IJN, Battle Ship, <OWARI>class
日本海軍 戦艦〈尾張〉型


尾張竣工時(皇紀二六〇〇年観艦式参加時)
■ Profile
 第一次欧州大戦による戦争景気で大きく国力を伸張した日本は、東アジアにおける覇権を確保するために強大な海軍軍備整えようとした。これがいわゆる「八八艦隊計画」である。
 当時、アメリカが進展させていた「三年艦隊計画」に対抗して立案されたこの計画は、高速戦艦で編成された強力な打撃部隊で敵艦隊を撃破することを念頭に計画された代物であった。
 しかし、戦艦以下多数の高性能な新造艦を建造する国力が当時の日本にはなく、最終的には一九二一年のワシントン軍縮条約に調印することになった。
 その後、ワシントン条約で制限対象外であった巡洋艦以下の艦船についても、一九三〇年に第一次ロンドン条約として締結している。

 だが、軍縮による平和はあったものの、日本国内の景気は欧州大戦終結による戦争景気の終焉とそれに続く大恐慌によっていっこうに回復することはなく、日本国民の中に植民地の拡大による景気回復を望む気運が起こるようになる。こうして、日本は大陸における圧力を強化していき、中国と対立を深めることとなる。

 世論による後押しを受けて一九三一年九月中期、計画された偶発的紛争──満州事変が中国関東部で発生、関東軍一万は鉄道を利用し張学良軍に対し電撃的な進撃を開始した。
 これによって関東軍は新京、長春を瞬く間に陥落させることに成功する。
 しかし、当時張学良は一〇万の兵とともに河北へ駐屯しており、この事態にすかさず反撃を企図する。同年九月末、即応状態にあった三万五千の兵を引き連れた張学良は急ぎ満州に帰還、兵力にものを言わせて強引に長春を奪還してしまったのである。
 この行動に対し、日本軍は慌てて朝鮮軍一万を北上させたものの、河北に駐屯する張学良軍の残余兵力が続々と前線に到達、さらには各地で日本軍によって各個撃破された満州在住の諸部隊も再集結を始めたため、完全に戦線は膠着状態と化してしまったのである。
 この段階で日本に出来ることは二つ──このまま日中全面戦争に突入するか、満州を捨てるか──しかなくなった。
 当然、不況のために軍縮条約の締結に血道を上げていた当時の内閣が、全面動員を行うことになる対中全面戦争など出来るはずもなく、日本政府はすべての責任を“独断で暴走した”満州軍に押しつけることで国民の不満を剃らすこととなった。

 満州事変の失敗によって、中国という市場を失ってしまった日本は、やむなく内需の拡大を計るべく、大幅な軍事費の削減を慣行する。これには海軍もまた例外ではなく、艦船の新造や改装のための予算を手に入れることが難しくなってしまった。
 これに対して艦隊派は陸軍統制派と結託して一九三四年二月二六日に大規模なクーデターを敢行したものの、最終的には鎮圧され、軍部より過激な人間達が完全に排除されることとなる。

 一九三五年一月、米内光政内閣総理大臣らによって、日本は第二次ロンドン条約に調印した。

 一九三七年二月一一日。天長節のこの日、久方ぶりに新造予算を獲得した日本は二隻の戦艦を起工した。これが尾張と伯耆である。軍縮条約によってこれまでさんざん大型艦関連の予算は制約され続けてきた分、この二隻に対する海軍の期待と愛情もまたひとしおであった。
 幸いなことに、ようやく長く続いた不況も収束を見せ始め(それは、大陸での国共内戦の激化に伴う戦争景気によるものであったが)、議会が新造艦の整備をようやく初めてもよいと認めたからであった。

 一九三七年以前の日本における海軍戦力は、少々歪なものであった。
 それは、予算制限による訓練の大幅な減少や、艦を酷使する──つまり、補修に金のかかる──長期航海などがほとんど行えなかったため練度の低下が著しかったためである。
 さらに、せっかく建造した艦も航海費用が下りなかったためすぐに使える戦力として当てに出来なかった(反対に、航空機は整備にあまり予算がかからず、結果として戦力として有効だと考えられていた。だからこそ、航空戦力にかかる期待は大きいものがあった)。

 このような状況下において、高くない艦隊戦力の補完のために航空機による攻撃こそが重視され、日本海軍は大攻、中攻といった陸上攻撃機の開発・整備に力を入れるようになる。こうして完成したのが九五式四発大型陸上攻撃機と九六式双発中型陸上攻撃機である。これらは新開発の九一式航空魚雷改を搭載し、いざ事が起これば敵艦隊に痛撃を与えられるであろうと考えられていた。

