
画:天城氏(上:撫子型/下:杜若型)
| 対潜駆逐艦 「撫子型」解説 |
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第一次大戦において、最も驚異的な働きを見せたもの、それは陸の戦車、空の飛行機、そして海の潜水艦でした。
特に潜水艦は、その用法と効果において、他の二つの兵器のそれと全く異なる力を持っていました。
潜水艦は、「一国の経済を完全に破壊し得る戦略兵器」であったからです。
この恐怖こそ、ドイツの完成させた「Uボート」です。
その恐怖を味わい、そしてそれを克服した国こそ、イギリスだったのです。
イギリスは、Uボートの無制限潜水艦作戦によって、まさに国家経済破綻の寸前にまで追いつめられました。
それを、爆雷と駆逐艦、そしてそれを統括する統合司令部をもって打破しました。
その結果、イギリスはドイツに勝利する事が出来たのです。
戦場から遠く離れた日本では、一般的にこの戦争を自国とは関係のないものと捉えていました。
経済発展の絶好の機会とすら捉えていた面もあります。
しかし軍令部の一室では、ヨーロッパの地図とアジアの地図とを並べ、険しい表情をし続ける軍人たちもいたのです。
日本海海戦の名参謀、秋山真之中将その人でした。
秋山中将は、小艦艇同士の小競り合いの積み重ねが、あの経済大国イギリスを苦しめていると聞き、非常に興味を持ったのです。
そして「潜水艦」という兵器が、単に上陸軍の補給路だけではなく、国家そのものの補給路を断ちかねない恐ろしい兵器であることを知ったのです。
イギリスは島国。
日本も島国。
事態は深刻であると思われました。
現在、日本海軍が仮想的と見なしているのは、アメリカ海軍です。
そして潜水艦を発明した国は、アメリカ。
アメリカがフィリピンを拠点に無制限潜水艦作戦を行なった場合、日本は朝鮮半島や台湾との交通路を遮断され、石炭や食料の補給がままならなくなる可能性が高いのに、愕然としたのです。
石炭や鉄がなければ、精強日本海軍と言えども、敵艦隊を打ち破ることは出来ません。
何にもまして、古今東西食料を絶たれて勝利を勝ち取った国はないのです。
当時最良の対潜兵器は、イギリスの開発した爆雷でした。
この爆雷兵器は、その一式が既にイギリスから購入されており、1920年(大正10年)「改一爆雷」(後の「八八式爆雷」)として「八一式投射機」と共に制式採用されていました。
秋山らは、その爆雷を主兵装とする防備用艦艇の実現性を研究しました。
そして幾度か軍令部に対し対潜艦の整備の可能性を打診してみたのですが、対潜任務という地味な仕事を目的とした防備艦艇などは、日本海海戦の夢を追う八八艦隊案の影に隠れてしまい、なかなか日の目を見ることがありませんでした。
防備艦艇の整備をはかる、日本海海戦の功労者・秋山中将の前に立ちはだかったのは、正面装備拡充を推し進めんとする一派に担がれた、やはり日本海海戦の名将・軍神東郷元帥だったのです。
その上、ワシントン軍縮条約の是非を巡って海軍内は混乱状態になり、冷静に未来の戦争像を見据えた戦力整備を考えられる人間は、この時期数えるほどしかいなくなっていたのです。
1922年(大正12年)のワシントン軍縮条約締結により、八八艦隊計画は消滅しました。
この結果日本軍部の先鋭化が始まるのですが、取り敢えず破綻寸前の国家予算にようやく隙間が見えました。
1931年(昭和6年)、第一次軍備補充計画(通称「マル一計画」)において、海軍は対潜能力を重視した海防艦の予算を要求します。
強力な艦隊型駆逐艦の影にかくれて、こっそり要求された海防艦の数はわずかに4隻。
しかし、対潜海防艦の任務は対馬海峡の通商路を潜水艦から守ることであり、これこそ秋山元中将(既に退役)らの努力の結晶でした。
この海防艦の予算案が議会に提出されたのを見届けたかのように秋山元中将は他界、しかし折りからの大軍拡のために予算難に苦しんでいた議会は、この対潜海防艦なる新艦種に対する予算を拒絶しました。
海軍関係者以外のに中も大艦優先主義がはびこっていたのです。
この議決に、秋山中将と共に通商保護専門部隊の創設を目指して活動してきた海軍関係者は激怒し、既に退役していた佐藤元大将は海防論の啓蒙のために政界入りを決意します。
ですが、近代戦争の何たるかを察し得る議員を増やすことはできず、その存命中に対潜海防艦の予算案が成立することは遂になかったのです。
1937年(昭和12年)、第三次軍備補充計画において、ようやく日本海軍は対潜艦の予算化を決意します。
しかしそれは、かつて予算請求された海防艦という艦種ではありませんでした。
確かに同時に海防艦も予算化されたのですが、竣工後「占守型」と呼ばれることになるこれは、北方警備用の言わば対ソ専用艦であり、対潜能力はないに等しく、およそ対潜艦とはかけ離れたものでした。
マル三計画で予算化された対潜艦とは、海防艦ではなく駆逐艦だったのです。
この変更の裏には、こんな背景がありました。
新見少佐の提出したレポート「列国海軍作戦機関の研究」には、第一次大戦中のイギリスが組織した海上交通保護作戦に関する中央指導機構について詳細な解説が加えられていました。
時の軍令部長・山下源太郎大将をして、「我が海軍においても、この辺に対する職課の配員手薄の感なきや、大いに研究を重ね、噬臍(ぜいせい)の悔なきを要す」との判断を下さしめたのですが、この判断が本格的内戦部隊の要求を高め、1933年(昭和8年)、各鎮守府の警備戦隊の設立となって結実します。
