IJN, Battle Ship, <OWARI>class
上から〈紀伊〉〈伯耆〉〈尾張〉
- ■ 歴史──すべての始まり
第一次欧州大戦による戦争景気で大きく国力を伸張した日本は、東アジアにおける覇権を確保するために強大な海軍軍備整えようとした。これがいわゆる「八八艦隊計画」である。
当時、アメリカが進展させていた「三年艦隊計画」に対抗して立案されたこの計画は、高速戦艦で編成された強力な打撃部隊で敵艦隊を撃破することを想定した非常に革新的なプランであった。
しかし、戦艦以下多数の高性能な新造艦を建造する国力が当時の日本にはなく、一九二一年のワシントン軍縮条約に調印することで日本は平和を獲得することを選ぶ事になった。
その後日本は、ワシントン条約で制限対象外であった巡洋艦以下の艦船についても、一九三〇年に第一次ロンドン条約として締結した。
だが、軍縮による平和はあったものの、日本国内の景気は欧州大戦終結による戦争景気の終焉とそれに続く大恐慌によっていっこうに回復することはなく、日本国民の中に植民地の拡大による景気回復を望む気運が起こるようになる。こうして、日本は大陸における圧力を強化、中国との対立を深めることとなる。
世論による後押しを受けて一九三一年九月中期、計画された偶発的紛争──満州事変が中国関東部で発生、関東軍一万は鉄道を利用し、満州軍閥──張学良軍に対して電撃的な進撃を開始した。
事変の初動が完全な奇襲になったこともあり、関東軍は新京、長春を瞬く間に陥落させることに成功する。
しかし、当時張学良は主力である一〇万の兵とともに河北へ駐屯しており、満州での事態に対しすかさず反撃を企図した。
同年九月末、即応状態にあった三万五千の兵を引き連れた張学良は急ぎ満州に帰還、兵力にものを言わせて強引に長春を奪還してしまったのである。
この行動に対し、日本軍は慌てて朝鮮軍一万を北上させたものの、河北に駐屯する張学良軍の残余兵力が続々と前線に到着し始めており、さらには各地で日本軍によって各個撃破された満州在住の諸部隊も再集結を始めたため、完全に戦線は膠着状態と化してしまったのである。
この段階で日本に出来ることは二つ──このまま日中全面戦争に突入するか、満州を捨てるか──しかなくなった。
当然、不況のために軍縮条約の締結に血道を上げていた当時の内閣が、全面動員を行うことになる対中全面戦争など行うはずもなく、日本政府はすべての責任を“独断で暴走した”満州軍に押しつけることで国民の不満を逸らすこととなった。
満州事変の失敗によって、中国という市場を失ってしまった日本は、やむなく内需の拡大を計るべく、大幅に軍事費を削減する。これには海軍も例外ではなく、艦船の新造や改装のための予算を手に入れることが難しくなってしまった。
これに対して艦隊派は陸軍統制派と結託して一九三四年二月二六日に大規模なクーデターを敢行したものの、「自ら軍を率いて」とまで明言した昭和天皇の発言を受けたクーデターに賛同しなかった陸海軍部隊によって最終的には鎮圧され、軍部より過激な人間達が完全に排除されることとなる。
一九三五年一月、米内光政内閣総理大臣らによって、日本は第二次ロンドン条約に調印した。
■ 祝福と、絶望と──新戦艦の建造
一九三七年二月一一日。天長節のこの日、久方ぶりに新造予算を獲得した日本は二隻の戦艦を起工した。尾張と伯耆である。世界的な軍縮気運によってこれまでさんざん大型艦関連の予算は制約され続けてきたが、このたび金剛型の代艦としてようやく建造される事になったものである。
これは、ようやく長く続いた不況が収束を見せ始めていたことが大きく(それは、大陸での国共内戦の激化に伴う戦争景気によるものであったが)、議会が新造艦の整備をようやく認めたからであった。そのため、この二隻に対する海軍の期待と愛情もまたひとしおなものがあった。
同艦の建造が未だ始まっていなかった一九三七年以前──いわゆる第1次ロンドン条約下における日本海軍の実力は、条約が結ばれる前よりも大幅に低下していた。
それは、満州事変が失敗して以降の予算制限によって、艦を酷使する──つまり、補修に金のかかる──長期航海や荒天下での航海がほとんど行えなかったため練度の低下が著しかったためである。
