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1940年、緊迫の度を増しつつあった日米関係の中にあって、日本にもたらされる国際ニュースにおいて明るいものと言えば、ヨーロッパにおける盟邦ドイツの快進撃でした。
日本においても、対英米開戦近しとの声が次第に大きくなっており、海軍としても対米戦の研究には余念がありませんでした。
その一方で、インド洋に根拠地を構える英東洋艦隊の存在も不気味なものでした。
連合艦隊の戦力はとても英米の両方の艦隊を、太平洋・インド洋の二正面において戦えるような量ではなかったからです。
日本海軍は、米太平洋艦隊との決戦の間、英海軍を足止めできる戦力を欲していたのです。
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頭を悩ませていた日本海軍は、ドイツ海軍の行動から大きなヒントを得る事が出来ました。
それは1939年に展開された、ドイツ装甲艦の行動です。
その名は「アドミラル・グラーフ・シュペー」、優勢な英海軍を散々引きずり回しながら、途中で数隻の輸送船を仕留めた装甲艦でした。
この通商破壊戦ならば、少数の艦艇で多くの英国海軍艦艇を混乱させることが可能であると思われました。
しかも商船を相手にするので日本軍としては主力艦は不要であり、しかし英海軍はその通商破壊艦隊の排除の為に主力艦を割く可能性が高いのです。
この結果、通商破壊戦にまるで興味を抱かなかった日本海軍部内に、わずかながらこの貴重な戦訓に注目するグループが生まれたのです。
もっとも、海軍将兵のほとんどは未だ艦隊決戦を金科玉条としており、彼らには例え間接的寄与とは言え、対米決戦に使用できない艦艇が1隻でも存在するということは認められるものではありませんでした。
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「アドミラル・グラーフ・シュペー」の展開した大西洋での英海軍との戦闘は、通商破壊戦を重視する一派によって徹底的に検証されることとなりました。
この研究会は、「アドミラル・グラーフ・シュペー」の成功は慎重かつ大胆な航路設定と、それを可能ならしめた長大な航続距離であり、失敗はその航空艤装の貧弱さと後方支援の絶無であると断を下したのです。
それでは日本海軍がインド洋において対インド通商破壊戦を挑む場合、どのような艦を設定したら良いのか、研究は更に進みます。
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通商破壊戦に最も適した艦は、他でもない航空母艦です。
当時は主力艦に対する艦上機の効力は疑問視されていましたが、商船相手の攻撃力に疑念を差し挟む者などいませんでした。
艦上機の遠大な攻撃範囲も、非常に魅力的でした。
しかし、ただでさえ貴重な空母を、艦隊決戦一辺倒の連合艦隊が通商破壊戦ごときに貸与してくれるはずもありませんでした。
また、空母には必ず大規模な護衛兵力を必要とする点も、通商破壊戦の本質を知る者たちにとっては面白くありませんでした。
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そこで彼らが目をつけたのが、「利根」「筑摩」の2隻の巡洋艦でした。
この空母直属の偵察巡洋艦である2隻は、その長大な航続距離と20.3センチ砲、そして何よりも搭載する多数の水偵において、通商破壊戦にうってつけの巡洋艦だったのです。
水偵の偵察力は非常に魅力的でしたし、またその爆撃力も、商船相手であれば極めて有効であると思われたからです。
しかし巡洋艦自身の備える強力な兵装は、艦隊決戦を想定しないインド洋においては不必要なほど高価なものでした。
彼ら、インド洋通商破壊戦を目論む者たちにとっては、これは非常に厄介なことでした。
なぜなら建造費の高騰は、対米戦を絶対と考える軍首脳の目を欺くことを難しくするからです。
彼らが欲した理想的な巡洋艦とは、建造費が安いこと、そして対米戦にはやや不足な性能だったのです。
でないと、せっかく竣工したとしても、連合艦隊に取り上げられてしまう恐れがあったからです。
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現実はより一層厳しいものでした。
通商破壊戦を徹底的に軽視していた海軍は、この通商破壊戦専用艦の建造を一蹴したのです。