更に翌1934年(昭和9年)、各警備戦隊を統合し、日本近海航路の警備を目的とした統合内戦部隊たる「警備艦隊」が設立されます。
これは統合外戦部隊である「連合艦隊」と対を成す戦力でした。
ただ、その統括・運用については、連合艦隊のようなものは組織せずに、イギリスを範にとって、軍令部直属の機関をもって行なうことにします。
軍令部は同年(1934年)改組、軍令部副次長とその配下に2部4課から成る通商保護の専門職を設置します。
この中の軍令部第5部第12課、通称「対潜課」が、対潜艦の要求仕様を決定することになったのです。
ちなみにこの組織再編成は、後々、別の意味で役に立つことになります。
対潜艦計画案を引き継いだ対潜課は、この計画を当時の潜水艦の実情に合わせて練り直すことにしました。
対潜海防艦案を提出した1931年当時は、まだハワイを策源地とする潜水艦行動は真剣に考えられてはいませんでした。
運用も、各鎮守府艦隊に所属し、鎮守府司令長官が担当する予定となっていました。
しかし警備艦隊が設立され、その守備範囲が台湾・南洋方面の補給路確保に及ぶことが確認されると、予定されていた対潜海防艦では設計の古さもあいまって、力量不足であると見積もられたのです。
また対潜課は、近い将来米海軍がハワイ〜日本本土間を往復し、補給路を攻撃できるような大航続距離を備えた潜水艦を整備してくることを予測し、これを日本の最新鋭巡潜2型相当の性能であると見積もりました。
次期対潜艦は、これを制圧できるだけの性能を要求されたのです。
| 軍令部(第12課)要求仕様 | |
|---|---|
| 基準排水量 | 1000t |
| 速力 | 25ノット以上 |
| 航続力 | 14ノットで4000海里 |
| 爆雷 | 爆雷搭載定数平時60個、戦時90個 |
| その他 |
船体・機関ともに量産性良好なること 聴音機・探信儀の装備区画を設けること |
まず、対潜課が最も気を配ったのは、船体・機関が共に量産性良好であることでした。
これは、基本的に対潜艦が数頼みのものであることを、第一次大戦の戦訓から学び取っていたからに他なりません。
そして軽艦艇の量産性の良否のほとんどが、機関の調達性如何に拠っていたことから、機関の量産性にも配慮したのですが、後に対潜課はこの選定に頭を痛めることになります。
次に重要視した爆雷の搭載数は、当時としては常識外れとも言える数を要求します。
これも、爆雷が無駄弾をばらまいていくらの兵器であることを知っていたからです。
定数は平時60個、戦時にはなんと90個もの搭載を要求したのです。
連合艦隊が躍起になって整備していた艦隊型駆逐艦や水雷艇の爆雷搭載数が16個〜18個程度であったことを考えると、その特異性が浮き彫りになるでしょう。
最後に、結局これが最も困難を極めたのですが、4000海里という大航続距離を要求したことです。
艦政本部との審議において出された要目には、巡航速力14ノットの記載があり、この時点ではオーソドックスなギヤードタービン艦を考えていたことになります。
しかし後に本格的な基本設計に入ると、16ノットで7000海里という数字が飛び出してきます。
当時の対潜課は、対潜艦に大型海防艦という位置づけを与えており、そのため同時期に計画された海防艦「占守型」と同様、燃費のいいディーゼル機関を採用しようという目論見があったようです。
ディーゼル艦であれば、巡航速力は16ノットで計算されるのが通例だったからです。
ですが、当時のディーゼル機関は未だ性能が安定しておらず、稼働率や全力発揮に難があり、この点がディーゼルかタービンかで対潜課が揺れ動く原因でした。
とにかく対潜課としては、対潜艦が護衛艦艇であるとの第一認識から、航続距離はなるべく長く設定したいというところだったのでしょう。
さて本題である、対潜艦はなぜ海防艦ではなく駆逐艦であったかという点ですが、これも戦訓から来ています。
対潜艦のお手本となったのは、対潜戦術や対潜戦略と同様、やはり第一次大戦当時のイギリス海軍でした。
第一次大戦の急速建造型イギリス護衛駆逐艦には、建造当初魚雷が装備されていなかったのですが、後に臨時に発射管を装備するようになっています。
この前例を忠実に踏襲したと言えなくもないのですが、実は海軍関係者の間には、決して口に出さないある苦い戦訓が横たわっていたのです。
その苦い戦訓が、新型対潜艦を駆逐艦足らしめた最大の要因でした。
海軍関係者の間に思い出された苦い戦訓とは、「常磐丸」。
玄界灘でのウラジオ艦隊による陸軍輸送船襲撃事件。
故・上村彦之丞提督が味わった屈辱でした。
この事件により、海軍の存在価値が艦隊決戦にあるのではなく、補給線の確保にあるということが再認識されたのです。
そして対潜護衛艦として計画されている新型艦の任務は、まさにこの補給線の確保にありました。
確かに潜水艦も深刻な脅威ですが、対潜艦に特化してしまった場合、その貧弱な砲兵装で巡洋艦の殴り込みを阻止できるのか、この点が問題として急浮上しました。
そこで新型対潜艦にも自衛用の雷装を施すことになり、このために、本型は駆逐艦となったのです。
検討過程では、「直衛艦」や「護衛艦」などの名称も取り沙汰されたのですが、この雷装と、乗り組む海軍将兵の士気を損なわないようにという配慮から、「駆逐艦」という名称に落ち着いたというのが真相のようです。
