三代・2面図
三代・透視図

『三代』級軽巡洋艦


昭和15年3月、海軍軍令部から艦政本部に対して
「速やかに兵力を展開させ、橋頭堡を築くための艦について研究して欲しい」
と要求してきた。橋頭堡を作る。すなわち、敵地に上陸し、自軍の拠点を作 り上げる。これは非常に困難なことである。何せ、よほど警備の薄いところで ない限り、そしてよほどの運がない限り上陸前に艦は発見、殲滅されてしまう のだ。幾度も会議を持って研究していった結果
「艦尾に水密扉を設け、兵力展開の際には後部調整タンクに注水して艦尾トリ ム状態とし、水密扉を開けてそこから兵力を展開する。」
と言う方式を採用することとした。陸軍の艦艇の海岸に座洲して艦首扉を開 ける方式と好対照であるが、海軍のこの方式では陸軍の方式に比べて戦車の揚 陸が困難であった。
そこで、水陸両用戦車の開発を急ぐ一方でB計画にこの揚陸艦の建造計画を 提出することとした。だが、建造計画が排水量すら3000t〜6000tの 間でまだまだ固まっていない事。そして、航空機の発達した現代戦においては、 索敵網をかいくぐる事が難しい事。さらに陸軍の「神洲丸」の様に、ある程度 の偽装では施しても見る人が見れば正体は看破されてしまう事などから、この 案は破棄されることとなる。
そこで、速力を得るために大出力の缶を搭載し、排水量10000t弱で、 揚陸する諸兵力はほとんどを艦内に格納できるようにしてその上には航空甲板 を設けて格納庫の隠匿を図り、前甲板には15.5cm3連装砲───元々軽巡洋艦 『最上』に搭載されてた物───を2基搭載することとした。そして、今度の 計画はすんなりとC計画に組み込まれたのだった。これは、山本五十六の対米 戦争のシナリオに拠る。すなわち、真珠湾攻撃から艦隊決戦、そして講和と進 むはずではあったが、もし米国が講和を飲まなかった場合には米本土上陸作戦 となる。その際にどうしても揚陸艦は必要だったからだ。

昭和16年7月、この艦の建造が始まった。造船所の方では盤木の置かれ方 から、ちょうど巡洋艦クラスのフネであろう。と言われていた。が、建造が進 む毎に、その特異な艦容が姿をあらわしてきた。缶室は少なく、機関は2つし か積まれない。それでいて、艦首にはバルバス・バウがついている。また、後 部には大きな格納庫らしき物と艦尾には扉がついている。主砲塔の穴は2つ、 防御鋼板はバルジに覆われ、「利根」と同様の形式のインターナル・アーマー 方式であった。さらに建造が進むと格納庫は蓋がされ、見た目はただの巡洋艦 のようになった。
太平洋戦争は真珠湾攻撃と共に開戦し、ご周知の通りミッドウェー海戦を境 に日本軍はジリジリと後退を始めた。そして、この巡洋艦が進水したのはソロ モン海での戦いが終わった直後だった。ここで「三代」と名づけられ、同艦は 正式に「軍艦」として生を得た。主砲は軽巡「最上」のお下がりが取りつけら れ、カタパルトが、クレーンが、昼夜ぶっ通しで次々と取りつけられていく。 そんな中でさらなる工期繰り上げ命令がやってくる───
結局、予定より3ヶ月早い昭和18年4月に軽巡洋艦「三代」は竣工した。 その要目は下記の通りである -=<*>=-=<*>=-=<*>=-=<*>=-=<*>=-=<*>=-=<*>=-=<*>=-=<*>=-=<*>=-
『三代』級軽巡洋艦
同型艦:『三代』『富雄』

主要諸元
基準排水量:9500トン
全長 :195.3m
全幅 :19.0m
最大喫水 :6.0m
主機 :蒸気タービン2基2軸、10万馬力
最大速力 :32.5ノット
航続距離 :18ノットで9000浬
乗員 :750名