建造予算の確保に苦しんだ通商破壊戦研究会は、既に現役を退いてはいたものの、海軍部内の各方面に影響力が大きい米内光政に助けを求めました。
米内は、山本五十六連合艦隊司令長官が、対米戦を重視し過ぎていることを懸念しており、日本海軍にとって後門の狼である英国東洋艦隊の牽制を兼ねることの出来るこの通商破壊戦専用艦の計画に、興味を持ちました。
しかし財政が非常に逼迫している海軍の事情を顧みるに、それは非常に実現性に乏しいものであるとも感じざるを得ませんでした。
そこで米内は一計を案じます。
陸軍のここ数年にわたる希望は援蒋ルートの遮断であり、その為には対米戦争よりも対英戦争を重視していたのです。
米内はここに付け入る隙を探しました。
米内の一世一代のいたずら、それは、陸軍の予算枠を譲り受けることでした。
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陸軍は、全く意外なことに、この提案を呑みました。
陸軍としては、シンガポール攻略作戦、それに続くビルマ方面への進出に、海軍の協力が不可欠であるとの認識を持っていたからです。
また、盟邦ドイツとの連絡を確実なものにする為にも、陸軍はインド洋方面への海軍主力部隊の進出を望んでいました。
そこへ、このインド洋制圧専用艦の提案があったのです。
陸軍首脳は、最初は主力艦の進出でないことにやや不満を抱いたものの、常時インド洋に海軍準主力艦艇が展開するという誘惑に勝てませんでした。
そこで、陸軍は表面的には渋々と、本心では諸手を挙げてこの提案に飛び付いたのです。
これによってこの通商破壊専用艦は、最優先の扱いを受けて建造に着手されました。
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米内光政という御大と、陸軍からの意外な圧力を受けて、軍令部は当惑しながらも艦政本部に対し通商破壊戦専用艦の要求を行ないました。
その要求仕様は、このようなものでした。
| 軍令部要求仕様
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| 公試排水量 |
11200t |
| 基準排水量 |
9000t |
| 主砲 |
20.3センチ砲連装2基4門 |
| 高角砲 |
長8センチ砲連装4基8門 |
| 発射管 |
53センチ連装発射管2基4門 |
| 機銃 |
25ミリ連装4基 |
| 射出機 |
2基 |
| 飛行機 |
水上偵察機8〜10機 |
| 機関 |
12万馬力(ロ号艦本式重油専焼缶・蒸気圧38キロ、蒸気温度380度) |
| 速力 |
35ノット |
| 航続力 |
13000海里(18ノット) |
| その他 |
旗艦能力を満足せしめる通信機能と、司令部収容施設を用意すること
水偵格納庫を有すること
曳航給油機能を充実すること
凌波性能良好であること |
軍令部の要求(というよりは、通商破壊戦研究会の要求)には、特に高性能機関、20センチ砲搭載、水偵の搭載が重視されていました。
これは、インド洋に進出している英海軍の実態に応じたものでした。
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本型の要求仕様で、まず最も目を引くものが、その高性能機関です。
極力設計コストを削減しようとした本型の、唯一の例外です。
本型は高速力と大航続距離という目標をクリアする必要がありました。
そこで、蒸気圧38キロ、蒸気温度380度という高性能機関を要求したのです。
この性能は、日本巡洋艦としてはずば抜けて高い値であり、高速駆逐艦「島風」に次ぐ性能でした。
これにより、35ノットの高速力を得る見込みでした。
英国東洋艦隊の主力艦は低速な旧式戦艦であり、これと遭遇した場合、本型は高速力に物を言わせて脱出を図る事が出来ます。
また英巡もそれほど高速力を誇っているわけでもなく、本型に勝る速力を出し得るのは、英艦隊型駆逐艦のみであるという事情がありました。
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次に、武装ですが、本型は重巡と同様20.3センチ砲の搭載を要求しています。
艦隊型駆逐艦などの小型快速艦艇に対しては15センチ砲で充分でしたが、これが植民地警護巡洋艦となるとやや役不足であるとの意見が強く、20センチ砲の搭載が訴えられた結果です。