| 計画時要目 | |
|---|---|
| 公試排水量 | 1210t |
| 基準排水量 | 1000t |
| 全長 | 89.0m |
| 最大幅 | 8.7m |
| 吃水 | 2.44m |
| 主機械 | 艦本式オールギアードタービン2基 |
| 軸数 | 2軸 |
| 主缶 | ロ号艦本式重油専焼缶(蒸気圧30キロ、蒸気温度350度)2基 |
| 速力 | 28ノット |
| 軸馬力 | 19000馬力 |
| 航続力 | 3300海里(14ノット) |
| 主砲 |
40口径八九式12.7センチ高角砲単装1基1門 40口径八九式12.7センチ高角砲連装1基2門 |
| 発射管 | 十年式53センチ2連装水上発射管1基2門 |
| 爆雷 |
九三式爆雷投射機(長距離爆雷砲)1基 九四式爆雷投射機(Y砲)3基 爆雷投下軌条2基 爆雷搭載定数平時60個、戦時90個 |
| 機銃 | 毘式40ミリ単装1基 |
| その他 |
建造に際しては熔接構造を全面的に採用すること |
この要目の中で最も目を引くのが、九三式爆雷投射機の存在です。
九三式爆雷投射機は、通称「長距離爆雷砲」とも呼ばれ、大砲型をした爆雷投射機です。
通常の爆雷投射機の投射範囲が200mそこそこであるのに対し、長距離爆雷砲は仰角40度で1400mもの投射範囲を誇りました。
使用する九三式爆雷の形状も、大砲型の投射機に合わせて砲弾型です。
装備場所は前方砲のすぐ後ろ、艦橋の直前に設けられ、従来の爆雷とは左右後方にのみ投射可能な兵器であると言う概念を覆したものです。
欠点は単発式であることで、絨毯爆撃のような投射法でなければ意味のない爆雷兵器において、ほとんど威嚇にしか役に立たないとも評されていました。おかげで、敷設艦「厳島」にしか装備されなかったと言う珍品中の珍品です。
それを対潜駆逐艦に大々的に装備しようと言うのです。
実効力はどの程度あるのか、対潜課としても疑問でしたが、前方至近距離に現れた潜水艦に対しては体当たり戦法しか手がないという現状を、少しでも改善しようと言う試みでした。
対潜兵装は、この長距離爆雷砲の他に、日本艦艇に標準的な九四式爆雷投射機(Y砲)を3基搭載、更に爆雷投射軌条すら2基を装備していました。
これは同時期に計画され、対潜兵装が比較的充実していた艦隊型駆逐艦「白露型」よりも強兵装でした。
備砲は、本型が対潜専用艦であることと、なるべく軽量化したいという意向から、当初「M砲」と呼ばれる平射砲・45口径十一年式12センチ砲が選定されていました。
しかしフィリピンからの爆撃圏が意外に広いこと、更に中国大陸からの航空機の行動半径が台湾航路を包む可能性があるという観点から、弱体ながらも高角砲を装備した方が良いとの意見が出たのです。
そこでやはり重量の軽い40口径三年式8センチ高角砲が候補に上がったのですが、敵潜が14センチ砲を装備している可能性が強く、浮上砲撃戦を挑まれた場合、8センチ砲では撃ち負ける可能性もあるとのことで、ポピュラーな40口径八九式12.7センチ高角砲が選ばれることになったわけです。
残念ながら重量の関係で前後に連装砲は装備できず、重心の上昇につながる前方砲は単装化することになります。
この前方単装、後方連装というレイアウトはバランスが極めて良好で、後の「丁型」駆逐艦や、「御蔵型」海防艦にも採用されるところとなります。
対空兵器としては、12.7センチ高角砲の他に、毘式40ミリ単装機銃が発射管後方に据えられました。
当時の日本艦艇としては標準的な対空兵装でしたが、本型の場合、浮上潜水艦射撃用としての意味がかなり含まれていました。
雷装については、53センチ2連装魚雷発射管を装備することになりましたが、次発装填装置はおろか、予備魚雷すら搭載しないことになりました。
これについては異論も出ましたが、重量的な問題に加えて搭載スペースの不足も重なり、特に爆雷搭載場所の圧迫から、予備魚雷の搭載を断念せざるを得ませんでした。
更に高等技術審議会においてこの問題が取り沙汰され、いっそのこと魚雷発射管を降ろしてしまってはどうかという提案もなされたようです。
ですが、日露戦争における玄界灘の近衛師団の悲劇から、敵水上艦艇の殴りこみの恐怖はやはり拭い難く、自衛用としての魚雷の存在価値の大きさは無視し得ないとして、装備されることになりました。
兵装に関しては、比較的すんなり決定したのですが、船体と機関の決定には紆余曲折がありました。
まず船体です。
本型に限らず、マル三計画艦の全てに共通して言えることですが、船体は頑丈に造ることが過度に重要視されました。
ちょうど第四艦隊事件があったばかりで、海軍全体が非常に神経質になっていたのです。
この第四艦隊事件と、潜水母艦「大鯨」の船体反り返り事件の影響で、熔接構造は全般的に否とされ、鋲構造が強要されたのです。
しかし設計を担当した川崎側は、熔接構造の全面採用を主張します。
対潜課の面々は驚きを隠せませんでしたが、川崎側の技術陣は熔接構造に関しては技術的に全く問題がないと言い張ったのです。
対潜課は、苦しい予算事情から、建造費を抑制できる熔接構造の採用には魅力を感じていたものの、その耐久性が取り沙汰されている時期が時期だけに、その逡巡は大きかったようです。
ですが新設されたばかりの対潜課の本務課員にはまだ若者が多く、新進気鋭の雰囲気に満ちており、川崎側の技術陣の熱心な説得にやがて同調し、全面熔接構造の採用に踏み切ったのです。