また、予算の確保が難しくなった反動として、とかく正面軍備の拡充(維持)に全力が挙げられたため、補助艦予算はほとんど獲得されることが無く、結果としてマル1、マル2計画において各種の水上機母艦や艦隊型輸送船の建造がほとんど行われなかった。
さらに、せっかく建造した艦も維持費用がひねり出せずに多くは予備艦としておかれ、すぐに使える戦力として当てに出来なかった(反対に、航空機は整備にあまり予算がかからず、結果として戦力として有効だと考えられていた。だからこそ、発展著しい航空戦力にかかる期待は大きいものがあった)。
そういった状況下にあった日本海軍は、その反動として、艦隊全体の戦力向上のために新戦艦に多大な性能を求める事となる。そのため性能は、最大速力30kt以上、14インチ砲12門に水偵4機、ヴァイタルパートは四一センチ対応、というけた外れなものが必要とされた。しかも、同時に、高い副砲火力と対空能力が求められていた。
これは、元々この艦が金剛型の代艦として計画されていることと無関係ではなかった。強力な副砲火力や高速が必要とされていたのは、同艦が第二艦隊──いわゆる巡洋艦・駆逐艦より成る強力な襲撃部隊において運用されることをその主目的としていたためである(特に、夜戦時における小型艦との近接戦闘を重視したため副砲火力が重視された)。
さて、話は多少戻る。
このような戦略的状況下において、日本海軍では高くない艦隊戦力の補完のために航空機による攻撃が重視され、そのため、大攻、中攻といった陸上攻撃機の開発・整備に力を入れていた。それが、九五式四発大型陸上攻撃機と九六式双発中型陸上攻撃機である。これらは新開発の九一式航空魚雷改を搭載し、いざ事が起これば内南洋の各基地から飛び立ち、来寇するアメリカ艦隊に痛撃を与えられるであろうと考えられていた。
しかし、航空機による戦艦戦力の斬減が可能ならば、敵もまたそれが可能という事である。
一九三五年、アメリカでB17の開発に成功し、さらにその機体はアメリカ海軍でも採用されることがアメリカ大使館海軍武官より伝えられた。
航空機による対艦攻撃を計画していた日本は、この話に急ぎ調査を行う事になる。
そして、この新型爆撃機は九五式大攻よりも爆弾搭載量で明らかに勝り、さらには防御力に優れたきわめて有力な航空機であることが発覚、大問題とされた。
そのため日本海軍はB17のような大型爆撃機を艦隊上空に進入させることはなんとしても避けねばならないとあわてふためくこととなった。
仮想敵国のこの行動に対して、日本海軍は二つの対抗手段を考える事になった。一つは、きわめて強力な火力を持った戦闘機を一刻も早く完成させること。もう一つは、出来うる限り遠距離で、しかも強力な火力を投射可能な艦載高角砲を開発すること、である。
対重爆対策としての制空戦闘機としては、M1921 12.7mm機銃と7.7mm機銃を搭載した九六式艦上戦闘機を経て最終的に20mm機銃を搭載した十二試艦上戦闘機──後の零式艦上戦闘機として完成することになるが、大威力対空砲については直接艦艇建造に関わってくるため紛糾することとなった。
問題になったのは、「八九式ですでに12.7センチ級の高角砲を有している日本海軍にとって、次の高角砲はどのような発展を行うべきか?」ということでもあった。
速射性能を引き上げようと口径を小型化すれば威力減少に直結するため問題があり、かといってこれ以上大型化した場合は取り回しが難しい。かといって、八九式を多数乗せることはスペース的に不可能である。
このことで連日もめた海軍であったが、最終的にはなんとか一つの結論が導かれた。
思い切って15センチクラスの全自動両用砲を開発し、それを大型艦船に副砲として搭載する。そうすれば、高角砲の重量は副砲が代用してくれるので全体的な艦の重量は軽量化されるし、副砲自体の発射速度も大きいので水上戦闘でもきわめて有力である(うまくやれば、艦隊決戦時、主力艦の護衛艦艇を少なくすらできる)。
そして、この15センチ両用砲は当然ながら軽巡にも主砲として採用可能であるため、次世代軽巡洋艦の対空火力対水上火力の大幅な強化が可能となる。