しかしその装備は連装2基4門というものであり、まともな砲戦では命中弾を得ることは困難であることは容易に想像がつきました。
この点については、あくまで20センチ砲を保有しているという示威が目的であり、敵巡と遭遇したらとっとと逃げることを前提にしていたので、特に問題視されませんでした。
英駆に舐められなければ良い、ということです。
従ってこの20.3センチ砲は自衛用であり、九一式徹甲弾などの高性能弾薬の搭載量は抑えられ、代わりに安価な榴弾を多く搭載する予定でした。
榴弾と言っても、装甲のない商船や駆逐艦相手には徹甲弾よりも大きな効果が望め、通商破壊戦用の本型にとっては、まさに打ってつけの弾薬でした。
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また空母搭載機と遭遇した場合、これは九六艦戦と同等の格闘能力を持つ零式観測機と、本型が装備する新式長8センチ高角砲によって撃退を図るという計画でした。
英空母の装備する搭載機は、日米海軍のそれに比べて旧態依然としており、水偵でもかなりの効果が望めたからです。
ただ、この目論見は甘すぎたということを、後に思い知らされる結果となったのですが、この当時は航空機の脅威が正確に計れなかったので、この計画で了承されたのです。
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要するに本型は、「敵は商船、英海軍艦艇と遭遇しても逃げ切れれば良い」という考えであり、これは従来の艦隊決戦を前提に計画された1万トン級巡洋艦とは決定的に異なる性格でした。
更に言えば、搭載する水上偵察機の広域偵察力を利用して、英艦隊に遭遇しないように出来ればそれがベストでした。
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また、53センチ発射管が要求されたのも注目すべき点です。
対米決戦用の艦艇は、駆逐艦から重巡洋艦に至るまで、そのほとんどが大口径61センチ魚雷を搭載していました。
ですが、この61センチ魚雷は商船相手にはもったいなく、もとより本型は英戦艦など相手にする気もありません。
とは言え、可燃物を搭載していない商船の場合、主砲ではそれほど効率的に撃沈する事が出来ないことを、海軍は研究の結果掴んでいました。
また搭載を予定する八九式53.3センチ魚雷は、61センチの九〇式魚雷や八年式魚雷に比べ軽く、重量軽減と搭載数の増加には都合のいい魚雷でした。
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搭載する水偵は、格納庫に収容されることになります。
「利根型」の運用実績では、長期航海にあっては搭載水偵の保護が大きな課題となっていたからです。
この提言から、C計画の「大淀」型同様、船体後部に大型の水偵格納庫を設けることとし、「大淀」と異なり「紫雲」の使用などは前提としないので、通常の呉式射出機が2基搭載されることになります。
また船体の割に搭載量が大きくなる為、運用スペース対策として「利根」型とは異なり、01甲板を設けてこれに対処することになります。
これは後に改鈴谷級重巡「伊吹」「鞍馬」を建造する際のテストベッドとなり、2隻は航空巡洋艦として竣工したのです。
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艦本はこの要求を受けると、急いで詳細設計をまとめます。
決定した通商破壊戦用特殊重巡洋艦の要目は以下のとおりです。
| 高等技術会議決裁案
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| 公試排水量 |
11320t |
| 基準排水量 |
9600t |
| 主砲 |
20.3センチ砲連装2基4門 |
| 高角砲 |
長8センチ砲連装4基8門 |
| 発射管 |
53センチ連装発射管2基4門 |
| 機銃 |
25ミリ連装4基 |
| 射出機 |
呉式2号5型2基 |
| 飛行機 |
零式水上偵察機6機
零式水上観測機2機 |
| 機関 |
12万馬力(ロ号艦本式重油専焼缶・蒸気圧38キロ、蒸気温度380度) |
| 速力 |
34ノット |
| 航続力 |
12000海里(18ノット) |
こうして、本型は1941年12月8日に呉工廠にて建造を開始しました。