艦本は当然、この件に関しあまりいい顔はしませんでしたが、本型が決戦戦力でないことから来る無関心も手伝って、勝手にしろとの雰囲気が強く、特に異論を唱えることはありませんでした。
次に機関です。
要求速力25ノット以上かつ、航続距離14ノットで4000海里を実現するには、それなりの高性能機関を使用しなくてはならないことは明白でした。
「占守型」海防艦では、艦本式22号10型(ディーゼル)を採用し、航続力は16ノットで8000海里と、非常に優れた性能を獲得しました。
しかし最高速力は20ノットに届かず、これでは将来出現するであろう、新型米潜に対抗できるかどうか不安が残ります。
対潜課が仮想米潜と想定した日本海軍の巡潜2型は、水上20ノットの高速力を誇るのです。
これを制圧するには、最大速力25ノットは譲れない線であると考えられていたのです。
ではディーゼル搭載となった場合、速力の関係から、候補となるのは巡潜1型などに採用された、艦本式1号ディーゼル機関でした。
巡洋潜水艦用のディーゼル機関は、極めて良好な燃費と大馬力を兼ね備えており、航洋護衛艦の機関としては性能面で理想的な機関に思えました。
これならば、25ノットを超える高速力を獲得することが出来るであろうと試算されます。
ところが同時期のマル三計画において、大出力艦本式ディーゼルを装備する艦隊型潜水艦が大量建造されることが判明します。
そうなると日本の造機能力の低さから鑑みて、機材の数が確保できない可能性もあったのです。
対潜課のディーゼル熱を冷ました一因には、この艦隊型潜水艦の姿も見逃す事ができないでしょう。
結局対潜課は、その大航続力に未練を残しつつも、最大速力と調達性の良好さを重視し、タービン機関を採用することにしたのです。
さて、タービン機関を採用するとしても、要求値を満足することのできる機関を探さなくてはなりません。
なければ新たに開発しなくてはなりませんが、対潜課はできるだけ短期間に対潜駆逐艦の数を揃えたいという事情がありました。
理想からすれば、出力20000馬力の高温・高圧缶が欲しかったのですが、ちょうどそれに近い機関があったのです。
それはマル二計画で建造された「鴻型」水雷艇の機関でした。
「鴻型」水雷艇に採用された主缶は、二缶で19000馬力を出す艦本式重油専焼缶。
主機械は、艦本式オールギヤードタービンです。
このペアを2基装備した「鴻型」は、840トンで30ノット以上の速力を誇り、航続距離も14ノットで4000海里という、まさに理想的な艦でした。
機関については、運用結果は非常に良好、その後の艦艇用高温・高圧缶の基礎になった程の出来栄えで、性能的にも調達性にも全く申し分のないものだったのです。
対潜課はこの機関の採用を決定します。
しかし「鴻型」の高性能の裏には、艦のトリムを微妙に調節したりする必要があったりと、かなりの無理が生じていたことも確かです。
対潜課は、対潜駆逐艦にはこのような凝った仕掛けはなるべく排除して、量産性を向上させる予定でした。
この結果、最大速力は28ノットに、航続距離は14ノットで3300海里程度と試算されました。
確かに航続距離の短縮は痛いことでしたが、最大速力は満足できる値となり、また量産効率を優先させるという方針が堅持され、大きな問題とはされませんでした。
いよいよ1番艦が、川崎重工で起工されます。
2番艦以降も、三井玉野造船所や鶴見製鉄造船、石川島造船所、大阪鉄工所などで次々と起工されていきます。
彼女ら第一グループは、熔接技術の検討を加えつつ建造されたので、全面熔接構造の割には建造期間が長く取られてしまいました。
1939年(昭和15年)2月21日、待望の1番艦が、川崎重工で進水式を迎えます。
この1番艦は「撫子(なでしこ)」と命名され、同年5月18日竣工、海軍に引き渡されました。
引き渡しに先立って行なわれた公試運転では、良好な成績を収めました。
細心の注意を払って建造されたその船体は、何の障害も生じることがなく、川崎重工は大いに面目を施すことが出来たのです。
この後に次々と竣工して来る「撫子型」駆逐艦「菖蒲(あやめ)」「菫(すみれ)」「椿(つばき)」を待って、第101駆逐隊(警備艦隊所属駆逐隊は100番台を割り振られた)が編成されます。
近代的な航洋護衛艦を入手できたことに狂喜した対潜課は、編成後、様々な対潜哨戒法や護衛法を研究しました。
従来の旧式駆逐艦や沿岸用艦艇では実現が不可能な、外洋での技法です。
時代は風雲急を告げ、既に対米戦争は避けられないという噂が、日本中に広まっていた時期です。
この戦技研究の結果、改正連合投射法などの効果的な爆雷投射法が編み出されることになり、それまでの対潜攻撃法がいかに旧態依然としたものであったかを改めて証明して見せたのです。
特に編隊対潜攻撃法についての研究に熱心に取り組み、第六艦隊など潜水戦隊との合同演習をしばしば行ないました。
問題だった九三式聴音機と九三式探信儀の能力不足ですが、この頃試験的に輸入されたドイツのS装置(水中探信儀)を「撫子」「菖蒲」に装備し、比較検討してみたところ、非常に高性能であることが確認されます。
そこで対潜課は、日本電気に対しこの製造権の取得を指示、量産化をはかることになります。
水中聴音機の方も、音響研究部において進歩が認められます。
それまでロッシェル塩は高性能であるものの、環境の変化に弱いと信じられていました。
