群』

の建造であった。
汎用性を持った『多機能艦』ではなく、1艦1艦が優れた『単機能艦』を建造する――。
量には質で勝つという、その後の帝国海軍に通ずる思想はここでも根を張っていたのである。
設計陣には日本の誇る造船学の権威・平賀譲博士を迎え、後に『リーサル・クルーザー』
――最狂の巡洋艦――と呼ばれる事になる、軽巡建造計画はスタートした。
最終的な計画は,9500t+8200t×2+5300t×4+3750t=50850t
であり,多少(?)の嘘はあるものの、建造枠50995t以内に納まっている。

@『弓塚』級指揮軽巡洋艦

”『弓塚』型一番艦『弓塚』” でっかい突起。
”『弓塚』型二番艦『秋葉』” ナイムネ。
『弓塚』級指揮軽巡洋艦(データは1号艦『弓塚』竣工時のもの) 全長206メートル   全幅22メートル 基準排水量 公式発表9500t 実測15500t 最大速力32.5kt 機関出力4基4軸180000ps 乗員数880名 搭載機・水上機2機 航続距離 16ktで8000海里 武装 60口径15.5センチ砲   3連装3基 9門    40口径12.7センチ高角砲  連装6基12門    25ミリ機銃         3連装4基12門       同            連装8基16門    61センチ魚雷発射管     3連装2基 6門 同型艦 1号艦『弓塚』 起工・ 昭和5年 9月22日 竣工・ 昭和8年 7月10日     2号艦『秋葉』 起工・昭和12年10月 5日 竣工・昭和14年12月24日 最後に建造された重巡『高雄』級の最大の特徴は、城郭を連想させる巨大な艦橋である。 『高雄』級の建造に際して軍令部が出した要求は 『全艦に平時の旗艦設備を備えよ』 というものだった。要するに、戦時になったら艦隊旗艦となり得るようにしろ、という事だ。 当時はまだワシントン条約下であり、補助艦艇である重巡の建造枠制限は存在しなかった。従って、 帝国海軍としては、『高雄』級または『妙高』級の1万t級重巡を大量建造するつもりだったのだ。 制限されている戦艦に代わって、大量生産した重巡部隊を艦隊主力にする構想が、『高雄』級に旗艦 設備を持たせる、という要求を出した理由だったのである。 そもそも艦隊旗艦というのは、戦隊旗艦と違って艦隊司令長官の乗る艦である。長官を始めとして、 副官、参謀長、各科参謀、司令部通信班から果ては軍楽隊まで、約100名にもなる司令部要員が ゴッゾリ乗り込んでくる。このためには、付属設備として充実した通信設備や作戦室、司令部要員用 の居住区など、それぞれに応じた様々な設備が必要になる。 『高雄』級の巨大な艦橋は、それに基づいた必然的なものであったのだ。 本艦、『弓塚』級軽巡洋艦が設計されたのはそんな流れの中にあっての事だった。 大量建造を考えていた『高雄』級の建造が4隻に終わってしまった事に対する、ある種の補てんの 意味もあったのかも知れないが、残念ながらそれを裏付ける証拠は存在しない。 1号艦『弓塚』が起工されたのは昭和5年9月22日、場所は神戸川崎造船所である。 要求案が軍令部から出されたのが昭和4年の7月。軽巡の建造構想がまとまったのが翌昭和5年2月。 それから考えると、『弓塚』はほぼ7ヶ月で設計を終えた事になる。 設計自体は『高雄』級重巡を基本モデルとした『準・高雄』とでもいうべきカタチでまとまっている。 『高雄』の設計を色々と流用した結果、僅か7ヶ月で設計終了という事態が発生した訳である。 しかし、そこに至るまでには、かなりの苦労があった。 『弓塚』級軽巡洋艦に対して出された要求は、 排水量9500t、15.5センチ砲10門、61センチ魚雷発射管3連装4基以上、装甲は 20.3センチ砲弾に耐え得る事、速力は35kt以上。 ――という、無理難題の見本のようなものだった。 おまけに、艦政本部でこの新造軽巡に関する会議が行われるたびに、用兵者側から過大な性能要求が 一方的に増やされていくばかり。かと言って、排水量を増やす事は許されなかった。 基準排水量9500tというのは大義名分であるから、これには誰も口出しせず、もっぱら兵装強化、 性能向上を求めてくる。だからと言って用兵者の要求をそのまま盛り込むと、艦はトップ・へヴィを 通り越して、浮かぶ事すらままならなくなる。