この案が考案された当時、同クラスの両用砲はフランスのリシュリュー級で採用を検討されていたこともあり、決して不可能ではないと考えられていた。何より、予算問題から純酸素を利用した新型魚雷の開発を中止したことから、小型水上艦艇の雷撃力に不安を抱いていた日本海軍にとって砲撃力を飛躍的に強化できるこの案は十二分に魅力的であり、結局はこの案を採用することになる。
こうして日本海軍は既に開発されていた三年式15.5センチ砲を基本に両用砲の開発を開始した。
だが、高角度での機械式装填を可能にするためには装填装置だけでなく尾栓型式や弾薬形式も根本的に別のものを採用する必要があり(段隔螺栓から垂直鎖栓への変更、これは嚢砲から莢砲への設計転換を意味した)、作業は困難を極めた。
自動装填機構の基本的なシステムは八九式で成功していたものの、五インチ砲弾と比べて1.8倍もの重量の砲弾を扱うには圧倒的に問題が大きかった。さらに、揚弾薬系を含め、大重量となる砲塔を、目標に高速かつ良好な精度で安定して旋回・俯仰し追随させるための動力部の開発にも手を焼いた。
最終的には、一つの砲身に対し装填機を広角度用と低角度用の二種類を置くことで強引に解決することになった。しかし、その結果、連装砲の幅は20センチ連装砲塔をわずかに上回るほど大型化してしまった(ちなみに、砲塔の装甲は断片防御のみの25mmであった。これは少しでも重量を減らすための苦肉の策でもあった)。
〈尾張〉計画時
- だが、建造に当たっての問題はそれだけではなかった。
次に問題になったのは主砲であった。
日本艦で初めて四連装主砲を──それもいきなり大口径砲で──採用したため、両用砲と同様、揚弾型式から始まるあらゆる点で問題が引き起こされたのである。
弾が上がってこないなどというのは当たり前で、相互射撃以外では爆風がひどくて打てないとか、砲塔が回転しないなどの問題が次々と発生する事態となった。
これは、四連装主砲を採用した他国でも大同小異の事態であり、別段日本だけの問題ではなかったのであるが、だからといって安堵して良い問題ではなかった。
さらに、巡航時の大航続力を得ようとしたため機関にディーゼルと高圧蒸気タービンのコンバインド方式を選択したことも問題であった。
大出力ディーゼル機関は其れまでの日本海軍で採用されたことが無く、経験不足が大きかったのである。
一応、試作品レベルでの研究はされていたが、其れはあくまで試作品レベルでしかなく、実際に実物の大型ディーゼルを作ってみたら様々な問題を引き起こした。
そのため、完成後も尾張型はディーゼルの不備によって何度もドック入りを行うハメになってしまった。
その上、船体構造に電気溶接を大規模な採用して大幅に軽量化を図ったことも問題だった。其れまで日本で大規模な電気溶接の経験が無いことが大きかったのである。
満州問題で転けて以来の予算制限により巡洋艦や駆逐艦などの正面軍備以外の艦船(特に、艦隊随伴型補給艦や水上機母艦などの大型艦)を1930年代にほとんど獲得出来なかったことがここで響いていたのである。
何故こんな事態になったかというと、今までの技術研究が中途半端であったことにくわえ、どうしても質の向上を求めなければならないという切迫した国際環境(それは、補助艦の建造などを満足に行なえなかったことの反動であった)にあった。
こうして、新戦艦の建造は起工後技術的な問題から暗礁に乗り上げる事になる。
だが、海軍は国民へアピールするべく、ようやく手に入れたこの艦を皇紀二六〇〇年の観艦式でお披露目を行うと起工日に宣言してしまっていた。
まさか、今更期日通り完成しそうにありませんなどと言い出すことは出来なくなっていた。
このため、とりあえず二番艦の伯耆は再設計のため建造を大幅に送らせる一方、尾張には何とか動ける状態でいいからと全ての不具合に目をつぶって突貫工事で建造が進められた。さらに、それ以降予定されていた三番艦以降に至っては、伯耆での再設計完了後、起工しなおすこととしたため、さらに建造が遅れることは必至となった。
ところが、建造中の尾張をさらなる不幸が襲う。
それが、一九三七年に起こった第四艦隊事件である。