しかし禁忌とされていた悪環境下でロッシェル塩を試用したところ、その結果は予想に反して大変好成績だったのです。
そこでロッシェル塩方式の捕音機の実用化に向けて研究が開始されていたのです。
しかし聴音機も探信儀も、量産化までは程遠く、しばらくの間は九三式のペアで我慢せざるを得ませんでした。
水中測的兵器の他に発見された不具合は、やはりあの長距離爆雷砲・・・九三式爆雷投射機でした。
長距離爆雷砲は、使う頻度は思ったよりも多く、搭載するだけの価値があったことがわかったのですが、その使用場面が想定した状況と異なることも判明したのです。
それは、長距離で使う機会はほとんどなく、前方至近距離、およそ500メートル以内の範囲でないと使用しなかったのです。
この原因はやはり水中測的兵器の能力不足にありました。
そこで対潜課は長距離爆雷砲の改良にも着手します。
取り敢えずは射程を短縮し、また現場から「単装では効果なし」との意見が上がったため、急遽連装化することにしました。
研究結果では4連装以上が理想とされたのですが、とにかく急いで実用化することが必要だったため、小手先の改良で済ますことにしたのです。
この改造は迅速に行なわれ、昭和16年中ごろには実用化の見込みが立ち、制式採用前に「撫子型」全艦に装備されました。
同時に爆雷も改良され、九三式爆雷よりも小型化されたものを使用することになりました。
改造した爆雷砲は一式爆雷砲、また新式砲弾型爆雷は一式爆雷と呼ばれることになります。
この量産には民間企業によって行なわれることになり、これは日本の爆雷兵器の製造としては初めての試みでした。
急速に数量を確保する必要があったための方策でしたが、これを契機に他の爆雷の製造も民間業者に委託されることになりました。
ちなみに一式爆雷の特徴は、前方投射兵器であることの他にもう一つありました。
当時主力だったドラム缶型の九五式爆雷よりも沈降速度が速かったことです。
弾体形状がたまたま砲弾型だったことから来た副産物でしたが、爆雷が高速で沈降することで、潜水艦の水中回避運動による命中率の低下が抑えられることが判明したのです。
「撫子型」は九三式爆雷と九五式爆雷の二種類の爆雷を同時に運用していました。
おかげで二種類の爆雷を比較検討できたため、従前のドラム缶型爆雷の沈降速度が問題視されるようになったわけです。
このため、沈降速度の向上と、搭載スペース節約のために小型化をはかった新型爆雷の開発もスタートすることになりました。
さて、「撫子型」マル三計画艦16隻は、1940年(昭和15年)中には全艦が竣工しました。
続くマル四計画(昭和14年度計画)でも、再び16隻が計画され、1941年(昭和16年)中に全艦が揃っています。
更に日本の南進計画が現実味を帯びた1940年(昭和15年)、その航路確保が今まで以上に重要視されます。
そしてその時点で、外洋でも効力を損なわない対潜戦力と認められたのは、「撫子型」だけでした。
このため、1940年度(昭和15年度)の臨時計画でも、16隻の計画が追加されます。
開戦時に参戦できたのは、この3期分48隻の「撫子型」でした。
これら「撫子型」の艦名には全て花の名前がつけられ、そのため連合艦隊将兵からは軽蔑の意味も込めて「花畑」とか「芸者」と呼ばれることが多くありました。
1943年に建造される「雑木林」丁型駆逐艦と、名前の取り合いになることもあったようですが、それは後の話です。
戦場における「撫子型」の活躍は、地味なものの、枚挙に暇がありません。
マレー攻略戦に始まった船団護衛戦は、開戦直後に開始された米軍の対日無制限潜水艦作戦によって、日本輸送船を付け狙う米潜との戦いに他なりませんでした。
初期は、練りに練られた護衛作戦と、練度の高い乗組員の活躍、そして米潜の魚雷の数量不足や性能不良により、「撫子型」は米潜をほとんど一方的に制圧します。
発見された米潜は、少なくても2隻以上の対潜駆逐艦によって徹底的に制圧され、その制圧時間は多くの場合12時間以上、時には48時間にも及びました。
そんな「撫子型」は、商船乗組員からは「一本煙突」(艦隊型駆逐艦が二本煙突であったことが理由か?)と呼ばれ、親しまれます。
輸送船団の外郭に陣取り、艦上に見張員を鈴なりにさせているその姿は、商船乗組員にとって守護神のようでした。
とは言え、「撫子型」にも全く被害がなかったわけではありません。
昭和16年12月30日、マニラ沖で「桔梗(ききょう)」が被雷・大破したのに続き、開戦から昭和17年6月までの間に「撫子型」3隻が撃沈され、数隻が損害を受けています。
そのほとんどが夜間雷撃による被害で、自慢の見張員の能力が減殺された時に、米潜に狙われたのです。
米潜の武器は、まだ不完全な性能でしたが、暗夜に敵艦をとらえる事が出来たレーダーでした。
科学技術の立ち後れは日本艦艇共通の弱点でしたが、「撫子型」もその埒外ではなかったのです。
1942年(昭和17年)後期、魚雷の性能不良を克服し、更にマスプロにのった新型潜水艦が大量に就役し始めると、日本輸送船の被害は次第に増加していきました。
ところが、商船行動管理課が護衛計画に責任を持つ南方資源ルートは、極めて安全でした。
まだ米潜の主目標にされていなかったことも原因ですが、「撫子型」や、沿岸に整備された対潜専門の基地航空隊の哨戒活動の厳重さが、米潜の活動を有効に阻害していたことも、大きな要因でしょう。
では、輸送船の損害が増大したのは、どのルートだったのでしょう。