真珠湾攻撃その日です。
主砲塔は「高雄型」のものを流用し、改設計を行なわずに済ませ、長8センチ高角砲は、C計画で建造中の軽巡「阿賀野型」と同様のものを利用することにします。
とにかく(陸軍の圧力もあって)急ぎの仕事であったので、さしあたり使い道のなさそうな「仁淀」の建造をやめ、「能代」用の艤装を差し押さえてまで建造が急がれました。
乱暴なまでに強引な急速建造の結果、1942年10月2日に進水という驚異的なペースで工事は進みました。
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進水式の際に、この艦に名前が付けられました。
米内光政の発案だと言われていますが、本艦は「富士」と命名されます。
日露戦争に活躍した戦艦「富士」は、未だ横須賀に繋留されていたのですが、これを急遽除籍し、その名を受け継いだのです。
先代同様、武運長久なることを願った命名でした。
艤装委員長には、第四駆逐隊司令であった有賀幸作大佐が発令。
この間ミッドウェイ海戦が戦われ、米機動部隊は大打撃を受けてハワイに後退、しかし日本も肝心の輸送部隊が基地航空隊の攻撃を受けて損害を出した為に作戦は中止のやむなきに至ります。
ハワイへの強襲を仕掛けるだけの戦力のない日本海軍は、米豪分断作戦に力を振り向けることになりますが、ポートモレスビーを押さえたところで補給線が伸び切ってしまい、その動きは緒戦とは比べ物にならないほど緩慢なものと化します。
米軍もまた、健在な日本機動部隊や潜水艦隊の対豪州通商破壊戦のため、豪州防衛の為の戦力維持が精一杯で、ニューギニアを足がかりに島伝いの反攻というマッカーサーの目論見は、しばらく延期となっていました。
つまり、米海軍の復活までの間、太平洋戦争は長い中休みに入ったのです。
この幸運な中休みは、日本の工業力の維持にとっては重要な休みでした。
もしこの時期に激戦が戦われた場合、日本国内の船台のほとんどが損傷艦の修理などに埋まり、本型のような特殊用途艦の建造など差し止められてしまうに違いないからです。
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1943年5月20日、重巡「富士」は竣工します。
「富士」は計画通りインド洋に派遣されました。
それまで潜水艦を主体に細々と行なっていたインド洋通商破壊戦は、重巡「富士」と十八戦隊、再編された第六水雷戦隊の加入により、極めて活発なものに変貌しました。
これらインド洋艦隊は第五艦隊、通称B(ベンガル湾のB?)部隊と呼ばれ、司令長官には志摩清英中将が補されます。
十八戦隊司令官には志摩少将とはツラギ以来のコンビである松山光治少将、六水戦司令官にはポートモレスビー輸送作戦中に米第五空軍の空襲を受けて負傷し、療養中であった木村昌福少将が充てられました。
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十八戦隊は「天龍」「龍田」という旧式巡洋艦、六水戦も「神風型」を主体とする旧式駆逐艦の寄せ集めでしたが、同じ53センチ魚雷を装備する部隊であり、その53センチ魚雷は新式兵器ではないので、備蓄も十分にあり、補給は極めて円滑に行なわれました。
そして魚雷自体の信頼性も「枯れた」兵器故に非常に高いものがあり、B部隊は安心して作戦行動を行なう事が出来たと言われています。
その一方で、使用弾薬については艦隊規模の割に多種に亘っており、任務柄、消費弾薬がべらぼうに多いこともあり、その補給割り当てを巡って、管轄の南西方面艦隊司令部が連合艦隊司令部とやりあうこともしばしばだったそうです。
活動に必要な重油については、武器弾薬の割り当てとはうってかわって、それはそれは恵まれていました。
なぜなら、B部隊のインド洋進出は陸軍の長年望んでいたものだからです。
基本的にはB部隊の活動に必要な重油は、海軍割り当て枠から捻出されていましたが、保有する船腹の絶対的な不足と連合艦隊の作戦優先が原因で、補給はお世辞にも円滑であるとは言えないものでした。
しかし、東洋最大産油地のパレンバンとそれに付随する石油精製施設の管理者である陸軍は、B部隊に対して異様に気を遣ってくれました。
大本営陸軍部は、協定違反であるにもかかわらず、B部隊用の重油についてだけは、パレンバンからの積み出しに目をつぶっていたのです。
そのお陰で、良質重油の確保に四苦八苦していた連合艦隊に比べて、B部隊はふんだんに油を使う事が出来ました。