 しかし、航空機による戦艦戦力の斬減が可能ならば、敵もまたそれが可能という事である。
 一九三五年、アメリカでB17の開発に成功し、さらにその機体はアメリカ海軍でも採用されることが伝えられた。
 この出来事に日本海軍は驚きあわてふためいた。B17のような大型爆撃機を艦隊上空に進入させてしまえばとんでもない被害を受ける可能性は極めて高いと思われたからである。
 さらに、B17が防御力に優れたきわめて有力な航空機であることが大問題とされた。

 日本海軍の対抗手段は二つが考えられた。きわめて強力な火力を持った戦闘機を一刻も早く完成させること。そして、出来る限り遠距離で、しかも強力な火力を投射可能な艦載高角砲を開発すること。

 だが、すでに12.7センチ級の高角砲を有する日本海軍に、これ以上の高角砲が必要なのか?
 このことで連日もめた海軍であったが、最終的にはなんとか一つの結論が導かれた。
 一五センチクラスの全自動両用砲を開発し、それを大型艦船に副砲として搭載する。そうすれば、高角砲の重量は副砲が代用してくれるので軽量化されるし、副砲自体の発射速度も大きいので水上戦闘でもきわめて有力である(それは、艦隊決戦時、主力艦の護衛艦艇を少なくできるという福音もある)。
 上手くやれば、この15センチ両用砲は軽巡にも主砲として採用すら可能であろうと都合の良い考えまで出たのである。

 この案が考案された当時、同クラスの両用砲はフランスではリシュリューで採用をされていたし(カタログ上では)、アメリカ海軍も開発中らしいという動きをつかんでは今更やめられるはずもなく、三年式15.5センチ砲を基本に開発を開始した。

 だが、尾栓型式から新規設計しなければならなく、作業は困難を極めた。

 そして、問題はそれだけではなかった。

 日本艦で初めて四連装主砲を──それもいきなり大口径砲で──採用したため、揚弾型式から始まってあらゆる事で問題が引き起こされた。
 弾が上がってこないなんていうのは当たり前で、相互射撃以外では爆風がひどくて打てないとか、砲塔が回転しないなどの欠点が露呈した。

 さらには、巡航時の大航続力を得ようとしたため機関にディーゼルと高圧蒸気タービンを選択したことがたたり、初期では満足に動くことが出来なくなってしまった。

 その上、船体構造にも電気溶接の大規模な採用により大幅に軽量化が図られたものの、予算制限により巡洋艦や駆逐艦などの正面軍備以外の艦船(特に、艦隊随伴型補給艦や水上機母艦などの大型艦)を1930年代にほとんど獲得出来なかった海軍には大規模な電気溶接や大型ディーゼル機関の開発経験が浅かったのが響いていた。

 そのため、新戦艦の建造は起工直後からいきなり暗礁に乗り上げる事になる。

 だが、海軍はようやく手に入れたこの艦に対し国民へアピールするべく、起工日の時点で皇紀二六〇〇年の観艦式でお披露目を行うと宣言してしまっていた。
 まさか、今更完成しそうにありませんと言い出すことは出来なかったのである。
 このため、とりあえず二番艦の伯耆は再設計のため建造を大幅に送らせる一方、尾張には何とかだましだましで動けるよう建造が進められた。

 ところが、建造中の尾張をさらなる不幸が襲う。
 一九三七年に起こった第四艦隊事件である。
 訓練予算(及び、補修費)が少ないため、今まで荒天の中での訓練を控えてきた海軍であったが、ここに来ての予算増額で気合いを入れて出撃したところ、いきなりトップヘビーにより駆逐艦と空母が波によって損害を受けてしまった。
 さらには、新型駆逐艦は機関が壊れ(臨機調事件)、その調査も当たらなければならなくなってしまう。

 真っ青になったのは海軍首脳部である。一九三七年末に纏められた資料によると、電気溶接の不備による艦の補修や、トップヘビーによる転覆の心配、さらには機関の異常振動の修理などにより、ここ五年間で満足に動ける艦船は赤城加賀の二空母、旧式戦艦と初期の重巡、そして5500tクラスの軽巡に、初期型の吹雪級のみという結論が出た(出来うるなら吹雪級は全艦をドック入りさせる必要があると結論づけられていた)。

 そんな大層な時期に、尾張は完成した。限りなく未完成な船として。
 二六〇〇年八月の観艦式は凄惨なものとなった。
 全力でうなりを上げる機関。しかし、それでようやく巡航する有様。お召し艦より遅いため、観艦式の基準速度が制限されてしまったのである。幸いなことに、観艦式中には問題を起こさなかったこともあり、かろうじて海軍の威信は保たれたものの、だからといって問題が解決しはしない。