それは、日本〜トラック間を往還するルート上でした。
実は、軍令部商船護衛課が護衛を受け持っていたのは、日本沿岸・中国沿岸と、日本から南方資源地帯のルートだけで、南洋諸島向けの軍需品輸送路の護衛活動は連合艦隊が受け持っていたのです。
より厳密に言えば、C船(商船行動管理課管理船)の全てについては、国家経済の動脈であるために、軍令部商船護衛課が受け持ちました。
A船(陸軍徴用船)の大部分も、C船に相乗りする形で運行されたため、結果的には商船護衛課が護衛を受け持っていました。
問題はB船(海軍徴用船)で、陸戦隊や艦隊用物資の輸送に関しては、商船護衛課の管理外だったのです。
自前の護衛戦力を持つ連合艦隊は、輸送船の運行計画に何かと注文をつける商船行動管理課を煙たがり、上海事変を機に「海軍徴用船の運行は原則として連合艦隊がこれを管理する」と決定していたのです。
つまり、トラック・ルートの護衛は連合艦隊の管轄だったわけです。
米潜は、日本〜トラックを往還する船舶を、片っ端から狙い撃ちにしていきました。
悪いことにこのルートは、軍需物資輸送船団のため優秀な高速船が多く使われており、これが逆に独航船たる素地を生んでしまったのです。
特に高速タンカーの喪失は痛恨事でした。
日本はこの手のタンカーの保有数が極端に少なかったのです。
そして時々、連合艦隊の艦艇が護衛につくことがありましたが、連合艦隊のほとんどの士官は商船護衛の方法など知らなかったのです。
対潜術も艦隊型駆逐艦のほとんどが、やたらと高速で走りまわって海面をかき乱し、爆雷の投射を繰り返すだけ。
水中測的兵器を有効に活用した測的投射法などは、護衛艦の艦長が個人的に知っていた場合以外、決して行なわれることがなかったのです。
この時期の米潜の艦長の報告には、「日本駆逐艦は対潜戦闘のやり方を知らない」とまで書かれていたほどでした。
主武装である爆雷の搭載数は、「撫子型」90個に対し、「改撫子型」は150個に達しました。
同時に装備する爆雷も、ウェーク島の戦訓から被弾しても誘爆し難く改良し、米潜の性能が想像以上に高いことから発火深度を150メートルに深めた、二式爆雷に更新されます。
また、爆雷投射機そのものにも変更が加えられます。
現場から爆雷の同時投射数増大の要望が相次いだためです。
この頃対潜戦術で有望視されていたのが、「異深度多数爆雷投射法」と呼ばれるものでした。
これは敵潜潜在面を立体的に捉え、浅から深まで三段階の発火深度に調整した爆雷を一気に投射する方法です。
しかしこの異深度多数投射法の効果を極大にするためには、「撫子型」の同時投射数8個(投射6、投下2)では不足であると指摘されていたのです。
対潜課ではこの意見を汲み取り、「改撫子型」では爆雷投射機を倍に増強することにしました。
「撫子型」が装備した九四式爆雷投射機は、Y砲と呼ばれる両舷投射用のものです。
しかしこれだと装備場所が両舷に開けた場所に限定されてしまうため、同時投射数の増強には限りがありました。
片弦投射用のK砲と呼ばれるタイプであれば、舷側などの甲板の空いている場所に増載することが可能と思われました。
そこで旧来のK砲、八一式投射機をベースに簡易化をはかった、二式爆雷投射機が登場します。
「改撫子型」は、二式投射機を後甲板に6基、舷側に片弦3基ずつ6基装備します。
これによって、爆雷の同時投射数は12個、投下軌条を加えると14個に達しました。
一式爆雷砲は、唯一の前方投射兵器としてそれなりに評価されており、装備は継承されています。
この爆雷兵装強化の代償に、「改撫子型」では雷装が廃止されます。
情勢から鑑みて敵水上艦との近接戦闘は有り得ないと判断されたのです。
これにより、本型は駆逐艦たるアデンティティを失ったことになりますが、対潜課としては護衛活動に不要と判断された魚雷に特に拘泥はなく、この雷装廃止はあっさり決定されました。
爆雷と共に強化されることになったのは、対空機銃です。
重大な脅威となりつつあった航空機対策が重視され、機銃の大幅増載がなされることになったのです。
毘式40ミリ単装機銃は、ポピュラーな九六式25ミリ連装機銃に換装され、その数も連装5基に増やされました。
これらの装備改変は、活動中の「撫子型」にも加えられ、その装備は一段と充実することになりました。
更に同年、待望の新式聴音機と新式探信儀が、二式聴音機と二式探信儀として制式化、相次いで量産が開始されます。
二式聴音機は、海軍音響研究部が完成させ、東芝が製造を担当します。
ロッシェル塩方式を採用した二式聴音機は、九三式の倍の距離でも同等の性能を発揮することができる、良好な性能を保有していました。
またドイツのS装置をもとに開発した二式探信儀は、S装置の製造権を取得した日本電気が主務となって製造を開始しています。
この二式ペアは急速生産が指示され、軍需省などからも優先的に資材が割り当てられたほどの期待度でした。
おかげで同年中には、「撫子型」全艦の九三式ペアが二式ペアに更新されることになったのです。
この他にも海防艦や駆潜艇に、この二式ペアは優先的に割り当てられ、「秋月型」駆逐艦にも装備が実施されました。
また二式ペアの実用化に伴い、音響研究所と対潜学校、及び呉防備隊内に「水中測的術講習所」が設置され、対潜学校の学生以外の者(特に予備士官)に対しても、二式ペアの操縦法についての教練が組織だって行われるようになりました。