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B部隊最大の弱点は、防空能力の低さでした。
「天龍」「龍田」が主砲を1基降ろして高角砲に換装していたのですが、気休め程度に過ぎませんでした。
そこで海軍は、太平洋方面で使い道のなくなった二式水戦を回してきました。
二式水戦は零観に代わって「富士」に搭載されることになり、B部隊の一番大きな弱点である防空能力の穴埋めに、わずかながらも貢献することになりました。
また、ドイツ軍からB部隊に提供された各種レーダー機器の装備も、艦隊の防空能力の強化に役立ちました。
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ペナンを基地とする日独潜水艦戦隊とB部隊は、大西洋に比べてわずかな護衛艦艇しか配備できない英国補給ルートを、徹底的に撹乱することに成功します。
英護衛駆逐艦は「富士」の20.3センチ砲に対抗を許されず、英巡洋艦は「富士」直衛の六水戦の巧みな襲撃運動に翻弄され、遂にB部隊を捕捉することは出来ませんでした。
アメリカから貸与された護衛空母「バトラー」だけが、B部隊に対抗できた部隊ですが、搭載するマートレットとターポンは主に対潜用であり、1〜2機が哨戒中にたまたまB部隊を発見しても、二式水戦の邀撃やB部隊の対空砲火の前に、有効な損害を与えることは困難でした。
B部隊としても「バトラー」が洋上はるか遠くにあるので、これを捕捉することは出来ず、お互いに決定打に欠けたライバルとなってしまいました。
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決定打不足もさる事ながら、その数の少なさから来る艦隊保全の要求が、英艦隊をしてB部隊との徹底した交戦を避けさせた最も大きな理由でした。
その結果、増援の「バトラー」などの貴重な護衛空母も活発な行動が取れず、大部分を無為に港で過ごすことになってしまいました。
派手に護衛空母が活動すると、英海軍に比べ圧倒的な破壊力を持つ日本空母機動部隊をインド洋に呼び込むことにもなりかねなかったからです。
潜水艦が主力のドイツ海軍相手には、常に駆逐する側にあった護衛空母も、空母機動部隊と強力な陸上攻撃機を保有する日本海軍相手には、駆逐される側にもなります。
そして、インド洋の制海権を完全に失ったとあっては、大英帝国の誇りは潰え、例え究極的に戦争に勝利したとしても、戦後インド政策に重大な影響を及ぼすことが必至です。
こんな事情から、日本機動部隊の出現によって東洋艦隊の完全消滅を招くことを何よりも恐れた英首相チャーチルは、艦隊の存在こそが枢軸軍への無言の圧力になるとして、その方針を堅持しました。
それは皮肉にも、決戦を避けて自壊した第一次世界大戦のドイツ海軍と同じ手法でした。
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「バトラー」の活動が鈍化した1943年後期からは、B部隊の活躍はより大胆に遠くアフリカ東岸にまで及び、東アジア・中東方面への英国補給線は遮断寸前にまで追い込まれてしまいます。
これにより、以前から枢軸軍インド洋潜水艦隊の襲撃によって混乱しつつあった、英国エジプト駐留部隊へのスエズ経由の補給は破綻を来し、ドイツ軍のアフリカ戦線は勢いを盛り返すことになります。
またビルマ戦線の英陸軍も燃料・武器・弾薬の不足から戦力の維持すら危うくなり、英海軍に泣き付くことになります。
マダガスカルに立てこもる英海軍も、前述のようにとても余裕がない状態だったのですが、アジア・アフリカ方面の陸軍からの途切れることのない悲鳴と、アフリカ経由のヨーロッパ反攻作戦を企図するアメリカからの有形無形の圧力、何よりも出撃による将兵の士気と英海軍の栄光の維持を訴える海軍に、遂にチャーチルは屈します。
苦しい台所から空母「インドミダブル」「フォーミダブル」を割き、B部隊を排除せよと命令を下したのです。
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英東洋艦隊の限定攻勢の情報は、ドイツ軍から日本にもたらされます。
空母2隻を擁する英国機動部隊の出撃は、日独インド洋潜水艦隊の知るところとなり、それまで全く非協力的であった連合艦隊も空母出撃と聞き、その重い腰を上げることになりました。
