| ★ 東洋工業 一式三輪小型自動車 | ||||
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| ●諸元 全長:2.8m 全幅:1.8m 全高:1.4m 重量:698Kg 乗員:4名(運転席1名、中部タンデム座席1名、後部荷台座席2名) 武装:無し 最大速力:時速62km エンジン:東京自動車工業株式(現いすゞ自動車株式会社)DA70 液冷直列4気筒ディーゼルエンジン 出力:55ps/2,600rpm トルク 17k・gm/1500rpm 駆動:後二輪 最大積載量:500kg(牽引:2t) 足ブレーキ: ドラム式後2輪車輪。ペダル位置右 手ブレーキ: ドラム式前輪。レバー位置右ハンドル 変速 前進3段 後進1段 ドアー数:なし ワイパー:なし 解説 ●完成まで 本車は昭和15年8月日本陸軍発令によるものである。 当時陸軍では大陸での活動範囲が広がると共に部隊間での連絡、軽便輸送などに自動車の更なる必要性を感じていたが、高価な自動車を多量に導入することは難しく、また自動車免許を持った兵も多くなかったため、簡単な訓練で利用できる小型で安価な軽自動車を求めたものであった。 東洋工業では当時民生用の小型三輪トラックを製作しており、これをもとに本車を開発することにした。 しかし、東洋工業では陸軍の指定したディーゼルエンジンは製造していなかったために、代表的ディ−ゼルエンジン製造メーカーである東京自動車工業にエンジンの供給を求めた。 当初は牽引車用のDA50(6気筒)を4気筒に改造したものを使用する予定であったが、開発中のDA70(4気筒)が完成の見込みが立っていたのでこれに切り替えられた。 本車の特徴は徹底した簡略化と軽量化が上げられる。車体は溶接鋼管フレームの組み合わせで強度を保っており床板は木製である(エンジンルーム下面のみトタン製)。 後部座席の下には燃料タンクが置かれ、後部座席を取り外すと給油口が見える。 エンジンは中央エンジンルームにあり、エンジンルームの前部にラジュエターをおいた。 構造はラジュエターのすぐ後ろに吸い込み型の冷却ファン、エンジン、エンジンと直結したトランスミッションそしてトランスミッションから直接左右に飛び出したシャフトに左右の後輪がついているものである。 サスペンションは前輪のみで後輪にはなかった。重量あたりの馬力が大きいのに速度や搭載量がそれほど大きくないのはこのためである。重量物を運搬する場合はリアカーを使用することになっていた。 エンジンルーム外版ならびにタイヤカバーなど金属板はすべてトタン製である。 運転席兼中央タンデム座席は持ち上げると取り外す事ができ、点検口となっている。またエンジンルーム左右の外板もその状態で上に引き剥くと工具無しで取り外せる。 座席の裏側にはポケットがついていて工具などを収容できた。座席は牛革張りであるが戦争末期には豚革や鮫革、布製のものも作られた。 操縦はオートバイとあまり代わらないようになっている、 これは当時無免許で乗れるオートバイや自転車とあまり替わらないようにして操縦の軽便化を図ったものである。 変則レバーは左手で操作するようになっておりレバー握りの部分にクラッチがついていて握りながらレバーを操作すれば変速できるようになっている。 変則は前から、後→0(ニュートラル)→1→2→3と表記されていた。 なお車体前部の左足部にもクラッチペダルがあるがこれは停止用で、ブレーキをかけたとき両手両足でふんばればクラッチが切れ、自然に停止できるようにするためである。 再発進時はふんばった状態のまま変則レバーを1(ロー)に入れふんばった足を緩めて、レバーから手を離しながらアクセルをひねれば自然に右手の前ブレーキも離すことになりそのまま発進できる。 クラッチを2つつけたのはこのように操作を簡単にし、操縦時に手足を複雑に使わなくてすむ用にである セルモーターはついておらず、車体右側に大き目のキックバーがあるが、4気筒のエンジンをキックでかけるのは重労働であった。 車体前部にはフロントグラスが設けられたがワイパーはない。雨天時には車体後部から包むように車体上部フレームへと幌を張る事が出来た。ただし側面は開放のままである。 ヘッドライトのカバーは取り外す事ができる。車体後部床下には牽引用のフックがついていた。 前部パネルには速度計はなく、回転計とラジュエターの温度計がついていた。操縦者は針が赤に入らないように気をつけるのみでよかった。 燃料計はタンク給油口の部分にあり、走行中に燃料が切れた場合は手動でリザーブタンクにコックを切り替えるようになっていた。リザーブタンクには全燃料の3分の1が入るようになっていた。 |