訓練予算(及び、補修費)が少ないため、今まで荒天の中での訓練を控えてきた海軍であったが、ここに来ての予算増額で気合いを入れて出撃したところ、いきなりトップヘビーにより演習に参加した駆逐艦と空母が大波によって損害を受けてしまった。
さらには、新型駆逐艦で機関の羽が壊れるという問題が発生(臨機調事件)、その調査も当たらなければならなくなってしまう。
真っ青になったのは海軍首脳部である。一九三七年末に纏められた資料によると、一九二一年から一九三七年までに建造された艦船は電気溶接の不備や、トップヘビーによる転覆の心配、さらには機関の異常振動の修理などにより、ここ五年間で戦力として当てに出来ないと結論が下されていたためである。逆に、満足に動ける艦船は赤城加賀の二空母、旧式戦艦と初期の重巡、そして5500tクラスの軽巡に、初期型の吹雪級のみという結論が出た(出来うるなら吹雪級は全艦をドック入りさせる必要があると結論づけられていた)。
■ 一つで二つ──航空戦艦への改装
そんな中、起工から約1年後の1938年1月、建造中の新戦艦に対して新たな追加仕様が発令された。其れは、搭載水偵の数を増大させよ──つまり航空戦艦へと改装することであった。
このような強引な仕様変更が行われた背景には、当時の日本海軍で2・26事件により艦隊派──それは砲術を中心にした一大保守勢力であった──が壊滅し、代わりに航空派が相対的な優位を獲得するという事情が存在したためである。(水雷派は、戦艦の第二艦隊所属による襲撃力の強化がはかれることを素直に喜んだため騒動には発展していない)。
新戦艦には、いわゆる一二試複座水偵──後に零式複座水偵として制式採用される機体と、一二試観測機──後に零式観測機として制式採用される機体の二種類を搭載することが計画された。
ちなみに、複座水偵とはいわゆる水上爆撃機であり、観測器は水上戦闘機と言ってよい性能を求められていた。
当然、仕様の急な変更は建造側に多大な混乱を引き起こすことになった。
火力低下を何よりも怖れる砲術派の残勢力は、せめて搭載機数を12機として主砲の数を減らさないように航空側に詰め寄った。
このとき「水上機の開発に成功したら火力はいらないわけで、後部主砲を撤去する。航空機の開発に失敗したら12機で手打ちとし、主砲火力はそのままとする。ただし、とりあえずは水上機搭載型で建造を進める」との妥協案が結ばれた。

〈尾張〉航空戦艦化砲術科案
- だが、対艦用途の愛知一二試}複座水偵が艦上機・陸上機と遜色ないというとんでもない性能を叩き出したことで砲術派が敗北、尾張は完全に航空戦艦へと改装されてしまうことになった(なお、別口で採用された三座水偵(川西零式三座水偵)は実戦部隊からさんざんな評価を受けたためほとんど生産されることなく終わった)。
ただし、船殻工事がかなり進んでいた尾張のバーベットは取り外しに時間がかかることもあり、そのまま残されている(これは、いざというとき主砲復旧による火力強化が可能だという航空派の砲術派に対する取引にも使われた)。
こうして、尾張は一九四〇年八月、あらゆる場所に不具合を抱えた限りなく未完成な船として完成した。
尾張の晴れ舞台となるべき皇紀二六〇〇年を記念する大観艦式は凄惨なものとならざるをえなかった。
なにせ期待の新戦艦は、全力を出すことなどおぼつかないガラスのような機関を搭載してることもあり、だましだまししながらようやく巡航する有様であったからだ。お召し艦(練習戦艦に格下げされていた比叡)より遅いため、観艦式の基準速度が制限されてしまうなどという冗談のような話までひき起こされた。
幸いなことに、観艦式中には問題を起こさなかったこともあり、かろうじて海軍の威信は保たれたのだが、だからといって問題が解決しはしない。
艦隊に編入されてからはさらにひどいものであった。訓練で舵を切ると溶接された船体が軋む。両用砲はすぐ壊れる。あまつさえ、対航空機訓練時にはディーゼル機関が止まり単なる的になる……。さらには高圧タービンも下手をすると高温蒸気を吹く危険性があり、「尾張温泉」と将兵からはあざけりとともに揶揄されるようになる。