「改撫子型」は、改マル五計画において、36隻が要求されました。
「改撫子型」の一番艦は早くも1943年(昭和18年)2月には竣工し、「杜若(かきつばた)」と命名されます。
「杜若型」は「撫子型」に輪をかけて量産性が良く、新造艦が次から次へと就役していきました。
彼女たちは、日本海で徹底的な訓練を受けてから、海上護衛に参加していきました。
連合艦隊の艦艇数が減少の一途をたどっているのとは正反対に、海上護衛兵力は「撫子型」「杜若型」を始めとする対潜駆逐艦や海防艦など、日一日その数を増やしていたのです。
日本海軍はその姿を、戦前の海上決戦兵力から海上護衛兵力へと、変貌させつつあったのです。
またフィリピンやジャワなどの占領地にも対潜航空隊が進出を終え、陸軍の一部航空隊をも指揮下に編入し、商船行動管理課の指導する南方資源ルートの輸送船団はより安全な航海が約束されつつありました。
しかしそれにもかかわらず、戦局は悪化する一方でした。
爆雷の改良も進みました。
小型急沈降爆雷の量産と配備が開始されたのです。
九五式爆雷、二式爆雷とは異なり、全体が丸みを帯びた涙滴型の小型爆雷、これが三式爆雷です。
沈降速度は、九五式の毎秒2.6メートル、二式の毎秒2.7メートルに対し、三式毎秒5.9メートル。
発火深度も、米潜の性能向上に合わせて、最深200メートルまで調定可能。
二式より小型のため、同じ搭載スペースに、より多くの爆雷の搭載が可能でした。
一例を取ると、「杜若型」の一艦「桜(さくら)」が、定数150個のところを320個まで積んだという記録があります。
また、一式爆雷砲の強化型、一式二型爆雷砲が配備され始めます。
一式爆雷砲の2連装から5連装に増加し、なおかつ重量は倍程度に納めるという、造兵部の苦心の一品でした。
5連装の中央砲が基準砲で、左右2門は基準砲の四方に落下するように調整されており、これによって「撫子型」「杜若型」はようやく有効な前方投射兵器を手に入れたことになりました。
使用する爆雷も、調定深度が100メートルから200メートルになり、触発信管も追加されました。
更に、米潜が輸送船を攻撃するに当たって、しばしばチームを組む僚艦と無線連絡を取り合うことを掴んだ対潜課は、「撫子型」「杜若型」の無線機能を強化したりもしました。
米潜同士の交信を傍受することによって、その潜伏海域を事前に察知し、避けようと考えたのです。
電探の装備と無線設備の強化に伴い、もともと小型な「撫子型」「杜若型」の電信室は大変手狭になってしまい、発射管撤去跡に設置された中部艦上構造物を拡大、移設されることになります。
しかも、日本製のデリケートで複雑な無線設備を使いこなすため、下士官・兵ではなく、専門の教育を受けた大卒の予備士官を配員したのです。
この措置は、電探の管理兵科すらも航海科や砲術科の間で決められなかった連合艦隊とは全く対照的な英断でした。
一刻も早く米潜への有効な対抗手段を欲していた対潜課は、機械の改良を待つよりも人間を合わせた方が早いと踏んだのです。
しかし電探の性能は、警備艦隊が望んだほど高いものではなく、米潜の影を掴むことは容易ではありませんでした。
それでも各種新兵器の矢継ぎ早の投入によって、少なくても昼間襲撃の被害は鎮静化しました。
すると米潜は、日本の夜間護衛能力の低さを狙ってきたのです。
稚拙な電探を振りかざして警戒を行なう「撫子型」「杜若型」を嘲笑うかのように、米潜は漆黒の闇の中から魚雷を放ってきました。
22号電探では、どうしても夜間襲撃を抑え切る事ができなかったのです。
この事態に対し、これまで受け身であった警備艦隊は、遂に米潜の積極撃滅作戦を展開することになりました。
1943年(昭和18年)5月15日、警備艦隊は連合艦隊から改装空母「大鷹」「冲鷹」「雲鷹」を移管されました。
改装空母による船団直接護衛は、空母自体が護衛を必要とすることから、足手まといであると判断していた警備艦隊は、この申し出を最初は苦々しく受け止めていました。
やはり連合艦隊でも、これらの改装空母を決戦兵力として期待できないからこそ、手放したのです。
しかし、これを間接護衛に使用した場合はどうか・・・
対潜課課員の一人がそんなことを言い出してから、事態は急変しました。
警備艦隊は、これを軸に3群の機動対潜部隊を編成することにしたのです。
その最初の部隊が、空母「大鷹」と二個駆逐隊8隻、海防艦2隻をもって第一掃蕩部隊として編成され、同年8月に合同訓練を終えました。
各方面から矢の催促を受けていた対潜掃蕩部隊の出撃はすぐさま行なわれ、パラワン水道近辺を目標に選定します。
対潜掃蕩部隊は9月20日、フィリピン近海に進出します。
「大鷹」機と基地航空隊の901空は、協同してパラワン水道海面を索敵、浮上航走中の米潜を発見します。
発見された米潜は急速潜航し、対潜爆弾の直撃を免れましたが、1隻発見すればその周囲に少なくても2隻の米潜が潜んでいるはずです。
航空隊はパラワン水道の海面を舐めるように捜索します。
これには、新たに装備が始まった磁気探信儀装備機が加わりました。
磁探ならば、飛行機からでも潜水中の敵潜を発見する事が出来ます。
初回ということもあって、非常に密な哨戒網を張った901空によって、更に2隻の米潜が発見されました。
901空は、満を持して駆逐隊を呼び出します。
「紅蘭(こうらん)」「紅梅(こうばい)」「紫陽花(あじさい)」「紫苑(しおん)」から成る第123駆逐隊は、「大鷹」の九七艦攻に前方を哨戒してもらいながら現場海域に急行、次々と米潜を撃沈していったのです。
