新潟鉄工 D5Ni1“連星”

連星



『連星、墜つ…』

一昨年、地方に在って全国的にも知られた精密機械・部品メーカーが事実上倒産、任意整
理され、惜しまれながら、70年以上に渡るその永い歴史に幕を閉じた。
しかしながら、その会社が戦時中は戦車から軍用機まで手掛ける、北陸に於いて有数の軍
需工場であった事は意外に知られていない。
新潟鉄工は満州事変以降の軍備拡大の中、軍の要請を受け、或いは自ら進んで軍の需要を
満たすべく、兵器の製造に手を染めて行った。それは長引く不況の時代、鉄工産業界の生
き残り策として当然の帰結であった。
95式軽戦車等の装甲車両の下請けを通じて三菱財閥との関係を深めて行く中で、将来、軍
・民問わず需要が見込める航空機産業への進出を望んでいた新潟鉄工は、新たに取引を始
めた三菱銀行の仲介で、余り乗り気でない三菱重工の航空機事業に参画することに成功す
る。
当初は発動機の支持架など、わずかに残された鉄製部品の製造に関与するのみであったが、
遠くない将来に航空機本体の設計から組立までを手掛ける事を目指していた同社は、三菱
側の思惑を越えるように、名古屋航空機製作所の設計課にまで社員を派遣し、航空機設計
技術の習得に努めた。
昭和14年に入り、海軍は新たな艦上爆撃機の性能仕様要求を航空機メーカー各社に提示し
たが、同時期既に海軍の航空技術廠で13試艦爆が開発に入っていた。
その機体はドイツだダイムラーベンツ社の水冷倒立V型のDB601Aをライセンス生産し
た熱田式発動機を搭載し、小型化を計り、層流翼に近い断面を持つ主翼を持ち、胴体に爆
弾倉を設け、空力的洗練を進め、各柁の操作機構に電気式を採用するなど、多数の革新的
な新機軸を採用していたが、それだけに実験機としての色彩を多分に帯びており、実用化
の確実性に自信を持ちきれない海軍は、より量産に適し、整備・維持管理が容易で、高い
稼働率を期待出来る、ある種保険と言えるオードソックスな機体も同時に開発する事を計
画していた。
しかし、この時期メーカー側は陸・海軍の、任務の多様化に伴う機種数の拡大に応えるた
めに開発中の機体を抱えていた。この事は、陸軍と海軍の間で航空行政の摺り合わせが行
われず、用途や性能要求が近い機体をそれぞれが別個に計画・生産していることが大きな
要因として指摘されているが、そのような状況下、新たに開発の声が掛かったところで何
処もそのような余裕を持っているはずもなく、各社とも反応は冷ややかなものであった。
三菱とて状況は同様であったが、重工本社の営業部局と上層部は、開発がいよいよ最終団
階に入った12試艦戦と14試局戦を抱えた名古屋航空機を後目に、この14試艦爆の受注を唐
突に決定した。これには、強引な軍の姿勢に対するポーズといった営業的観点も在ったの
かもしれないが、自社設計機の機の製造を望む新潟鉄工側が、軍と三菱に働きかけて、三
菱経由で、開発先決定が難航する14試艦爆の受注を獲得したのが本当のところだと言われ
ている。
斯くして初の軍用機開発に挑むこととなった新潟鉄工は、入社して間もなく名古屋航空機
に出向させられ、かの堀越三郎技師の下で96艦戦の改良が行われた頃より設計グループの
一員として経験を積んできた、斉藤弥壮榮を呼び戻し、設計主任者に任命した。30手前の
技術者を開発現場の責任者に据えたのは一見すると無謀に思えるが、それだけ三菱で彼が
高く評価されていたという証左でもある。斉藤は見事にその期待に応え、後の「連星」を
生み出したのである。
14試艦上爆撃機は〈爆撃機〉と名乗っているものの、急降下爆撃の他に艦隊上空の防空任
務も課せられており、時速500km以上の高速と戦闘機に対抗できる運動性も要求されいる。
武装も機銃が、20mm×2(前方固定)と7.7mm(旋回)と強力で、航続距離も500kg爆弾
搭載で、1400km,同じく250kg爆弾で2000km以上と高度で、離・着艦条件ひとつを見ても
とても保険機と呼べるような生やさしいものではない。斉藤は要求仕様を検討してみて改
めて自分の仕事の過酷さを思いやった。