連合艦隊は空母機動部隊である第三艦隊を急派、セイロン島東方に陣を張ります。
B部隊司令長官の志摩中将は、「これでは我々は、まるで連合艦隊の囮ではないか」と呆れ返りつつも、英東洋艦隊の目を引くようにインド洋南西岸地区を中心に通商破壊戦を展開します。
そして間接護衛についていた英東洋艦隊はこの挑発を受け、B部隊の追撃に移ります。
インド洋を舞台にした、「富士」と英機動部隊とのチェイスが始まったのです。
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このチェイスは2週間にも及びましたが、結局日本海軍の勝利に終わります。
なぜなら、散々逃げ回ったB部隊は、まんまと第三艦隊正面……角田中将率いる五航戦の攻撃圏内に逃げ込むことに成功したからです。
1944年3月3日、第二次セイロン島沖海戦です。
「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」を飛び立った攻撃隊は英空母を痛撃、10次にわたる反復攻撃により、英軍は「インドミダブル」沈没「フォーミダブル」大破という損害を受けます。
「フォーミダブル」は、角田機動部隊の彗星艦爆隊によって手ひどくやられてはいたものの、「インドミダブル」と異なり天山艦攻隊の雷撃を避けていたので、全速発揮が可能でした。
英艦隊は残った「フォーミダブル」を守り、全速でマダガスカルへの避退を始めます。
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角田中将は、戦艦「金剛」「榛名」を基幹とする前衛部隊に、敵残存兵力の追撃を命じます。
本当は「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」をも夜戦(!)に投入したかったようなのですが、艦上機の収容に手間取り、さすがにその願望は果たせませんでした。
それでも、絶えず夜偵を繰り出し、吊光投弾によって追撃部隊に敵艦隊の位置を示し続けたのは、角田中将の面目躍如と言ったところでしょうか。
更に、今日まで追われる立場であった志摩中将のB部隊も、遂に逆襲に転じました。
夜間追撃戦に移った第三艦隊・前衛とB部隊の肉薄により、英艦隊は巡洋艦1隻撃沈、そして護衛駆逐艦を6隻も失い、更に痛恨の護衛空母「バトラー」喪失という結末を迎えることになります。
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夜間追撃戦の最中に、護衛駆逐艦を執拗に狙ったのはB部隊艦艇でした。
英護衛駆逐艦は低速の為、高速で避退する機動部隊についていけず、別行動で逃亡を図っていました。
主目標となり日本機に接触され続けている本隊と離れれば、逃げ切れるとの期待もありました。
しかしB部隊は、この機会に1隻でも多くの英護衛駆逐艦に損傷を与え、英軍の護衛活動に長期的影響を及ぼそうと考えていたのです。
実戦経験豊富な木村少将率いる六水戦は、搭載する優れたドイツ製レーダーを駆使して英護衛駆逐艦を追いまわし、次々と仕留めていったのです。
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六水戦と分離した「富士」と「天龍」「龍田」は、更なる戦果の拡大を求めて暗闇のインド洋をひた走ります。
水上レーダーに映るやや大きめの目標が気になります。
すると、闇の中に平甲板の艦影が浮かび上がってきました。
護衛空母「バトラー」でした。
「バトラー」はもちろん艦隊戦に投入されていたわけではなく、この作戦によるB部隊不在の間隙を衝いたコロンボへの緊急輸送船団の護衛中だったのです。
それが、予想もしなかった英機動部隊の敗走により、日本艦隊の真っ只中に迷い込む羽目になってしまったのです。
「富士」「天龍」「龍田」は、すかさず砲雷撃戦を挑みました。
この不細工な護衛空母のお陰で、何隻もの味方潜水艦や、「富士」艦載機が失われているのです。
恨み重なる敵護衛空母に、3隻の巡洋艦は高角砲はもちろん対空機銃の水平射撃まで動員した猛射撃を加えました。
ところかまわず次々と命中する榴弾は、たちまち「バトラー」を炎上させ、「バトラー」は洋上に停止しました。
そして止めの魚雷3本によって、「バトラー」は海の藻くずと消え去ったのです。
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一方、戦艦「金剛」「榛名」を始めとする第三艦隊前衛は、護衛駆逐艦には目もくれませんでした。
