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鉄道省が昭和十二年から関釜航路に新鋭渡船金剛丸興安丸を就役させ旅客貨物のの増大の対処してきたが、昨今の満州国建国により益々旅客貨物の増大が見込まれはじめ新鋭船二船だけでは足りなくなりつつあった昭和十四年この頃の貨物輸送は貨車から一旦船に乗せ替えまた貨車へ載せ替えるという二度の手順を踏んでいた、本来であれば青函航路の様に車両渡船により貨車を送るのが一番であったが本土の鉄道ゲージは1067粍大陸は1435粍であり貨車の供用は出来なかった、この頃より東京から下関までを1435粍ゲージで結ぶ弾丸列車計画が議会で討論中であった、帝國陸軍は揚陸母船としての使用可能な車両渡船に注目しており関釜航路用に鉄道省と協議の末1435粍ゲージ用車両渡船を建造費補助とうの約束で建造を依頼した、弾丸列車が開通すれば国際特急をそのまま下関で車両渡船に収納し釜山まで運び満州へ向かうことが出来るようになる、そのうたい文句で建造が決定された、弾丸列車開通まで時間が懸かるにもかかわらずなぜい今建造するのかと言う問いには、大陸の貨車を下関に作る貨物操車場へ運びそこで本土の貨車と積み替えを行えば、貨物船に乗せる手間が省け、貨物の紛失や汚濁のおそれが非常に低くなるとの回答を行った。 かくして、関釜航路輸送力増強として五隻の連絡船が建造されることが決定した、第一船と第二船と第五船は旅客車両渡船として計画され第三船第四船は純粋な旅客渡船として計画された。第一船は第壹関釜丸と命名されることになった、第二船は第弐関釜丸、第五船は第参関釜丸とし客船たる第三船は今までの銘々基準から天山丸第四船は箟崙丸となった 第壹関釜丸は三菱長崎造船所にて昭和十四年五月起工昭和十六年八月竣工した、第弐関釜丸は三菱長崎造船所にて昭和十四年九月起工昭和十六年十一月竣工した、まさしく大東亜戦争勃発直前の完成であった 、 第壹関釜丸は完成後二週間陸軍の揚陸艇発進訓練を行い昭和十六年九月から関釜航路にて営業を開始したが十一月に入り陸軍へ徴用され揚陸艇母船として整備された、第弐関釜丸は完成と同時に陸軍に徴用され揚陸艇母船として整備された。 本形式は前回建造の金剛丸級に似通っているが本船の特徴とし車両甲板の装備がある、船体後部より四線式で1435粍ゲージのレールが敷かれ船尾より10mのところで波浪が車体を破損しないように上昇式水密扉が装備されている、その扉から内側から船首にむけ全長152mのレールが敷かれている一カ所の大きさは縦152m横4m高さ6mであり弾丸列車の車両の大きさ長さ25m横幅3.4m高さ4.8mを一線につき6両積載可能となっており4線で24両積載可能である。車両甲板の形態は船体外版から2mの通路等2線が隣接して8m幅の部屋、3mの作業スペース2線が隣接して8m幅の部屋、2mの通路、船体外版となっている。旅客設備は上甲板上を使用しており最上段が一等船室で定員50名ベット二基と椅子、テーブル、洗面設備の整った定員2名の客室が25室ありその他に一等ラウンジと喫煙コーナーが設けられた、二等船室は定員一等船室下の甲板の船橋楼甲板、定員100名のゆったりした二段式寝台が集中配置されて寝台室を形成している、その後方に絨毯敷きの二等雑居室があり定員250名甲板中央には一等二等供用出入り口兼ラウンジがある最後尾にかけては三等船室で畳敷き定員800名の雑居室がある。食堂は一等船室の後部の船尾側に設けられている。 本船を揚陸母船として使う場合。大発40艇小発10艇が搭載可能、最大搭乗可能兵員は3200名 内訳は、一等船室は10室をを高級士官用居室にし定員20名その他は士官用の居室として2段ベットを2基配備し定員60名、一等ラウンジ部を一部仕切り三段式寝台を設置定員は450名、2等寝台室は160名、2等雑居室は三段式寝台にて900名、三等雑居室は三段寝台にて1620名 船体には前後に動揺防止用タンクが装備されており、大発発進時に後部に注水し前部を排水して傾斜を発生させ大発の発進を容易にする、大発はレールの下の装備されているワイヤーにより順次発進位置へ移動する、船橋上の小発はデリックにて降下させる。 第壹関釜丸諸元 全長 181.5m 全幅 24m 喫水 7.3m 総噸数 18570噸 積載車両数 25m級24両 乗組員数 180名 船客定員 一等50名、二等350名、三等800名 主罐 三菱水管罐石炭重油混焼罐六罐 主機 三菱ツェリー式蒸気タービン二基 出力 34000馬力 軸数 二軸 最大速力 23.3ノット 経済速度 20ノット 航続力 20ノット/4000海里 燃料積載量 石炭1800噸 重油1800噸 建造所 三菱長崎造船所 |