そこは設計者が『工夫して何とかしろ』と言うのだ。 そもそも、原計画の段階で基準排水量9500tでまとめる事は不可能である。それでも設計陣は、 異状とも言える熱意を持ってこれに取り組んでいった。 『高雄』級で採用された特殊高張力鋼のDS鋼(デュコール・スチール)を大幅に使用し、板厚を 出来るだけ減少し――と様々な努力が続けられていた。 しかし一方で、帝国海軍はとんでもない事を考えていた。 基準排水量9500tというのは、言わば『大義名分』に過ぎない。 ならばこのまま、いっその事、排水量を大幅に増やしても良いじゃないか――。 なぁに、ばれなきゃ良いのさ――という訳ではなかったのだろうが、実際に『弓塚』の設計が大きく 変更されたのはこの時である。 結局、紆余曲折を経た後、『弓塚』級の設計は完成した。 まず、全長が198メートルから206メートルに、全幅も18.8メートルから22メートルに なり、当初の予定よりも遥かに大型化された。 『弓塚』級の最大の特徴は、何と言っても『高雄』を上回る巨大な艦橋である。『高雄』が艦隊旗艦 設備の充実を目指したのに対して、『弓塚』はあろう事か聯合艦隊旗艦設備の完備を目的としたのだ。 それに伴って、前部艦橋のみならず後部艦橋までもが飛躍的に大型化し、対応して艦体も必然的に 大型化したのである。そのドッシリとした重厚な雰囲気は重巡以上のものがあり、下手な戦艦すらも 圧倒するような威容をたたえている。形態美の点で、『弓塚』は帝国海軍で最も優れた艦となった。 巨大な前部艦橋は全部で12層(『高雄』は10層)から成り、後部艦橋すら『妙高』級の2倍の 容積を持っていた。当然、トップ・ヘヴィが心配されたため、安全のためにバルジを装備される事と なった。武装は要求よりもかなり抑えられ、軽巡の標準装備である15.5センチ砲を3連装3基と、 艦体の割に控えめである。 では、残りは何なのか――そう、装甲である。 この頃には、『弓塚』級は『指揮軽巡』の通称で呼ばれていた。海軍全体の指揮を、『弓塚』から 執る――それが、『弓塚』に与えられた存在理念であり、唯一の『機能』なのだ。 戦闘に耐えて指揮を執り続けなければならない使命を背負った『弓塚』には、当然ながら強力な防御 装甲が取り付けられていた。 例えば、前部及び後部砲塔下にある弾薬庫部の舷側には、『高雄』級より3インチ厚い8インチの 装甲板が装備された。もちろん材質はNVNC甲鉄である。この舷側装甲は、軽巡はおろか世界の 1万t重巡よりも厚いものだった。見れば一目瞭然だが、『弓塚』級はヴァイタルパートが艦体に 比べて極端に短い。それで浮いた分を、集中的に重要部の装甲に当てたのである。 それでも心配とばかりに、非重要部にも装甲を張っていった結果、『弓塚』の防御甲鉄の使用重量は、 実に3180tにも達し、気がつけば排水量の5分の1が装甲という、世界史上でも稀に見る重装甲な 艦となってしまっていた。 もっとも、気がつけば9500tだったはずの排水量は15500tまで膨れ上がっていた。 さすがに隠しようがなかったが、海軍はあくまでもシラをきり通した。 昭和8年7月10日に1号艦『弓塚』が竣工した後も、出来るだけ世間の目に触れないようにされた。 その甲斐あってか、『弓塚』の公式データが世界に知れたのは、条約の明けた昭和12年秋の事だった。 同年末には2号艦『秋葉』も起工し、『弓塚』はようやく、本来の目的であった聯合艦隊旗艦となった のである。 2号艦『秋葉』は、1号艦『弓塚』とは外見上に大きな差異がある。 とり急いで目立つのは艦橋の大幅な縮小である。それでも他の巡洋艦に比べれば遥かに大きいのだが。 これは建造費と建造日数を削る思惑があったのだが、浮いた重量だけ装甲を追加してしまったために 結果として『弓塚』と同じ排水量を持つに至ってしまっている。 また、『弓塚』竣工から6年以上経過して追加起工された『秋葉』の機関は、機関技術の進歩によって 小型軽量化された新型を搭載しており、『弓塚』のそれよりも小さなモノに落ち着いている。 ちなみに『秋葉』は戦後の軍艦ヲタクの間では、姉妹艦に比べてペタッとした外観から『ナイムネ令嬢』 という、もしも『秋葉』に意思があったら確実に怒号を上げかねないような愛称で呼ばれている(笑)。 A『神咲』型砲撃軽巡洋艦