この作戦は大成功を収め、味をしめた対潜課は、掃蕩海域にフィリピンと台湾付近を指定、引き続き対潜掃蕩作戦を行なうことにしました。
警備艦隊は、これから1年間にわたる対潜掃蕩作戦の中で、空母「神鷹」と対潜駆逐艦7隻を撃沈された代わりに、49隻の米潜を撃沈、30隻以上を撃破したと報告します。
この戦果は戦後の米軍の資料からも裏付けられ、フィリピン海域は米潜の墓場であるとまで言われました。
この時期に失われた米潜は、大戦全期を通じた喪失数の、実に50パーセントに当たります。
ですが、米潜水艦隊はどんなに大きな被害を出しても、なかなか諦めることはありませんでした。その規模は大型潜水艦70隻。なお多数が建造中です。
この年(1943年)7月、戦時艦船補充計画(マル戦計画)において、「杜若型」72隻を追加発注・・・太平洋戦争は、完全に護衛戦争の様相を呈していました。
終戦時残存数、「撫子型」48隻中21隻、「杜若型」53隻中25隻。
被害内訳、潜水艦によるもの21隻、航空機によるもの28隻、水上戦闘によるもの1隻、触雷によるもの4隻、その他1隻。
しかし軍令部通商保護部と警備艦隊、防備戦隊の活躍は、戦後、米軍や英軍に高く評価されます。
特に米戦略爆撃調査団、米潜水艦隊関係者、英軍通商保護関係者にあっては、1944年中期までの護衛活動はパーフェクトであった、とまで言わしめたのです。
それは、秋山元中将や新見中将(終戦時)らの先見性への賛辞に他なりません。
そして何よりも、護衛された経験を持つ商船乗組員たちから聞かれる「一本煙突のその影は小さかったけれども、我々商船隊にとっては大きく頼り甲斐のある姿だった」という回想の言葉が、本型の存在感と活躍ぶりを示していると言えるでしょう。
ある作家の小説に「撫子型」「杜若型」の奮闘を評したこんな言葉が残されています。
「花は次の世代を残すための道具である。『花畑』と呼ばれたあの駆逐艦たちは、まさに花としての働きをしたではないか。『撫子』らは、国民が口を糊するための糧を運ぶフネを守ったのだから」
残存した「撫子型」「杜若型」の多くは特別輸送艦に指定され、引揚者の輸送に従事した後、特別賠償艦として連合軍に引き渡されました。
何隻かは、中国軍やソ連軍でしばらく使用されたと言います。
しかしその多くは国内で売却され、屑鉄として売却されました。
最後の最後まで彼女たちは、国民の糧を得る手段となったのです。
どうも、前回「重巡富士@モンスーン戦記」で採用していただいた深雪です。
今回は、昭和12年度計画に、どうやって「対潜艦」という構想を潜り込ませるかに、主眼を置いています。
某A巻並みの酷い御都合主義的歴史改竄をやるのは趣味じゃないので、それなりに史実に則った改竄をやってみました。
「この歴史の流れなら、きっとこういう艦が出来るだろう」と、初めに艦ありきではなく、まず対潜艦を生み出す素地を演出してみたつもりです。
それでもまぁ、結局はフネはヒコーキには勝てないので、日本勝利までは行けませんけどね。
それに、これだけ通商保護の重要性を理解している人たちがいるんだったら、対米戦などやらなかったのではという気もしないでも・・・(^^;;
そういう意味で、通商保護部の長には井上成美海軍大将を据えています。
ただ「対潜艦」に固執したばかりに、「駆逐艦」である必要性が見つからず、かなり苦しい展開になってしまいました。
それに艦自体も、当時としては特に真新しい技術は使っておらず、極めてオーソドックスな設計になってます。
火葬艦ではないので、一見したところ面白くないかもしれませんが、その分実現性は十分あるので、噛めば噛むほど味が出てくる艦ではないでしょうか?
特に九三式爆雷砲は、ヴィッカース社製の爆雷遠投兵器をコピーした、実在する兵器です。
多連装化すれば、或いは英海軍のスキッドに類似したものになった可能性もあったのではないかと思っています。
それと、フィリピン1943の日本版ハンター・キラー。
これはまさに31戦隊の怨念です。
まともな訓練と運用さえされていれば、結果を残せたのではないかと・・・残念な部隊でした。
それで最初の話に戻るのですが、昭和12年度計画っていうところが妙だったですね。
なんて言ったって、「占守型」海防艦の要求年度ですから、日本海軍の防備戦力充実の試金石的な面もあったわけです。
胃袋さんがどういう理由でこの年度を選んだのかは知りませんが、実にいいところをついています。
ここらへんから対潜護衛艦をもっと本格的に研究していれば、あるいは日本人の考え方も違っていたのかも知れませんね。
今回の競作では、駆逐艦は言うに及ばず、潜水艦や対潜兵器、各種電波兵器、対潜作戦と海上護衛戦、海軍組織と人物など、かなり広範な部位を勉強させていただくきっかけになりました。
おかげで自分のホームページの更新が滞りましたケド(笑)
防備戦隊の対潜戦術が連合艦隊のそれを遥かに凌駕していたこと、対潜戦術と護衛戦術とは別物であるということを知ったことは、大きな成果です。
いい機会を下さってありがとうございました。>胃袋さん
飽きもせずに最後まで読んで下さったかたがた、お礼申し上げます。
とゆーわけで・・・今回の対潜駆逐艦のチャームポイントは「名前」だっ!
かなり苦しい名前もあるけど、いいのだっ!!
123駆司令駆逐艦は、絶対に沈めないぜぇ〜(<-激バカ)