 艦隊に編入されてからもひどいものであった。訓練で舵を切ると船体が軋む。両用砲はすぐ壊れる。あまつさえ、対航空機訓練時にはディーゼル機関が止まり単なる的になる……。さらには高圧タービンも下手をすると高温蒸気を吹く危険性があり、「尾張温泉」と将兵からは揶揄されるようになる。
 そのため、航空主兵派のある大尉は「艀の役にすら立たない戦艦」といい、対英援助艦隊をにらんで連合艦隊司令長官に任命された堀中将は対独開戦について意見を訊ねられたときに「一、二年は(尾張の調子が悪すぎて)暴れられません」と米内首相に言ったと伝えられている。そう、既に欧州では戦争が勃発していたのに──イギリスとアメリカは満足行く条約型戦艦を建造してるのに、未だ日本は持っていないのである。

 結局、国民の期待を裏切り(新聞各社はこぞって尾張が旗艦であろうと書き記していた)唯一第二次改装を行われていた榛名を旗艦として、第一陣として欧州に派遣されたのは、戦艦二、空母一、巡洋艦五、駆逐艦一八であった。

 しかし、さんざん文句を言われた割には、一九四四年末には二度目のドック入りから出拠した尾張はようやく額面通りの戦力として動けるようになった。ちなみに、のこる同型艦二隻もなんとか竣工していた。ただし、どこから見ても同型艦に見えない風袋であったが。
 こうして動けるようになった尾張は早速欧州の反攻作戦のために地中海に派遣される。
 そして、一九四五年四月。イタリア沖で対地砲撃を終え離脱中、運悪く誘導爆弾を搭載した大型航空機によって航空攻撃をうけ、副砲弾庫が誘爆し、世界で初めて航空機によって沈没したのである。

伯耆竣工時。ちなみに、側面副砲用の砲弾はベルトコンベアーによって前後の副砲弾庫から融通される仕組みになっている(尾張も同じ)。そのため、実戦では上手く作動しないことが多かった。このような機構を採用したのは、側面に副砲弾庫を機関スペース的な問題からとれなかったため。なお、トップヘビー対策に艦橋の小型化や通称「伯耆坂」を採用している。ちなみに、副砲は結局平射砲とされ、別に高角砲を搭載。建造中に度重なる修正により船体がつぎはぎだらけとなり、計画速力を2ノットも遅くなった。そのため、戦隊行動をとることが少なかった。

紀伊竣工時。伯耆でも完全にトップヘビー問題が解決しなかったため、1ランク高さを減らした。そのため居住性は駆逐艦より悪くなっただけでは飽きたらず、凌派性も悪くなった。特に艦首が常に波をかぶるため大型の波よけを装備するハメになった。第二次世界大戦によって条約が無効となったため、3連装41センチ砲を搭載している。なお、副砲は両用砲へと復活した。ただし、側面の補充機構は相変わらずベルトコンベアーを採用。
尾張
 一九四四年に戦力化。イタリア近海で航空攻撃により、戦没。
伯耆
 一九四四年、戦力化。その後、北欧戦域にて運用される。戦後は各種実験装備艦とされた後、近代化改装を受けることなく核実験により内南洋にて廃棄。
紀伊
 第二次大戦中、損傷を受けた三番砲塔を撤去され防空戦艦に改装。戦後は航空戦艦に改装。その後、ミサイル戦艦へと再改装される。

■ Data
(太平洋戦争開戦時・図は新造時のもの)
基準排水量: 36826t 満載排水量: 42613t
全長: 238.0m 全幅: 32.0m 喫水: 9.0m
機関: 艦本式オール・ギヤード・タービン2基2軸
(紀伊は反動式タービン採用)
艦本式ディーゼル2基2軸
出力: 136000hp(計画時)
最大速力: 29.2kt
(伯耆は28kt、紀伊は30kt)
航続力: 7870M/16kt
主要兵装: 45口径九六式35.6p四連装砲3基
60口径九八式15.5p連装両用砲8基
65口径一式40o機銃32門(四連装8基)
70口径九六式25o機銃36門(四連装4基、連装4基、単装12基)
水上機4機(格納庫内に。露天をくわえるともう4機以上が追加可能)
同型艦: 〈尾張〉〈伯耆〉〈紀伊〉

 もし日本が条約を遵守していたら、を考えてみた日本海軍の3万5千トン型戦艦です。何というか、最悪の戦艦です。使えなかったから、戦争に参加しなかったというのは、はたしてどうか……。
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