特に、両用砲の不十分な信頼度は致命的なものであった。砲塔自身のみならず、さらなるトラブルの原因となったのは給弾機構であった。なんと、舷側副砲用の砲弾はベルトコンベアーによって前後の副砲弾庫から給弾される仕組みになっていたのである。このような機構を採用したのは、側面に十分な量の副砲弾庫を機関スペース的な問題からバイタルパート内にとれなかったためである。当然、このような複雑な機構が満足に動くことは少なく、実戦ではたびたび不具合を起こした。
そのため、航空主兵派のある大尉は尾張に対して「艀にすらならない戦艦」と放言し、対英援助艦隊をにらんで連合艦隊司令長官に任命された堀悌吉中将は対独開戦後の進展について首相から意見を訊ねられたときに「一、二年は(尾張の調子が悪すぎて)暴れられません」と答えたと伝えられている。そう、既に欧州では戦争が勃発していたのに──イギリスとアメリカは満足行く条約型戦艦を建造してるのに、未だ日本は持っていなかったのである。
ただし、結果的によい判断とされることになる変更もあった。それは、前鐘楼に置かれている司令塔の装甲防御を諦めたことである。
もちろん、実際に装甲がないのは砲戦時には大問題なのであるが、トップヘビーが問題になった第四艦隊事件の反省を受けては実施しないわけにも行かず、やむなく撤去されることになった。そして、その代わりに、艦全体を管理・運用できる第三艦橋をヴァイタルパート内部に設置することで重量の減少を計ることとなった(これによって1200tもの重量減少に成功しただけでなく、実質的な個艦CICを有することになった)。

〈尾張〉竣工時(皇紀二六〇〇年観艦式参加時)
- ■桜は散って──その後の三戦艦
以下は、簡単な補足(蛇足)である。
1)航空艤装搭載にあたって──複座水偵の性能
零式複座水偵:
航空予算の優遇で開発された水偵。新戦艦を航空戦艦へと変えた機体でもある。愛知航空機が開発。一二試で基本要求が出された水上爆撃機であったが、一型はダイブブレーキは装備していなかったため急降下は不可能だった(ただし二型で解決されている)。なお、実艦搭載されたのは伯耆が初めてであった。水偵として十分満足のいく性能であったが、第二次大戦では艦上機の性能向上により第二線に甘んじることとなる。ただしとり回しは好評で、遣欧時の尾張にも搭載されただけでなく、ほぼすべての水上機を運用する艦に搭載され、各地で働いた。爆撃機としての役割を艦上機に全面的に譲った後も、「カタパルトで運用可能な対潜哨戒機」として艦隊では愛用された。
2)第二次世界大戦と新戦艦
一九三九年に始まった世界大戦において、日本は満州事変後友好関係を取り戻しつつあったイギリスに請われる形で英仏側に立って参戦した(アメリカは中立)。
この戦争で日本は一九四〇年に第一次遣英艦隊として高速戦艦化改装を行われていた榛名を旗艦として戦艦二、空母一、巡洋艦五、駆逐艦一八を派遣した。
しかし、この程度で戦局が好転することはなく、日本中で護衛駆逐艦と護衛空母の増産にはいることになる。
最終的には、第三国経由でのアメリカ製護衛空母や大型商船を大量に購入することで数を整えることに成功したこともあり、一九四四年にはドイツ潜水艦の跳梁を押さえることが可能となった。
このころには、不肖の戦艦である尾張級も二度の大型改装の結果実戦投入できるだけの性能となっていたこともあり、尾張は第四陣の遣英艦隊旗艦として激戦の続く地中海へと派遣されることになる(前年末、ロンメルによって陥落させられていたエジプトはようやく英軍の手に戻っていた)。
地中海戦線に投入された尾張は、それまでのうっぷんを晴らすが如く、その砲撃力と航空兵力によって多数の枢軸艦を沈め、イタリアに制圧されていたマルタを攻略し、潜伏しているドイツ潜水艦隊を刈り取った。
また、その両用副砲は第二次大戦レベルとしてけた外れの性能を有していたこともあり、船団護衛では空襲してくる枢軸航空隊を幾度も壊滅させたのである。
だが、一九四五年四月。イタリア本土に上陸した陸軍の支援のためにイタリア近海で対地砲撃を終え離脱中、運悪く誘導爆弾を搭載した大型航空機群によって捕捉され、航空攻撃をうけてしまう。このとき、たまたま副砲の給弾システムに不部が発生し対空砲火が激減。そこに大型誘導爆弾が計画時の第三砲塔跡──航空爆弾庫に命中し、誘爆。これによって短時間で沈没した。尾張は、世界で初めて──そして、唯一洋上航行中に航空機によって沈没させられた戦艦となったのであった。