”『神咲』型” 神咲一灯流。
『神咲』級砲撃軽巡洋艦 全長195メートル   全幅18.8メートル 基準排水量 公式発表8200t 実測13000t 最大速力 35.5kt 機関出力4基4軸150000ps 乗員数 780名 航続距離 18ktで1万海里 武装 60口径15.5センチ砲   3連装3基 9門(前部砲塔群)         同          連装3基 6門(後部砲塔群)    40口径12.7センチ高角砲  連装4基 8門    25ミリ機銃         3連装2基 6門       同            連装6基12門 同型艦 1号艦『神咲』 起工・昭和7年2月27日 竣工・昭和9年 8月19日     2号艦『陣内』 起工・昭和7年5月 4日 竣工・昭和9年12月13日 先の『弓塚』級が『艦隊指揮能力』のみを卓越させた単機能艦なのに対し、この『神咲』級は 『砲撃能力』を特化させた艦である。 設計に当たった平賀博士は、軍令部の要求案を概ね了承したものの、『魚雷を搭載する』事にだけは 頑として反対した。博士は『妙高』を設計した際にも同様の提案をしたのだが、その時は外遊中に 設計を変えられてしまうという、言わば反則のような手段で却下されていた。 今回こそは――という博士の強い意思を聞き入れ、用兵者側も渋々これに応じた。 『神咲』級の設計は順調に進み、昭和7年2月には1号艦が起工された。 本艦の特徴は、その変則的な主砲配置にある。 3連装砲塔と連装砲塔の混載は、平賀博士のお決まりパターン(?)である。戦艦『金剛』の代艦 計画での、平賀博士の私案においても、主砲は3連装と連装の混載であった。 それにしても、3連装砲塔全てを前部甲板、残る連装砲塔は全て後部甲板――という配置は、過去も 未来においても、恐らくはこの『神咲』級だけではなかろうか。 『神咲』級における『単機能』は、敵艦に撃ち勝てるだけの『主砲力』である。 搭載している3年式15.5センチ砲は極めて優秀な艦載砲で、命中率も高かった。この砲は本来、 『弓塚』級のために開発された新型砲で、あまりにも出来が良いという理由で『神咲』にも採用され た経緯がある。最大仰角55度、俯角10度、最大射程は2万7400メートルである。 『神咲』級はその高速力と砲撃力を持って、重巡部隊と共に先陣を切る役割を果たす事を期待された。 B『千堂』型重雷撃軽巡洋艦

