キ75乙「蒼燕」

蒼燕

昭和16年12月11日、各務ヶ原飛行場で川崎の新鋭戦闘機が初飛行に成功した。 後に三式戦闘機『飛燕』となる機体である。操縦性、安定性、速力、航続距離、 火力等々、申し分無く、総合成績で「優秀」といわれるまでの高性能を誇った。 しかしまず、この日本製DB601Aであるハ−40の生産につまづき、量産は遅々 として進まなかった。また、陸軍側からも(当の操縦者は求めていないのに) 後方視界の要求が出され、一型の生産は抑えられた。また、生産された『飛燕』 を配備した実戦部隊は発動機の不調に悩まされ、とてもじゃないが前線出せる ような状況に無く、ただ整備員の教育や操縦の完熟訓練をしているのみだった。

これは、ハ−140搭載の2型の登場を待ってやっと改善される。この2型 は「早く量産を」と言う陸軍側からの圧力により、改良点は最小に抑えられた。 主な改良点としてはファウスト・バック式の風防を涙滴型に改め、機首を42cm 延長し、20mm機銃を主翼に2門、機首に2門搭載等々で、主翼は特に形状を変 えなかった。

この三式戦2型は登場時期が遅く、時期的に中島の四式戦闘機『疾風』と重 なってしまい、あまり華々しく活躍する事は出来なかった。

さて、そんな三式戦に転機が訪れる。昭和19年4月から米軍による本土空襲 が始まったのだ。しかもやってくるのはこれまでのようなB−17やB−24 とは格の違う新鋭B−29であった。タービン式加給器を搭載し、高度1万m を悠々と飛び、少々の攻撃では撃墜できない。陸軍は慌てて各社にB−29に 対抗できる戦闘機の開発を命じた。

これを受け、一番早く行動を起こしたのは川崎だった。故障続きでマトモに 飛ばない事から「本土防空戦隊」と言う大層な名前をつけられた部隊に三式戦 が配属されていた事から、B−29の性能がどんなものかをよく解っていたの である。機体番号はキ75乙となった。そしてそれを担当する事となった本田 技師は土井技師と同じく、陸軍の要求に縛られず、B−29と三式戦の戦いで 得た物をより活かして新しい機体を作ろうとした。彼はまず、整備性を重視す る事にした。下手に新型の発動機手を出すことをせず、既存のハ−140を用 いる事としたのだ。続けて、大型機を相手とする以上多くの火機を搭載したい。 出来るなら一点に攻撃を集中して1箇所により大きな損害を与えたい。と言う 目的から、双胴にして間にプロペラを搭載する推進式の形状を採用した。機首 に20mm機関砲4門搭載───までは一気に決まった。

ところが推進式の機体だと、出力に不安が出る事が解ってきた。ハ−140 の単発では出力が不足なのだ。そこで、双胴の先にも発動機を搭載して3発と する事にした。ここで、誰かがふと、口にした。
「左右の胴体には三式戦が使えるのではないか───」
それは良い───と、早速テストしてみた結果、強度は十分にあることが判 明した。エンジン架一体の構造が役立ったのだ。ただ、水平尾翼がそのままの 位置にあるとプロペラ後流にあおられかねないのと、垂直尾翼の面積が不足す るであろう事から、元々後輪のあった辺りにヒレを付け足し、そこに水平尾翼 を置く事とした。また、中央胴体と左右の胴体が1直線状にあると視界が悪く なるであろう事とプロペラ後流を少しでも水平尾翼から離したいのとで逆ガル 翼を採用した。武装は元々計画していた20mm4門から、三式戦搭載分の各胴体 2門ずつが加わって計画値の倍、20mm8門を搭載していた。

設計は順調に進み、試作機は昭和19年1月には初飛行に成功した。航続距 離が短いものの、取りたてて欠点は無く、整備性も良好、稼働率も良く、安定 性は申し分なく、上昇力は海軍の『雷電』に匹敵するまでだった。また、脱出 時の乗員の安全のため、プロペラ飛散装置も取り付けられた。