一方の伯耆であるが、こちらは建造中に手を加えられすぎたことで船殻がつぎはぎだらけとなったせいで最大速度が低下していたこともあり、欧州に派遣されることなく連合艦隊旗艦として終始東京湾に停泊していた。GF司令部は戦争終盤、日吉に上がることになるが、それまでの間は後部の航空機格納庫を利用した司令部で多くのスタッフが働いていた。
最後に、紀伊はその完成が遅かったこともあり、派遣されて一年少々で戦争が終結。戦果は対地攻撃だけという満足な戦闘を経験せずに終戦を迎えている。
3)建造された戦艦達の技術的な差異
尾張:
技術レベルを無視したオーバーテクノロジーの固まり。結果、実戦化に多大な手間がかかり、誰からも認められない羽目になるという悲惨な戦艦となった。
航空戦艦へと改装が決まったのも、性能が当てにならないと考えられていたことが大きい。改装期間の短縮化や、艦自体が中途半端なため本格的な航空艤装は断念され、甲板上に格納庫を建て、搭載数を確保するという常識的な形として竣工している。
バーベットは主砲復活の含みを残すため残置し航空弾薬庫に転用しているが、これが中途半端に実施されたため後のイタリア半島沖でフリッツXによる戦没の直接原因となった(応急的な構造のため水平防御が皆無に近かった上に、他艦艇への補給分も含めて定数外の弾薬を無造作に搭載していたのも問題である)。
伯耆:
艦橋の小型化や前甲板部になだらかなカーブを与えることで当初からトップヘビー問題解消を狙った尾張の改良型。なお、尾張の中途半端な航空艤装に批判が集まっていたこともあり、ここだけは逆に格納庫も甲板も空母式の本格的なものが最初から設置されることとなった。ただし、これはバーベットの撤去なしには実現不可能であったのだが、それは鉄砲屋が妥協したため成立している。ただし、この妥協は、3番艦紀伊を純戦艦(ただし高速ではある。単に航空戦艦ではない、の意)にするための取引であった。結果、航空艤装を撤去しても主砲は積めず、純空母化を検討も費用と効率で断念、速度問題もあり半端過ぎる存在として航空、鉄砲両派から疎んじられた。
なお、さんざん問題となった副砲は結局対空射撃を断念して平射砲とされた(自動装填機構による高発射速度は実現された)。そのため、対空用途には別に在来型の八九式12.7cm高角砲を搭載している。建造中に度重なる船殻修正により船体がつぎはぎだらけとなり、計画速力を2ノットも遅くなったこともあり、同型艦と戦隊行動をとることが出来ず、第二次世界大戦中は日本本土にあって連合艦隊旗艦として運用され続けた。なお、大戦中期には広い格納庫を大型通信室へと転用された。これにより、日本本土にあっても高い通信指揮能力をGFは発揮できたこともあり、この方面に関しては高い評価がある(コストパフォーマンス的にはひどく受けが悪かったが)。

〈伯耆〉計画時。
〈伯耆〉竣工時。
側面副砲用の砲弾は尾張同様ベルトコンベアーによって前後の副砲弾庫から融通される仕組みになっている。そのため、実戦では(尾張同様)上手く作動しないことが多かった。なお、トップヘビー対策に艦橋の小型化や通称「伯耆坂」が大きな特徴。
計画時の〈伯耆〉の第三主砲はトップヘビー対策のため装備位置が低められ、埋め込み式とされる予定であった。
- 紀伊:
クラス最終艦となった紀伊であるが、起工が欧州開戦後となり、条約が加盟国の合意で廃棄されたため、16インチ艦(41サンチ三連装三基九門)として起工されることとなった。また、伯耆の航空艤装強化の対価として、ストレートな高速戦艦として竣工した。工期短縮と先の戦艦の不満を少しでも早く充足するため35000トン型で建造を急いだが、次の大和級が18インチ艦と内定していたためこれが唯一の16インチ新戦艦となった。しかし、大戦の影響により空母と補助艦の建造を優先したため竣工は45年末となり、戦争に間に合ったに過ぎなかった(既に枢軸国の軍艦は軒並み海の底に沈んでいたこともあり、水上戦闘の経験も無く、対地砲撃だけで終戦を迎えた)。主砲・航空艤装以外の外見上の最大の相違は、給弾問題を解消するため、抜本的に改められた両用砲配置にある。前後首尾線上の各両用砲に近接する位置に左右一基ずつ設置され、これにより給弾問題と首尾線方向対空火力不足は一度に解消された。両用砲自体もようやく額面どおりの性能と信頼性を発揮するようになった。重量問題も両用砲二基減が大きく、レーダー、対空機銃の大増載にも応えられた。船体・機関も先行二隻の問題点をほぼクリアし、次の大和級試作艦として十分な成果を残せた。しかし、大和級は建造中に空母へと改装されてしまい紀伊は帝国海軍として最後の戦艦となってしまった。