兵装
主砲 :60口径15.5cm砲3連装2基
副砲 :40口径12.7cm連装高角砲4基
雷装 :搭載せず
機銃 :25mm連装6基

航空艤装
カタパルト1基
搭載機4機

特殊艤装
特3式内火艇:12両
大発 :8隻(特3式内火艇を搭載しない場合は合計17隻)
兵員 :580名
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この要目を見れば「格納庫らしき物」の用途がわかろうものだ。すなわち、 この船は今で言う「強襲揚陸艦」なのである。しかし、傍目にはただの巡洋艦 としか映らないように、側面には魚雷発射管の舷側の穴が描いてあったり、大 発を格納する上甲板には艤装煙突を立て、甲板と格納庫の隠匿を図っていた。 また、それによって発生する弱点も一応の対策が講じられていた。例えば、格 納庫内は前中後に3分され、それぞれ水密扉によって隔離されている。しかし、 これでも損害時には不安なので火災対策にエキセリン泡放出装置や炭酸ガスを 用いた浮き袋(現在で言うとエア・バッグ)を取りつけて、前者は消火に、後 者は浮力の維持に一応の備えを講じた。なお、舵機を設けるために艦尾スロー プの位置が若干高くなり、それが原因で上甲板に扉がついている。大発のみ搭 載の場合にはこれは開けなかったようだ。

彼女らは、搭載する特3式内火艇の調達が送れたことや、それによって訓練 が遅延したことによって昭和18年11月から戦列に加わった。そして彼女ら の初陣となったのが同年12月24日の晩に行われたタロキナ逆上陸作戦であ る。クリスマス・イブに揚陸戦をプレゼント・・・と言うわけで第8艦隊と共 にブーゲンビル島に上陸戦を敢行。見事に成功を納めた。しかし、揚陸した戦 隊は、翌日から米軍によって叩きのめされ、再度攻勢に出るための足がかりの 構築には失敗した。さらに、翌昭和19年2月のトラック大空襲によって日本 軍はさらに後退する事となった。この時、彼女らは内地にいて機銃の増設工事 を受けていた。この改装で優美な彼女らの容姿は全艦ハリネズミのような格好 になってしまった。再び行動可能になった彼女らは、今度は地味な輸送任務に 就く事となる。次期作戦の決定までフネを放っておくのは勿体無いのと、その 格納庫が輸送に最適とみられたのだ。彼女らは航空艤装を持つことから、必要 に応じて艦載機を哨戒に出せ、3隻もの潜水艦撃沈に貢献している。2度の輸 送作戦に参加した後、再び彼女らに任務が与えられる。小沢艦隊の一員として、 米軍吊り上げ部隊の一翼をになえ───すなわち、主力の栗田艦隊の囮となっ て死ね───と言う物だった。小沢長官は栗田艦隊に敵接触の電を送り、空母 のすべてと駆逐艦『秋月』、そして軽巡『多摩』を失ってまで猛攻に耐えた。 しかし、この電報は栗田長官に届かず、また栗田長官の再反転の電も小沢長官 に届かず───結局は小沢長官は栗田艦隊の再反転を知らず、栗田長官は小沢 艦隊が米軍の吸収に成功したことを知らず、お互いがお互いを失敗してしまっ たと判断して後退してこの海戦は終結した。この海戦で2番艦『富雄』が被雷、 中破している。

昭和20年になると連合艦隊は貝のように殻を閉じてじっとしていた。しか し、特攻が本格化していく中で「あのような強力なフネをただ置いておくのは 勿体無い」と言うので、世界最大、最強の巨艦『大和』を用いての海上特攻作 戦が立案、そして発動された。その部隊の中に、軽巡『三代』の名もあった。 彼女は本来搭載するはずの大発や特3式内火艇の代わりに、特攻艇『震洋』を 搭載し、沖縄に殴りこませて米軍に一矢報いてやろうと軍部は考えたのであっ た。昭和20年4月6日15時20分、「AC(出港)」の旗旒信号が掲げら れた。こうして、『三代』は二度と帰らぬ航海へと旅立った。
特攻艦隊は、数次にわたる空襲を受け、軽巡『三代』も被弾し、機掃銃射を 受け、甲板上を血で染めながら戦いつづけ、ついに機関をやられて停止したと ころをよってたかって沈められた。最後には、『震洋』の操縦手までもが機銃 を握り、そして倒れていったと言う。

一方の『富雄』は修理を終えたものの、動く燃料も無く松級と共に島のよう に偽装したままで終戦を迎えた。そして戦後、ソ連に賠償艦として引き渡され て『フルンゼ』と改名。1957年には、示威行動で北海道沿岸までやってき て、緊急出動した海上自衛隊の『むつき』と同航するという光景も見られた。 この時、『フルンゼ』が搭載していたのは、主砲が19cm連装砲、そして揚陸戦 力がPT−76水陸両用戦車であったという。同艦は1980年頃に廃艦とな り、母国を敵に回しての生涯を終えた。