”『千堂』型” 浮気したら切腹よー(違
『千堂』級重雷撃軽巡洋艦 全長160メートル   全幅14.9メートル 基準排水量 公式発表5300t 実測5800t 最大速力 36kt 機関出力4基4軸100000ps 乗員数 463名 航続距離 14ktで6500海里 武装 60口径15.5センチ砲   連装 1基 2門    40口径12.7センチ高角砲 連装 2基 4門    25ミリ機銃         連装 6基12門    61センチ魚雷発射管    4連装14基56門(次発装填装置未装備) 同型艦 1号艦『千堂』 起工・昭和6年11月22日 竣工・昭和8年12月13日     2号艦『仁村』 起工・昭和7年 1月17日 竣工・昭和9年 2月 6日 一見して察しの良い方は気づかれた事と思うが、『千堂』級軽巡は5500t級の拡大発展型、即ち、 実の子孫ともいうべき艦である。その設計においては5500t級の設計が多数流用され、いささか 古めかしいイメージを作り出している。 本艦の特徴は何と言ってもその特殊な兵装である。 片舷28門、両舷合わせて56門もの魚雷発射管を装備した艦は、後にも先にも本艦だけだ。後に 5500t級の何隻かが同様の重雷装艦に改装されたが、それでも56門には及ばなかった。 そしていざ艦隊決戦の際、水雷戦隊を率いて突撃し必殺の雷撃を――それが本艦の全てである。 C『椎名』型対空軽巡洋艦

”『椎名』型” 関西製って事は,藤永田造船所謹製?
『椎名』級対空軽巡洋艦 全長160メートル   全幅14.9メートル 基準排水量 公式発表5300t 実測5600t 最大速力 36kt 機関出力4基4軸100000ps 乗員数 463名 航続距離 14ktで6500海里 武装 40口径12.7センチ高角砲 連装 9基18門    25ミリ機銃         連装 4基 8門 同型艦 1号艦『椎名』 起工・昭和8年 5月26日 竣工・昭和10年 8月29日     2号艦『槙原』 起工・昭和9年 2月12日 竣工・昭和11年 3月17日 『椎名』級は、艦体設計自体は『千堂』級と同一のものである。 違うのは、兵装。 『椎名』級に要求された『単機能』は、『対航空機戦闘能力』である。 だが、考えればこれは物凄い事であった。『椎名』級はまさに、世界初の正式な対空戦闘専用艦艇 なのである。帝国海軍は自覚の無いまま、世界海軍史上初の快挙を成し遂げていたのだ。 『椎名』級は掛け値なしの対空戦闘専用艦であり、対艦戦闘は殆ど考慮されないままだった。 用兵者側も完全に設計陣任せになっていたための事態であったが、結局この事が問題になる事は なかった。 D『長谷川』型偵察軽巡洋艦

”『長谷川』型” 千寿院よいまいちど〜
『長谷川』級偵察巡洋艦 全長138.25メートル   全幅12メートル 基準排水量  公式発表3750t 実質3850t 潜水時排水量 7050t 最大速力(水上/水中) 37kt/6.9kt 機関出力 資料不明 乗員数 168名 航続距離 資料不明 武装 14センチ砲      単装2基2門    61センチ魚雷発射管 3連装2基6門(後に撤去)    艦首固定式魚雷発射管    6基6門 同型艦 1号艦『長谷川』 起工・昭和9年10月某日 竣工・昭和13年吉日 この『長谷川』級偵察軽巡洋艦なる艦に関しては、実は明確な資料は残されてはいない。 ただ設計者の1人の日記によれば、この艦の設計案はある日突然、紛れ込むようにして発見された ものであるという。そして何だか分からない間に艦政本部に持ち込まれ、何だか分からない間に 採用され、何だか分からない間に建造されていた、というのが、最も真相に近いものであるようだ。 見ても分かるように、『長谷川』級は軽巡洋艦とは名ばかりの『潜水艦』である。 但し、建造に際しては軽巡の残り建造枠をフルに使って作られている。故に何故だか『軽巡洋艦』に 分類されている。何とも珍妙な運命の星の下に生まれ落ちた艦であると言えよう。 ちなみに、世界最大の潜水艦でもある『長谷川』は、開戦と同時に真珠湾へと偵察任務に出撃したが、 そのまま連絡を絶っている。 その最期は今もまだ解明されていない。