〈紀伊〉竣工時。
第二次世界大戦によって条約が無効となったため、3連装41センチ砲を搭載している。また、副砲は再び両用砲へと復活した。これら以外では、ようやく実用化にこぎつけた国産のレーダーにイギリス海軍から供与を受けたレーダー(主に射撃管制系)を搭載しているのと、舷側中央部が40mm一式4連装機銃で埋め尽くされているのが目をひく。
- 4)戦後
尾張:
一九四四年に戦力化。一九四五年、イタリア近海で航空攻撃により、戦没。
伯耆:
一九四四年、戦力化。しかし、日本本土を離れることはなかった。戦後は各種実験装備艦とされた後、近代化改装を受けることなく核実験により内南洋にて廃棄。
紀伊:
第二次大戦最末期戦力化。戦後は練習艦・お召し艦として海外巡航に回ることが多く、連合艦隊主力からは外されていた。ハリアーSTOVL機の実用化・採用による航空戦艦への改装、陳腐化した両用砲のSAM換装、さらには主砲を撤去しての弾道弾ミサイル艦化等も検討されたが、いずれも実現を見ることなく、ほぼ原型のまま除籍された。一九九二年以後東京・船の科学館に記念艦として係留されている。
-
■ Data
(尾張新造時) |
| 基準排水量: |
36826t |
満載排水量: |
42613t |
| 全長: |
238.0m |
全幅: |
32.0m |
喫水: |
9.0m |
| 機関: |
艦本式オール・ギヤード・タービン6基2軸
艦本式ディーゼル4基2軸 |
| 出力: |
136000hp(計画時) |
| 最大速力: |
29.2kt
|
航続力: |
7870M/16kt |
| 主要兵装: |
45口径九六式35.6p四連装砲2基 |
| |
60口径九八式15.5p連装両用砲8基 |
|
70口径九六式25o機銃24門(三連装8基) |
|
水上機16機(格納庫内部に)
カタパルト2基
ハインマット1基 |
| (伯耆新造時) |
| 基準排水量: |
37102t |
満載排水量: |
43245t |
| 全長: |
238.0m |
全幅: |
32.0m |
喫水: |
9.1m |
| 機関: |
艦本式オール・ギヤード・タービン6基2軸
艦本式ディーゼル4基2軸 |
| 出力: |
136000hp(計画時) |
| 最大速力: |
27.8kt |
航続力: |
7910M/18kt |
| 主要兵装: |
45口径九六式35.6p四連装砲2基 |
| |
60口径九八式乙型15.5p連装砲5基 |
|
70口径九六式25o機銃64門(三連装16基、単装16基) |
|
水上機24機(格納庫内に。露天でさらに8機以上追加可能)
カタパルト4基
ハインマット1基 |
| (紀伊新造時) |
| 基準排水量: |
39215t |
満載排水量: |
45504t |
| 全長: |
238.0m |
全幅: |
32.0m |
喫水: |
9..5m |
| 機関: |
艦本式反動式タービン6基2軸
艦本式ディーゼル4基2軸 |
| 出力: |
136000hp(計画時) |
| 最大速力: |
30.2kt |
航続力: |
8530M/18kt |
| 主要兵装: |
45口径九六式41.0p三連装砲3基 |
| |
60口径九八式15.5p連装両用砲6基 |
|
65口径一式40o機銃56門(四連装14基) |
|
70口径九六式25o機銃60門(三連装20基) |
|
水上機4機(格納庫内に。露天をくわえるともう4機程度追加可能)
カタパルト2基 |
ちょっと長い後書き