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昭和16年10月約一年でこの車両は完成した。乗り心地は大変に悪いものであったが将校用の車両ではなく一般兵が使うものである事(結果的には将校も多用し車酔いに苦しむことになる)、何より非常に安価で操作が簡単なことで本車は採用された。 操縦兵には全くの未経験者でも 「発信は変則レバーを1に入れアクセルを回しながらレバーから手を離す」 「回転計の針が赤に入ったら変則レバーを1段上に入れる」 「ハンドルの右を引っ張れば右に左を引っ張れば左に曲がる」 「止まる時は両手両足のレバーやペダルを握り踏みし、ふんばる」 という教育だけで基本操作ができ、オートバイ操縦経験者には特に教育の必要もなかった。 実戦に配備されると南方で使用されることが多く、空冷式のくろがね製 95式軍用四輪起動車などがオーバーヒートしがちなのに対し水冷の本車はそのような事がなく重宝された。「温度計の針が赤に入ったらエンジンを止めて休む」ですんだからである。 キックレバーでエンジンをかけるのはなかなか難しく、大柄の兵士がいたときはまだしも小柄のものがキックした場合エンジンはかからず、兵は反動で空中に投げ出されるなどしたため、キックはあまり使用されず、もっぱら数人で押しがけされた。 一度エンジンがかかると車体重量に対しオーバーパワーぎみな本車は多少無茶な操作をしても難なく動いた。 本車は単体で利用される事は少なく、大抵リアカーを引いていた。リアカーは兵や武器弾薬、食料などの軽便輸送に大変重宝された。傷病兵をリアカーに乗せ野戦病院に運んだエピソードはあちこちの部隊に残っている。 また野砲を牽引する事もしばしばあった。 中央のタンデム座席はまたがると大股開きになりつらく、またエンジンからの熱気にさらされるため不評であった。やむを得ずここに座る場合もまたがらず、もっぱら思春期の少女のごとく横向きに座る事がほとんどであった。そのためこの席は兵の間では女席と呼ばれた。 また本車は大変丈夫であった。簡素なつくりのため壊れる要素が少ない為でもあるが、ハンドルやエンジンが側面フレームパイプで覆われてる事から横転してもハンドルが曲がったり、エンジンが壊れる事がないからである。 また軽いため横転しても簡単に引き起こせた。 ただし走行中前輪が溝にはまると大きな事故になることが多く操縦者は溝にはまらないよう常に心がけていたという。 また木製の床板が雨季に腐ったり、きのこが生えるなどのトラブルも発生したが、ただの板を張り替えるだけでいいので現地で簡単に修理交換され大きな問題にはならなかった。 このように本車は日本軍の代表的な足となり、輸送、移動、牽引などさまざまな手段に使用され、軍隊生活の中にごく普通に存在するものとなっていった。 日本軍の足となって戦場を、銃後を駆け抜けていった一式三輪小型自動車。あるものはこの車に勝利をたくし作戦情報を持って前線へとむかい、あるものは弾薬や食料を運び、そしてあるものはこの車に命を救われた。 しかし昭和20年終戦・・・陸軍の消滅と共に一式三輪小型自動車も姿を消すと誰もが思った。 だが一式三輪小型自動車は終戦後も資材運搬などで復興の一翼をになっている。セメントや資材を満載したリヤカーを引き、人夫を載せた本車は戦後の焼け跡を縦横無尽に駆け巡り、荒れ果てた国土の回復に努めた。 その後も安価で軽便な輸送手段として使用されつづけ、本格的なモータリゼーションの時代を迎えるまで生産が続けられた。 一式三輪小型自動車が役目を終え生産が終了したのは昭和31年の事であった。 その年七月十七日発表の経済白書にはこう記載されている。 『もはや戦後ではない』と。 ●可能性と限界 操作軽便な軽量車体に大出力という本車のコンセプトは車両の少なかったわが国においては成功し、それなりの役は果たした。 しかし、同時期に米国などで使用していたジープなどに比べるとかなり見劣りするのは事実である。 本来ならもっと重量があって本格的なディーゼル自動車を生産したほうが汎用性は高かったであろう。 