各諸元は以下の通りである
形式・構造
単発、半低翼単葉、全金属製、応力外板構造、引込脚

全幅 :15.62m
全長 :10.24m
全高 :3.75m
自重 :6670kg
全備重量:9160kg
武装 :20mm機関砲(ホ5、弾数各200発)8門 プロペラ:ハミルトン油圧式定速3翅 直径3.1m×3
エンジン:川崎ハ140液冷倒立V型12気筒 1300馬力×3
最大速度:665q/h(高度6,000m)
上昇時間:5,000mまで5分2秒
航続距離:正規・1,400q 過荷・2,100q

各社の試作機が出てきた所で各種試験が行われ、結局最も生産性が良く、問題 発生件数の少なかった同機が勝ち残った。

晴れて制式採用なったキ75乙は「蒼燕」と名づけられ、その生産が始まった。 元々、3式戦闘機の部品を大いに活用した機体のため、配備は順調に進み 昭和20年初めには3式戦闘機からの乗り換え組みで実戦部隊が登場し
「帝都の空に「蒼燕」あり」
と一人気をはいた。特に小林大尉の奮戦は有名である。
「俺が率いるんだから俺の尾翼も赤く塗ってくれ。部隊マークを白で目立たせろ。 敵の度肝を抜くんだ」
小林大尉はそう言って、特攻機と同じような塗装をした「蒼燕」を用いた。 大尉は優位な上方から急降下しつつ自慢の20mm8丁で主翼の付け根を目掛けて 撃ちまくる戦法を用いた。兄貴分の「飛燕」の設計を踏襲した事もあって突っ 込みが効いて高速の安定性も抜群の同機は宿敵B−29を相手に大立ち回りを 見せ、次々と撃墜して戦果を着実に伸ばしていった。一時は米軍の損害が補充 を上回り、攻撃を断念するまでの奮戦を見せた。

しかし、さしもの「蒼燕」の奮戦も補給路を確立した米軍の圧倒的な物量の 前には空しく、昭和20年8月15日の玉音放送と共に太平洋戦争は終わりを 告げた。

戦後、「蒼燕」の可動機1機がアメリカに輸送され、種々のテストを受けた。 この機体が現在スミソニアン博物館内に解体された状態で保存されている。


天城です。私のキ75乙「蒼燕」が第2回競争試作航空機部門制式採用とな り、誠に光栄の至りであります。私に投票してくださった方々に感謝の意を申 し上げます。

今回、競作にあたってはわざと戦記部分を削りました。理由は「競争試作」 であって決して「架空戦史評論会」でないからです。私は前回の競作の際に戦 記を書いてしまったのですが良く考えたら制式採用前のお話の筈。そこでこの 機体の生い立ちまでで勝負に出たわけです。

機体自体は高校のときに「天雷」として描いた機体がモデルです。元々推進 式の機体にエンジンをつけまくった飛行機だったのですが、同じような形の飛 行機があることを「蒼燕」を描く中で知りました。ただ、当の「天雷」は空冷 だったのに対し「蒼燕」は液冷ですが・・・。また「天雷」と言う名前の飛行 機が実在した事も後で知りました。

そう言えばこの「競争試作」の投票コメントを見ていると外観だけで機体を 選んでいる方が居る模様です。投票コーナーの上の部分で、主催者である胃袋 3分の1氏が仰っているように外観だけでなく性能で機体は選ぶべきだと思い ます。ある意味で、外観だけならどうにでも出来ます。例えば、前回の「輝燕」 であれば、機首の環状冷却機を外して翼面冷却にしてやれば、整備性は悪くな りますが見た目はかなり良くなります。しかし、あえてそうせずに環状冷却器 を採用したのは
「翼面冷却を採用すれば、工作に手間がかかる等々と気づく方がおられるだろ う」
と、判断したからです。できればこの様にあえて外観に拘らなかった機体の 作者の気持ちになって競争試作に名乗りをあげた機体や艦船を見ていただきた いと思います。

最後に、私の許可無くしてこの機体、及び私の描いた他の自分の艦船・航空 機の画像やデータの無断転載、2次使用を一切禁止します。