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■陸軍新中戦車計画 日本陸軍には、次期主力戦車の開発計画が三つ進行していた。 昭和17(1942)年から始まった47ミリ砲装備の新中戦車甲(チト)、 57ミリ砲を固定戦闘室に装備する駆逐戦車乙(チリ)、新戦車中戦車丙(チヌ)の計画がそれである。 新中戦車計画は、長砲身75ミリ砲を装備したチリと同一の車体を利用した長砲身105ミリ砲を備えたホリを中心とした 新戦術(ロングレンジからホリが敵戦車を叩きチリが接近攻撃するのを援護する)として日々悪化する戦況に陸軍の期待をうけ継続されつづける。 また、チトもチリと同一主砲を装備、チリに対する補助戦車として開発継続が決まった。 チリにとってのホリと言うべき自走対戦車砲としてチトをベースにした105ミリ砲装備のカト計画も立てられた。 今回の中戦車は新中戦車丁計画とされ、符丁はチルとされた。(以後新中戦車丁(チル)をチルと略す) チル車は砲戦車の援護無く単独で欧州戦線に登場した新世代の大口径砲搭載戦車に対しえる将来の主力戦車として、計画されることになった。 日本陸軍の開発能力ではさらに新しい計画を平行して行うことは、全体の計画に影響を与える懸念もあったのだが それ以前の計画とは別に、さらに先を見越した計画として独立することになった。 ■主砲 チル車の主砲はホリ砲と呼ばれる105ミリ加農砲を戦車砲として改造したものを搭載すると予定されていたが 陸海軍共同の決戦戦車として開発されることになったため海軍が12.7cm高角砲を提供。試製13センチ戦車砲として開発改造がなされることになった。 半自動装填装置により装填時間の短縮が可能となったがその分砲室容積を必要とし、弾体の大きさもあって砲塔は大型化した。 しかしながら127ミリ戦車砲を旋回砲塔に装備した戦車は開発開始当時どこの国にも存在せず、世界最強の火力を持った次期主力戦車としての期待は大きくなっていった。 ■砲塔 防御的見地からして、砲塔は小さく被弾けいしの良好なものとすべきであったが、主砲を127ミリ砲としたために大型化を余儀なくされた。 試製十三糎戦車砲は自動装填装置を備えており、主砲の支点から後方に広くスペースを設ける必要があった。 このためチルの砲塔は幾度かの試行錯誤の結果、ドイツのティーガーUのように車体上部のほとんどに被さるほど大きなものとなった。 砲塔は大きくなったのだが、内部スペースは127ミリ砲弾の搭載スペースに食われ従来の日本戦車の特徴でもあったカンザシ式の機銃搭載は見送られた。 大型大重量化した砲塔の旋回速度は固定機銃に戦果を期待できるほどの速度とは思われず、機銃の用途も歩兵制圧よりも対空戦闘に重きが置かれ始めていたので キューポラに対空戦闘用に機銃を取り付ける旋回可能なバーが設けられた。機銃架には13ミリ機銃が装備されることになった。 ■装甲 当初の要求重量の35トンを満たすためには砲塔正面以外を10ミリ〜35ミリの自走砲並みの装甲で甘んじねばならず、 欧州の新型戦車に対抗するには不十分であるとして、装甲については大きく変更が行われた。 装甲は砲塔正面で100ミリ(防盾厚保を含む)、側面62.5ミリ、上面37.5ミリとされ計画中の75ミリ砲搭載の対チリ車比25%増。 車体にも同様の装甲が施されることになり、重量は48トンに増加する見込みとなった。しかしこれでも欧州の新戦車に対抗するには十分とはいえなかった。 ■発動機 チルの重量増加は陸軍側に打診された。国内インフラを考えると48トンの戦車の運用は困難であるが、 対戦車戦闘に決定的な能力をもつと予想され、さらに将来の主力としての能力を考えると「重量増加もやむなし」と言う回答を 得た。しかし、時速40km以上の速力は確保することが条件とされた。(どこでその速力を発揮するのかは定かではないが・・・。) その実現のためにはチトの100式ディーゼル400馬力では全く論外、チリのBMW改造800馬力エンジンでさえ力不足に感じられた開発陣が 白羽の矢を立てたのが三式戦闘機のハ40であった。しかし、飛行場でさえ満足に整備できない難しいエンジンを前線で整備運用することの現実性を鑑み、 開発側は再度のエンジン選定を行うことになった。 ■車体 防御力アップと重量軽減を目的に砲塔・車体は圧延溶接を多用することとされた。その結果直線的なフォルムを持つこととなった。 また車体正面にも傾斜装甲が採用されたため、副武装に予定されていた37ミリ砲は搭載を見送られ、7.7ミリ機銃のみとされた。 ■駆動系 チルの駆動系にはそれまでの日本陸軍のサスペンションとは全く違う方法が採用された。 九八式軽戦車Uで実験的に採用したクリスティー式の大型転輪と大阪造兵局で試作されていたホル車の後輪駆動と両側ガイド式の履帯である。 独ソの新戦車の大型転輪を参考に試作を行い、車体のみの試験運用での良好な結果を得て、大型転輪は車体側面の防御にも一役果たすこと、 製造工数を減らす効果もあることから採用とされた。 また、この方式を採用することにによって砲塔の大型化による車高の上昇を抑えることができた。 ■計画の変更 チル車の計画が大きく変更されたのは昭和19年に入ってからであった。 日々悪化を続ける戦局がここにいたりチル車を開発する力を日本陸軍から奪っていっていた。 新中戦車として先行開発されていたチリ車の完成もおぼつかない状態で、チル車計画もここへきてエンジン選定、 クリスティ式懸架装置開発に遅滞をきたし、事実上計画は頓挫した。 米軍による本土爆撃が今後拡大されていくことは火を見るよりも(実際には陸海軍指導部が想像する以上の火を見ることになるのだが)明らかであり、 陸海軍ともに防空能力、迎撃能力の強化に遅まきながら邁進することとなった。 陸軍は高射砲の大量配備と本土決戦戦力の拡充保存、新型迎撃戦闘機開発に奔走。 その中で新たに新計画がたてられた。大口径砲の自走化を進める陸軍部内では高射砲もまた例外ではなく、高射砲を自走化する計画が立てられたのだが、 大口径高射砲を搭載する車体はすでに新中戦車として成立しつつあったチリ車の車台を使用することとなったが、 新設計の高射砲の実用化はすでに開発能力がオーバーブロー、単独では果たしがたいということがわかっていた。 海軍はマリアナ・フィリピンで事実上海上戦力を失い、海軍の海軍たる本質を喪失していた。 海軍は本土決戦にセクショナリズム的な活路を見出すべく局地戦闘機や特殊潜航艇の開発を急いだが、 同時に本土決戦での決定的な役割を担うべく陸戦隊の強化拡充を画策した。 海軍は陸海共同開発(とはいえこの段階までは89式高角砲の提供しかしていなかったのだが)のチル計画と 自走高射砲戦車計画について興味を示していた。 一度は放棄されかけたチル車計画は海軍の積極的参与によって、海軍の技術者と施設の提供、チル車計画の主導的役割を海軍が担うこと、 チル車の早期実現のためのリストラクチャリングが行われ再生した。 新チル車は海軍主導で対空対戦車両用のものとされ、次のように変更された。 開発の遅れている馴れないクリスティー式を採用した車体を諦め、チリ車と同じものを使用することにした。 搭載砲を海軍の89式12.7糎連装高角砲とし、対戦車能力の飛躍的上昇と同時に対空戦闘をも可能有効にせしめることとした。 射撃指揮装置搭載の無限軌道車を同行させ対空システムとしてチル車計画を成就させようというものに変更されていった。 当初は海軍の計画変更に失笑していた陸軍だったが計画の変更時にソ連のJs戦車の活躍の知らせが本邦にも届くにいたり、 対抗上陸軍内部で127ミリ砲戦車計画に再び脚光をあび、127ミリ連装砲戦車は日本陸海軍の決戦戦車として開発に全力が傾注された。 ■試作車の完成 チル車の完成は昭和20(1945)年8月に入ってようやく試作車の完成をみた。 試作車両は秘密裏に富士山麓の演習場へと輸送され走行試験、射撃試験を行う予定であったが、分解梱包中に組立工場ごと米軍の爆撃により破壊された。 また、高射システム指揮車はチハ車の車体に海軍の94式射撃式装置を搭載し、有線接続されたチル車6両までを統一指揮できるもので、 追加開発されることになっていた無限軌道式自走電探と組み合わせ、機動力のある防空システムとして本土決戦の切り札の一つとして期待されていたが、 完成を見る前に敗戦をむかえた。 この場でifを語ることは多くの方に失笑を買うことになるかもしれないが、チルシステムの完成はともかくチル車が完成しまとまった数が配備されていたら、 おそらく当時の世界には撃破出来ない戦車は一つも存在していなかったであろう。 ドイツのティーガーを髣髴させる砲塔に高初速の127ミリ砲を双連で装備するチル車の雄姿を思い浮かべてペンを置くこととする。 |
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| 文 / 戦車研究家 出鱈目 筑朗 |
★長い文章を最後までおつき合いくださり感謝します。 また、〆切の魔術師渡部@猫乃手本舗を見限らずに掲載してくださった胃袋3分の1氏に感謝します。 ところでみなさん、僕を覚えていますか?(^−^;) |