しかしわが国の工業的な限界と、国民の技術レベルを考えると後者は生産、整備、操縦などすべてにおいてもてあましぎみになると考えられる。 このような車両が活躍したのは今日発展途上国でモーターシクロなどが活躍しているのと同じく、わが国の工業レベルに準じているものといえる。 本車の限界が当時のわが国の限界であったといってもいいすぎではないだろう。 出田出版 月刊「タンクマガジン」4月号増刊 「帝国陸海軍の非戦闘車両」より抜粋。 作者たわごと 昭和16年、一台の日本製汎用車両登場した。 東洋工業一式三輪小型自動車。完成後たちまち陸軍内を席巻し、戦後も生産されつづけ、三輪車としては日本一、140万台の売り上げを記録した伝説の名車である。 開発の陰には、日の当たらない部署で仕事に打ち込んでいた自動車マンたちの執念があった。これは全くの手探りで開発に挑んだ超軽量汎用三輪車が、世界的評価を獲得するまでの知られざる自動車マンたちのドラマである。 エーというわけで島風高雄です。 ついに陸海空3つのお題すべてに投稿しちゃいました。 今回の研究のひとつは操作をいかに容易にできるかでした。この時代運転免許を持っている人は大変少なかったと聞いてます。 私の母方のおじいさん(故人)も北海道の開拓農家の出身で自作農だったため、農作物運搬のため自動車免許を持っていて、それで兵隊に取られたとき将校付きの運転兵になって戦地には行かずにすみました。 このような時代背景の中で未訓練者でも扱いが容易な自動車という事でしたので、運転のどこが難しいか考えてみました。 私は自動車の運転でみな躓くのは変速と車両感覚じゃないかと思いました。 今回は三輪車でしかも運転席を中央配置にしたのは車両感覚が素人でも大丈夫なようにです。四輪で片側配置だと教習所で皆さんやるのは縁石乗り上げや幅の取りすぎだと思います。 これは右ハンドルから左ハンドルの車に乗り換えてみてもわかるともいます。この感覚をつかむのには結構なれないといけません。 また、次にやるのはクラッチの切り替えミスです。空ぶかしやクラッチがうまく切れなくてエンストしたりギアが入らなかったりしたり、また停車と同時にエンストしたり足で半クラッチ入れれなくて坂道発進で後ろに転がってその後急発進したりしませんでした?またバイクになれてない時、手と足を一緒に動かしながらの変則も失敗しませんか?え、私だけ(^^;; しかしこの時代にオートマ車だせないし、カブみたいなロータリー式のクラッチ無しの変速もまだ無理かなぁと思いまして、握るところにクラッチがある変則レバーと、停車用の左足クラッチという組み合わせを考えました。 これなら半クラッチ操作も指でできるから足でやるより簡単でしょうし、変速時には握るだけでクラッチ切れるし、止まる時はふんばるだけと思ったんですけれどいかがでしょう? 停車用はブレーキと連動する停車用クラッチという手も考えたのですがこの手の車両でその辺を複雑化するのは故障の元だし整備が大変かなぁと思いまして停車用クラッチにもペダルをつけました。 という事で今回の車両は三輪車になりました。三輪車ならダイハツかマツダ(東洋工業)ってことで東洋工業の出番になりあんなに世話になったいすゞはエンジン提供だけになっちゃいました(^^;; しかしこのエンジンではかなりオーバーパワーと思い、そこは逆に有り余るパワーで下手な操作もカバーすることにしました。セカンドどころかサードからでも発進できそう。 リアカーを引くのは最初から狙ってましたのでパワーがあまってるのはそのためにも有利でした。 軽量化のためにはスケルトン構造、パイプフレームで箱型にすればシャーシを重くてがっしりしたものにしなくても大丈夫。床はパイプの上に板張りでイイやって感じです。 しかしなんだか、はっきり言ってダサくて田舎っぽい感じにまとまったなぁ(^^;;リアカー引くんじゃなくて車体そのものがリアカーのエンジン積んだみたい・・・ 描き方は金属っぽい光沢を出すため基本色の上にオーバーレイのレイアーはって影は主に50%グレー、反射は白でエアブラシツールで吹きかけてみました。いかがでしょう? タイヤだけはうまくいかなかったので自動車の写真から流用してます。 最期に戦後のエピソードは中嶋みゆきの「ヘッドライト・テールライト」をかけながら読んでください(^^;; それではご意見ご批判のほどよろしくお願いします 2001.4.12 ![]() 島風高雄 |