この辺、連合艦隊の大型艦至上主義のいびつさが見て取れます。
また、ドイツ製に比べて格段に能力の劣る日本製レーダーを装備していた第三艦隊は、得意の夜戦ではあるものの、敵艦を正確に捕捉・射撃することが非常に困難でした。
ただ、戦艦を先頭にしたその高速かつ執拗な追撃(この辺の猪突猛進さは、角田中将の性格でしょうか)は、敗走する英艦隊にとっては全く恐怖以外の何ものでもありません。
英艦隊は、なけなしの護衛艦を空母を逃がす為の捨て石にせざるをえませんでした。
第三艦隊前衛は、囮となった英巡「ケント」を集中攻撃してこれを撃沈しましたが、巧妙な煙幕展張と威嚇発射の魚雷により、「ケント」と護衛の駆逐艦は追いすがる日本艦隊から「フォーミダブル」を守り切ることに見事に成功したのです。
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もっとも、後退中の「フォーミダブル」は、ドイツ・モンスーン戦隊の待ち伏せを受け、マダガスカル東方で撃沈されています。
U183が魚雷4本を右舷に命中させ、「フォーミダブル」はたまらず転覆したのです。
この潜水艦隊の戦果は、B部隊の護衛駆逐艦狩りの効果が現れたとも言えるでしょう。
対潜能力に長けた護衛駆逐艦を艦隊戦ですり減らし、日本空母機の恐怖に打ちのめされ、徹夜で追いすがる戦艦の巨弾に震えていた英艦隊は、とても入念な対潜哨戒など行なえるような状態ではなかったのです。
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この海戦の結果、枢軸軍は、インド洋の制海権を完全に掌握することに成功しました。
「富士」は、「バトラー」の必死の反撃によって格納庫などに高角砲弾の直撃を受けて小破、1ヶ月の間シンガポールの第101工作部で復旧工事を行なうことになりました。
また、この海戦の間、B部隊の防空と英機動部隊の動静把握の任務に就いた「富士」の水上機8機は、その全てが未帰還と言う結果に終わったのです。
この隠れた英雄たち対して連合艦隊は感状をもって報い、その犠牲は全軍に布告されたのです。
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この後太平洋方面は、増強なった米軍との死闘により次々と戦線を後退、昭和20年12月8日の敗戦に繋がってしまいましたが、インド洋の制海権はB部隊の徹底した通商破壊戦により終始枢軸軍の掌中にあり続けました。
結局英海軍は、1944年3月3日〜4日の海戦で失った護衛艦艇を、終戦のその日まで回復させる事が出来なかったのです。
その間自国を自力で治め、守り抜いたインドにとって、もはや英国は敬愛すべき宗主国でも恐れるべき侵略国でもなく、それは英国の対インド政策の完全なる敗北を意味するものでした。
当時唯一B部隊に対抗していた護衛空母「バトラー」の損失は、結果的には英領インドそのものの損失となったのです。
終戦後、英国は直ちに、インド独立戦争とそれに続くアジア植民地全面崩壊という、凋落の時代を迎えたのです。
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敗戦後、特別輸送艦になった「富士」は、主としてアジア方面からの引揚者の輸送に尽力します。
そして賠償艦としてイギリスに引き渡され、国内で売却、解体されて「富士」は生涯を終えたのです。
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作者コメント:
CA「富士」は実はどうでもよくて、単にインド洋艦隊を作りたかっただけです(笑)
まあ、こだわりと言ったら・・・
「大淀」でも良かったんだけど、CL「鹿島」の剥き身の魚雷発射管が忘れられずに、なんとかコレつけてやろうとした結果がCA「富士」です。
だから、「富士」のチャームポイントはここだっ!!
楯なし、ムキ出しの連装発射管!
ここに漢のロマンを感じるのだっ! 感じてくれっ!! 感じろ〜っ!!!(<-変態)
だって、どう考えても「大淀」か「利根」か「最上・改装後」になるんだもん。<理想の日本巡洋艦
というわけで、背景で勝負だ〜(逃げ・・・とも言う)
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